caguirofie

哲学いろいろ

#30

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

Inter-Susanowoïsme――性・対関係・相聞 2――(その五)

前説の仮想について 敷衍していきたい。
まず この雑歌十八首の一編の中に ほかに《けむ》または《かね》の語句はない。したがって 他の用例によって この検証をなすべきである。
おそらく 同じ巻七の用法をまず見るべきであろう。そうすると この二首一組の歌(1118・1119)の七首前の歌(1111)と同じくその直後の歌(1120)に《けむ》の例が見られる。いづれも 人麻呂のうたではないが 1111番は《いにしへも かく聞きつつや 偲ひけむ〔偲兼〕 この布留川の清き瀬の音を》というのであって これを 《偲ひかね》と読むと 歌がおかしくなる。1120番は 《誰か織りけむ〔将織〕》であって 除外すべきである。
そのほかには やはり同じように 《刈りけむ〔将苅〕》(1167)《草結びけむ〔結兼〕》(1169)《泊(は)てけむ〔泊兼〕かも》(1225) あるいは別様に 《船乗りしけむ〔舟乗為家牟〕》(1172) 《誰か採(つ)みけむ〔採家牟〕》(1362)がある。
《かね》の語については この同じ巻で《忘れかねつも〔忘不得裳〕》(1399) および 《船寄せかねつ〔船縁金都〕》(1401)があり これらすべて人麻呂歌集とは 無関係である。
そこで 人麻呂の用法をも求めるとするならば その端的な例は 巻一・近江荒都歌の長歌形式一編(29〜31)に見出すことができる。ここでは 《知らしめしけむ〔所知食兼〕》(29)と《船待ちかねつ〔船麻知兼津〕》(30)の二例があるからである。いま 《兼》は 一般的に《けむ》と《かね》との二つの訓読みをかねると言うことができる。
いま 近江荒都歌で 天智朝をなじって 《楽浪の大津の宮に 天の下 知らしめしかね〔所知食兼〕 スメロキの 神のミコトの大宮は ここと聞けども・・・》と読むとすれば 読もうと思えば読めなくはない。だから いま問題にしている1118・1119の二首の歌でも 《挿頭折りけむ》と《挿頭折りかね》と二様の訓読が可能であるとの意味あいは 継いでいると考えることはできる。しかも こう考えると二首一組の歌のつながりは なめらかに解くことができる。
おそらく ここで 1111番の《偲兼》という他歌の用例にもかかわらず 1118番では 《折りけむ‐折りかね》の両様の意味あいを言い含めたと見て差し支えないようなのである。それは 《いにしへに 有り険人も》の《けむ》の原文表記と合わせて――つまり そのように それと別種の漢字を用いることが―― このことを物語っていると考えられるのではないか。
もしこの考え方で進めるとすれば 1118番の歌 《いにしへの人 かれらは 私たちがその母斑をつけているかのように 連続性の地点にも立っているのだが いまの私と同じように 何ものかに橋を架(わた)そうとするかのように そしてそれは ある種の危険を伴なうのだがしかし 三輪の檜原に その木から枝を折って挿頭に挿すということは――むしろ それをしないことが 和(三一性)の弥や増すがごとく―― しなかったのだなぁ》という歌は 何を物語るか。
おそらくわたしには 《かざし折りかね》が 長歌の蔽いをまとわなかったこと それは《険(危険)》を伴なったであろうこと さらに 《折りけむ‐折りかね》の両様の意味あいは おそらくスサノヲイストの言語二重性を示しえたこと これらであろうと思われる。《険》のほうは その内容が 次の歌に よく表わされている。
《手折らねば うらぶれ立てり 三輪の檜原は》である。しかも《しょんぼり立っている》という訓読みの原文表記《裏触立》は 別の意味あいをも伝えているのである。《裏》は 心であり 《触》は 角に突く・当たる・触れることである。おそらく 《手折らず 長歌のまといを着なかったことによって 危険を伴ない しかも同時に 心では何ものかに抵触し抵抗しているのだなぁ》 これである。
そこに 現実の三輪があるとともに また現実の《三和》があると言うというのである。知解‐愛‐記憶の三一性 生産‐経営‐組織(秩序)の三一性に 故意につなげて捉えているのである。この哲学は 不動であって 内部で現実の事情に触れて 弱さを誇るようにして部分的に動いている。
おそらくここで 人麻呂は 《三輪(弥和・三和)のヒハラ》と言って しかし これを《カシハラ》に取って代わるべき概念として提出しようとしたとは思わない。

