caguirofie

哲学いろいろ

#22

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

性・対関係・相聞 1 ――インタスサノヲイスムについて――(その二)

さて 相聞におけるうたの構造は いかなるかたちを採って現われるのか。いかなる動態的なかたちをとるのか。
あるいは 原形的なS−A連関主体としての存在どうしのあいだに 相聞が発せられ その関係(つきあい=交通)が進展するとき あたかも 分子が互いに化学的に反応するかのごとく もしくはモノが物理的に 分離しまた結合しさらに加工もされるかのごとく 何が反応し 何がその新しい状態へと変えられるのか。あるいは言いかえれば 人は互いに その要素である非アマテラシテ(やみ・業・欲望・けれどもスサノヲ性として反転させうるごとく ふつうの意志・愛そしてそれらを大工が組み立てるかのようにして形成する形相と質料)を どのように交換し また次の段階にどのようにあらためて組み立てなおすのか。これが考察が ヤシロロジのはじめとなる。


はじめに インタスサノヲイスムの問題は つまりスサノヲどうしの対関係および二角関係(まとめて 相聞)の形式形成の問題は さらにつまりはそのような自治共同の問題は この共同自治の中における専従アマテラス主体の社会的な処理(また解放)の形式形成にかかっているであろうと思われることには このアマテラス種族が 一般スサノヲイスムのそこに形成された形式(つまり 対と二角との広く生産をめぐる生活の関係)とその内容(一般に 広く生産のちから)を 観念の資本の動態的な過程において 自己のもとに奪い取るかのようにして収め これを自分の言葉にして表明することによって これら全体を通じてインタスサノヲイスムの先取りによって その主導性・優位性を主張しないではいない このことに起源がある。
つまりいわゆるアマテラス予備軍は もっぱらこのように生きることにおいて そのようによってしか自己の出立を達成できないかのように その内なる非アマテラシテを自治する種族である。言いかえれば アマテラス種族のその主導性・優位性の主張は インタスサノヲイスムのヤシロ主導性を先取りし その仮象のすがたにおいて定立させ スーパーヤシロに居続けるというA圏固有の論理たる習性に発する。この専従アマテラス主体の社会的な解放・つまり新しい自治共同の形式形成のことだが これを インタスサノヲイスムの第一命題としなければならない。
ここで 事を 性関係をめぐる相聞歌に 焦点づけることができる。
《男はカミの似すがたであり 栄光(共同主観)であるから 頭に蔽い(或る種の仕方で 長歌形式)を被ってはならない。しかし 女は 男の栄光である》(パウロコリント人への手紙第1 (ティンデル聖書注解) 11:7)。男は カミの似像であるヤシロの《真理を全体として 観想(理論)するゆえに カミの似すがたである》(アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論 12:7)。
《すべての男のかしらは キリスト(または オホタタネコ)である。女のかしらは男であり キリストのかしらはカミ(ヒトコトヌシ)である。祈りをしたり預言をしたりする(つまり うたを歌う)とき かしらに物をかぶる男は そのかしらをはずかしめる者である。それは 髪を剃ったのとまったく同じだからである》(パウロ:前掲書11:3−5)。
《しかし 信仰(ヤシロロジ)が現われる前には わたしたちは 律法(国家・政治経済学・キャピタリスム=ナシオナリスム法律体系)のもとで監視されており やがて啓示される信仰(主観の多様性 としての万葉)の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は 信仰によって義とされるために わたしたちをキリスト(真正のシントイスム)に連れていく養育掛かりとなったのである。しかし いったん信仰が現われた以上 わたしたちは もはや養育掛かりのもとにはいない。・・・皆 キリストを着たのである。もはや ユダヤ人もギリシャ人もなく 奴隷も自由人もなく 男も女もない》(パウロガラテア人への手紙3:23−28)。
もし 男と女とが このようであるとすれば ともに 非アマテラシテの共同自治の主体として その本性にのっとれば 男が アマテラスとして 女はスサノヲとして 擬するに よりふさわしいと言うべきであるだろうか。

