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哲学いろいろ

インタスサノヲイスムについて(4)

むろんここからは このアマテラス族は 黙っていない。


さっそく 一般スサノヲ市民たちに対して 社会的な主導性を奪うかのように――ちなみに 《社会共同の 観念の資本》=《うたの構造》は 簡単に奪うことが出来る つまり まねる・まなぶことが出来るし 互いに取り替えっこすることができる――して むしろ 元からであるかのように かれらの新居であるA圏の・S圏に対する主導権を主張し いわば総合的なアマテラス社会行為というちからを養い形成する。


人間的に徳を積み 知識を得て ますます人間的になろうとしたし じっさい――建て前としてでも――なった。かれらは 勉強家である。


そのあとが また 墜落の道が待っていた。ただし この墜落は 一般スサノヲ市民の中からも 多くを招き入れ 道連れとするものであった。


その限りで アマテラス‐スサノヲ連関は――そのような一部分における・しかし社会的に優位な勢力による動きとして―― 互いの共犯関係にさえなった。スサノヲらも おこぼれにあづかっている。A圏でもS圏でも 総じて《自由民主党》という名で いまでは 《活躍》している。
(つづく)

インタスサノヲイスムについて(5)

アマテラス族は アマテラス社会行為という力を養うようになる。


このちからは かれらが ヤシロ(それは いま唐突に言わば カミの似像である)のそのまた似像としてのスーパーヤシロに立脚しようとする。そしてその限りで いわゆる信仰をその基盤としている。


ヤシロが 自然の信仰を基盤とする限りで これを真似る。


信仰を基盤とするというのは 自然もしくは超自然の存在なるカミ(かみがみ)を合い言葉とする または観念の貨幣とするといったほどの意味である。つまりは まつり(祀・祭)のことである。


このA圏主導的にあらためて形成されようとする信仰は S圏のまつりの真似事として まつりごと(政治)と呼ばれるようになる。


やがては S圏なる第一階とA圏なる第二階からなる二階建てのくにいえ(国家)を築くに至る。

この国家なる社会形態は おおきく ふたつの類型に分けて捉えられるような形態を採るだろう。

(つづく)

インタスサノヲイスムについて(6)

一つに アジア的な社会体系においては ヤシロが 情感の共同性を基軸としており その社会の第二階も その情感の情況と形態を真似た仮象であろうゆえに 一般に 観念の共同といったかたちを採る。


あわれという情感が 一種の観念となり この観念が網の目のごとくまた運河のように 社会の中に張りめぐらされるのである。


社会的な心理の共同であり 《うたの構造(情感の共同性)》をかたちづくる。《観念の資本》である。


これらは 情感を土壌としているかぎりで 一般に事実問題として 呪術的・幻想的である。


人びとは しばしば もたれあっている。観念の網の目は むしろ 裏側で すぐれてよく張り巡らされている。この水路を行けば とりあえず――ことが表に出て発覚しないかぎり―― なんとか なり なんとか しのげる。


いま一つに 西欧的な社会体系においては ヤシロが 個人の意識の流れを基軸としていて やはりある意味でその意識と意識との関係・対立過程の上にさらにその仮象形態として 第二階・アマテラストゥームが作られる。


この主観の共同は あたかも互いに角をぶつけ合うことを通して コミュニケーションがはかられ 幾何学的にして理論的また法律的である。


神学絶対的にもなり(les croisades ) 倫理規範的( scholastique )でもある。
またなお 偶像崇拝的( l'idolatrie )もしくは 物神礼拝的( Fetischismus )などである。


法の仮象を求め あたかも法の顕現者としての英雄を偶像として立てる。人物でないとすれば 物神は 簡単に 権力や貨幣である。


ともあれいま両様に ここに S圏とA圏との連関から成る社会形態が形成されていく。

インタスサノヲイスムについて(7)

ここに S圏とA圏との連関から成る社会形態が形成されていく。


簡単に ふたつの類型を捉えた。いづれも 大きくは 《ヤシロ(S圏)》と《スーパーヤシロ(A圏)》の二つのあたかも異なった概念世界から成る一つの社会形態ができあがる。


古代市民という類型の時から 《S−A連関主体》としての人間の社会は こうして 《S圏‐A圏の連関体制》としての《国家 ihé national 》をかたちづくった。


国家は《くにいえ》と言いスサノヲ市民の生活の拠点である《家》に例を取りそれの仮象形態だと見なす限りでは 家族・家庭としてのまとまりも 当てはめられる部分を持つ。ただし 国家の場合には そのまとまりという事態が 先に来るようである。


すなわち《社会形態》は 国家として 殊に共同観念的な世界を前面に押し出して・または それを一つの社会総枠としての一種のデモクラシとみなして(そうして国民として統合されるなら) A圏主導のA−S連関体制となって現われた。


《共同観念》というのは――《まとまり》ではあるのだが―― ここで 頭(アマテラス語)で立つというその要因である。


SとAとが 逆立ちするかたちでの《家》のごときまとまりである。