  • つまり ここで 《カシハラ(橿原)・デモクラシ》とは やはり《A圏(タカマノハラ・たとえば葛城・ヤマト)‐S圏(アシハラ(葦原)・三輪・イヅモ)》連関を指している。

カシハラ・デモクラシは 形相の体系(イデオロギー)として 一種 不変・普遍である。しかもただ カシ(橿)の木に代えるに ヒノキ(檜)を持ってして これを より現実に即して 動きあるものにしようとその視像(イデア)を見ようとしていたとは 言われるべきである。
《かざし折りけむ・うらぶれ立てり(危険・しょんぼり)‐かざし折りかね・うらぶれ立てり(方法の弱さ・抵抗)》 この言語二重性は スサノヲイストのいのちとも言ってよい現実である。
これを 《弥和乃檜原尓(弥よいよの和はなんじ檜原に)》《三和之檜原者(〈三和〉としてゆく檜原なるもの)》のごとく うたい詠んだとしても 和歌としてまた同じ日本人としては さしつかえないであろう。

  • 古尓 有険人母 如吾等架 弥和乃檜原尓 挿頭折兼
  • 徃川之 過去人之 手不折者 裏触立 三和之檜原者

この二首は かくて 十八首全体の影のそして真の主題を構成しているとして まちがいはないであろうと思う。かくて

大穴道 少御神の作らしし妹背の山を見らくし 良しも(1247)

ヤシロの奥なる存在 それは 対関係としては 《妹背の山》(また ちからとしては 《妹勢能山》――なぜなら 女は男の栄光であって むしろその意味での長歌を着るがゆえに ヤシロの実質的な(時間的な)動きを見守り訴えるのにふさわしい――)であり これを見まつるのは 実によろしいと言うのである。

  • 《見らく》は 《見ること》という名詞形。《し》は 強め。

それには 男は もう一つ別の木を持ち出して 《由槻我高仁》とうたい また アマテラス者の踊りを見守るには 《弓月高 雲立渡》とする中に 月と雲そしてそれらに吹く風をうたい これによって 巻目(纒き向かう)の影像を やはり対関係に擬してうたったのである。ここに ヤシロの和(三一性)と動態性とが 《イザナキ‐イザナミ》連関という対関係にこそあると謂われがある。
これが相聞を はじめに戻って つくりなすことであり われわれは ここから出発を開始すべきである。
このインタスサノヲイスムが キャピタリスムとデモクラシとにつながる ヤシロの奥なる存在の別の面での一つの顔(ペルソナ)であると言うのは すでに原理的に承認されたことであるから。