  • わたしは このような意味・かたちでの両性の対関係 すなわち イザナキ・イザナミの相聞関係を 女・スサンナ( Susanna )と男・ヨアキム( Joakim )との社会主体に擬して考えたことがある。すなわち 《女スサンナ(S=スサノヲ)−男ヨアキム(A=アマテラス)》の連関である。ここで スサンナは 象徴的に語義の《ゆりの花》であり  アマテラスは Amateur-asse〔 Amateur(愛する人)を asse-oir(= to let one sit座らせる)であり  Amor-terrasse (愛の座)である。そういうイザナキ‐イザナミ連関である。スサンナ・ヨアキムについては 旧約聖書ダニエル書 (新聖書講解シリーズ (旧約 17)) 第十三章=いわゆるスサンナ物語を見よ。

しかも 古事記で 男は スサノヲであり 女がアマテラスであると記述するのをそのまま裏付けるかのように 万葉集では 男の人麻呂も――殊に人麻呂が―― その頭に蔽いをかぶるようにして 長歌というペルソナを着ているかのようである。原形的なS−A連関が その原初のとおぼしき《イザナキ( Joakim / Amateur-asse )‐イザナミ( Susanna )》連関を 《天照大御神須佐之男命》連関に変えたかのごとくである。女性の――古事記万葉集でその性は女性である――天照大御神が アマテラス主体であり 同じく男性の須佐之男命が スサノヲ者であるかのごとくである。性の転換があったかのようである。
これは 悪くいえば ヤシロの基盤であるスサノヲ圏が その上階であるアマテラス圏によって 主導されるようになったというその転換を反映させたかのようである。よく言えば スサノヲどうしの交通(インタスサノヲイスム)の過程では 経験的に事実問題として あたかもその考えや気持ちや立ち場を取り替えることが起こる。いわゆる最も広く取っての思いやりである。この場合は そのことが分かっているから 支障はまずない。
しかし この文字どおりのアマテラスやスサノヲの性としての立ち場は すでに説明した事情によって解決されるであろう。それは 初期国家の成立の時点を基準とするとき おそらくすり替わったのである。もしくは ヤシロには ヤシロじたいにおいて そういう共同観念的な世界が つまりさらに言えば 幻想共同的な領域が 付随していることを物語っているものと思われる。だから 人麻呂は このすり替えの情況に応じて もう一度《取り替えばや》といううた つまり長歌を 延々とうたわなければならなかったことのようである。
男性の女性化 女性の男性化は 現代でも あらためて問題である。あるいは そのように取り替わった情況でよいのだという問題である。
いづれにしても まず明らかにしておくべきことは もし明示して表わすとするときには 男が amaterasu として 女が susanowo としてあるというのは よりふさわしいであろうと考えられる場合がある。しかし 長歌が必要でなくなる時代においては 男も女も ともに もともとの一人ひとりが 《原形的なS−A連関主体》なのであると明言して ヤシロロジを始めるべきであろう。
ここから ヤシロロジにおける相聞とその形式の問題が起こされるべきであろう。

  • だから あらためて論じるまでもなく 人麻呂も誰も 短歌としての主観を 和歌として――ということは 挽歌・雑歌 / 比喩歌・正述心緒歌・寄物陳思歌・覉旅歌などなどすべて相聞歌として――うたっていないわけではない。また 古代市民以前の歌謡(記紀歌謡)・民謡は 原形的な共同相聞歌であり――すなわち そこでは 主観が幻想的に主観である という意味は 共同幻想的な主観としてある―― 古代市民の次の時代以降の歌謡は 一地域・一組織の民謡・社歌・校歌であるか または 一社会形態全体のアマテラス語を介した共同相聞歌・艶歌等々の歌謡曲である。これらを否定するのは これらを迎え・利用・主導することの謂いにほかならない。

したがって 主観のうたいつぎとしての新しい万葉も それぞれアマテラシテを獲得することにおいて アマテラス語を介さないわけではない。しかしそれらは スサノヲ語の言語二重性の一面として介するものであろう。そうでなければなるまい。また 作詞者・歌手を含めた歌人や俳優(つまり 漱石の《 stars 》)が S圏・ヤシロ主導の形式の上に立って わざをき(業招き――ヤシロのわざをまねく――)として それらの芸術をとおして ヤシロの動態性を見守る過程の中に存在するようになるであろうことは すでに論じた。
ともあれ これらのことは 第一義的には このように主張しておくべき事柄であるように思われる。
そこで 相聞歌の問題を取り上げる番であろう。
(つづく→2006-09-05 - caguirofie060905)