caguirofie

哲学いろいろ

#6

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漱石英詩註(その五)

さて 最後に掲げようとする詩は すでに一部を引いた《 I rested my head... 》のうたである。
《かのじょのすすり泣く胸に われはこうべをゆだねた》と始めて 第二連で すでに触れたように 双条の光 Twilight がやってくる。その後 第三連では  星 the stars が述べられる。第四連は 《 Ask me not who I am 》の結語の部分である。この後半を掲げよう。 Twilight のやってきたのち

Then came the stars: they seemed to light her golden head.
They seemed to move on her golden head ----one ---- two ---- and three.
The three stars moved and glittered there on her golden head.
And lit her dreamy hair, dreamily flowing in the darkness.


The Twilight is violet still; the stars are always three.
Her bosom is heaving , her breast is white even now,
Her hair forever golden; forever flowing like dreams.----
And I ? Ask me not who I am; for I am not
What was once thought to be, nor 〔 what 〕could ever be !

星 三つの星 《かのじょ》の夢見る金色に輝く髪を照らすつねに三つなる星とは いったい何か。
むらさき色の黄昏のなかで すすり泣く胸 白い乳房 つねに夢見・つねなる金色の髪のかのじょ そのかのじょの踊りが どうだというのか。双条の光のなかで《われ》の変貌は どうだというのか。
すべて 謎である。しかし謎とは 不明瞭な寓喩である。われわれは この謎において栄光から栄光へ かみの霊(πνευμα = wind )によってのように 変えられるのだと言う。この上の詩の二日前( November 27, 1903 )の作品では 《風がやってきて 星々は散らされた》とも言う。

I called to the wind in my dream.
The wind came forcing the Gate of North.
But alas ! The stars were scattered by the wind.

漱石は いったい何を見ているのか。われわれは これらのうたを通して いったい何を見ようとしているというのか。《方法》は 謎に満ちて 現在すると言うべきなのか。
P.ヴァレリの《風立ちぬ。いざ 生きざらめやも。 Le vent se lève. Il faut tenter de vivre. 》は 旧いとしても かのじょの踊りが どうだというのであろう? 雷霆(はたたがみ)が 風を起こすというのだろうか。タケミカヅチが かのじょの踊りを呼ぶのだろうか。

イスラエルがエジプトをいで
ヤコブの家が異言の民を離れたとき
ユダはかみの聖所となり
イスラエルはかみの所領となった。
海はこれを見て逃げ
ヨルダンは うしろに退き
山は雄羊のように踊り
小山は子羊のように踊った。
海よ おまえはどうして逃げるのか
ヨルダンよ おまえはどうして うしろに退くのか。
山よ おまえたちはどうして雄羊のように躍るのか
小山よ おまえたちはどうして子羊のように踊るのか。
地よ かみの御前におののけ
ヤコブのかみの御前におののけ。
かみは岩を池に変わらせ
石を泉に変わらせられた。
(《詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ)》114)

おほきみは かみにしませば 天雲の雷(いかづち)の上に廬(いほ)らせるかも
おほきみは かみにしませば 雲隠るいかづち山に宮敷きいます
万葉集 巻三・235番)
おほきみは かみにしませば 真木の立つ荒山中に海を成すかも
(三・241)
おほきみは かみにしませば 赤駒のはらばふ田井をみやこと成しつ
(十九・4260)
おほきみは かみにしませば 水鳥のすだく水沼をみやこと成しつ
(十九・4261)

そして 近代市民であるスサノヲ・キャピタリストたちも これ以上のことを為した。何が躍るのか。何を躍るのか。タケミカヅチの起こす風は 星々を吹き払って 何をどう変えるというのか。
われわれは どこへ変えられるというのか。われわれの方法は 何を実践すべきだというのか。それをも問うなという答えが返ってくるだろうか。
われわれは ふたたび

海よ おまえは どうして逃げるのか
ヨルダンよ おまえは どうして うしろに退くのか
山よ おまえたちはどうして雄羊のように躍るのか
小山よ おまえたちはどうして子羊のように踊るのか

と問うことで――これが 《かのじょの踊り》だということで―― 締めくくることができるなら これで 漱石の英詩への註解は果たしたということにしよう。それは ひそかに いや おおやけに 来たるべき新しいルネッサンスを目指すことをもってであるだろうから。
(この項おわり。次につづく→2006-08-20 - caguirofie060820)