  • 念のために添えるなら カミの三つのペルソナ( démocratie = capitalisme = intersusanowoïsme )は 三つのペルソナにして一つの体――なぜなら カミは 風(霊)である――である。すなわち その似すがたが ヤシロである。人間は おのおの一つのペルソナ――たしかに男も 原形的な《A−S連関主体》として長歌の言葉をかぶらないわけではない――であって 記憶=知解=愛 もしくは 組織=生産=経営の三行為は それぞれ人間の行為であって 人間の有であり そのとき カミのように 三人のペルソナが 集まって一体であるというようにではないが ヤシロの社会過程において おののカミの似すがたなるヤシロに就くべく 一人ひとりが 三一性を主体として表わす実践主観である。
  • 霊なるカミは 三つのペルソナ(父と子と霊と)にして この三位格が一体であることにおいて 普遍不動である。肉なる人間は 三行為カテゴリの一体を 原理的に宿し おのおの一つのペルソナを担うが むしろこの一つのペルソナであることによって カミの三位一体からは この三行為領域の一体性は ほど遠い。
  • 逆にいえば ヤシロが カミの似すがたであるごとく 人間が 同じくカミの似すがたであると言われるとき この三領域行為の一体性は かぎりなく カミに近づく。シントイスムでは これを カミになったと表現している。似すがたとしてカミになったと言っているのである。
  • シントイスム‐クリスチア二スム連関(神神習合)においては 子なるペルソナ 肉なる人に造られたイエス・キリストその人に われわれは かぎりなく似る者となるだろうと言う。
  • これは イエス・キリストにのみ似るであろうと言われるのであって 不死の信仰であるとか 十字架上の犠牲であるとかをさえ 物語っていない。われわれは 《これから どうなるのか まだわかっていない》。だから つづけて 使徒ヨハネ)が言うには

かれが現われるとき わたしたちは 自分たちがかれに似るものとなることを知っている。そのまことの姿を見るからである。
ヨハネの第一の手紙 3:2)

わたしたちは 今は 鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には 顔と顔とを合わせて 見るであろう。
コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 13:12)

  • と述べる。われわれは シントイスム‐クリスチア二スム連関の視座によっては このようにのみわれわれの行路を 理解すべきであろう。
  • また 誰もこの同じ視座によっては 文字に刻まれた共同相聞歌のように 十字架上の犠牲へとみちびかれるものであってはならない。それは 長歌(律法)の主導制を突き破る原理上の犠牲であって キリストに似るものになるための――ならなければならないが その――犠牲ではない。

いったい 律法(法律)の行いによる者は 皆 のろいの下にある。

律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず これを行なわない者は 皆のろわれる。
申命記 (新聖書講解シリーズ (旧約 4)) 27:26)

と書いてあるからである。・・・
キリストは わたしたちのために のろいとなって わたしたちを律法ののろいから あがない出してくださった。聖書に 

木にかけられる者は すべてのろわれる。
申命記 (新聖書講解シリーズ (旧約 4))  21:23)

と書いてある。それは アブラハムの(――たとえば 雄略天皇がヒトコトヌシによって――)受けた祝福が イエス・キリストにあって 異邦人に及ぶためであり 約束された御霊を わたしたちが信仰によって受けるためである。
パウロガラテア人への手紙 3:10−14)

  • だから 

その日 カミは堅く大いなる強いつるぎで逃げるへびレヴィアタン・曲りくねるへびレヴィアタンを罰し また海におる龍を殺される。
旧約聖書〈7〉イザヤ書 27:1)

  • と言うのは 寓意によって理解されるべきであって――風・月・雲・日(アマテラス)・嵐(スサノヲ)などはすべて寓喩であって―― わたしたちに課されることは(そして すでに信じる人にあっては かれが願うことは) ただ 十字架上のキリストを飲みまつることによって 長歌レヴィアタンの主導体制を揚げて棄てるべく 《挿頭 折りかね / うらぶれ立てる三輪の檜原》のその過程へと身をつらねることのみである。
  • したがって われわれの実践主観は その解読(滞留)はこれを措いても これ以上 外へと展開させることであってはならない。だから うたでよい。しかし このうたの構造(インタスサノヲイスム)は デモクラシとキャピタリスムの行為過程へと おのづから拡がるものにほかならないからである。そのとき学問も このヤシロロジを基点にするかのごとく そのペルソナをおおいに移し変えられたものとなるであろう。ペルソナの長歌は やはりあると理解すべきであろう。

(この項目おわり。つづく→2006-09-12 - caguirofie060912)