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哲学いろいろ

#2

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漱石英詩註(その一)

夏目漱石金之助という人は 不幸な男であった。
不幸な人であったかどうかは 分からない。その作品の芸術性は ここでは問わない。けれども 一体にかれは 不幸な男であったと思われ それは かれの数編の英詩によく表われている。十一篇ほどから成るようだが それらが全体としてひとまとまりのかれの《うたの構造》をもよく表わし さらにはかれの世界の方法を物語る。


漱石は 明治三十四年(1901)から三十七年までの間に 十一篇の英詩を作った。これらの詩作品を われわれの方法で 読んでみたい。無駄ではないだろう。


一体に 漱石という男にあっては 《アマテラス》が存在しており 神話どおりに 女である。神話上で弟であり 同じくその通り男である《スサノヲ》も 登場しており これは ひとりのアマテラスをめぐって ふたりのスサノヲとして 互いに争うことになっている。しかも いづれのスサノヲにとっても おのれと女性であるアマテラスとの間に 橋を架けることは 難しかった。漱石のうたの中では 男性が 方法の上で 孤立している。先に結論して言えば これは うたにとって 不幸である。


かれの最後の詩は 明治三十七年四月( April 1904 )のもので アマテラスとスサノヲとを 《 you and I 》と呼んで 次のように始めている。

We live in different worlds, you and I.

全十七行の最終の一行は 次のようだ。

And I am forever mine and not yours !

そしてこのうたは 同じ明治三十七年の二ヶ月前の詩に呼応している。

水の底、水の底。住まば水の底。深き契り、深く沈めて、永く住まん、君と我。
・・・
うれし水底。清き吾等に、謗り遠く憂透らず。
有耶無耶の心ゆらぎて、愛の影ほの見ゆ。

これは 同年二月七日の寺田寅彦あてのハガキにしたためられたもので かれの《新体詩》作品のひとつとして 《水底の感 藤村操女子》と題されて 編まれたものの最初と最後の部分である。
ここでの《君と我》が 《深き契り》の中に存在するとするなら 先の英詩はその《 you and I 》の中には 《愛の影》すら《ほの見》えることがないと言わねばならない。
漱石は この年からなお大正五年(1916)まで生きたのであるが このときの《 you and I 》のうたと 《水底の感》のうたと そしてこれら両者のあいだの関係を見ようと思えば ほかにかれの漢詩にもまた和歌にも 容易に見出すことができる。これらは 当然のことであろうが たとえば漢詩では 明治三十三年の次のうたを挙げることができる。

    無題
生死因縁無了期 色相世界現狂癡
・・・
得失忘懐当是仏 江山満目悉吾師
前程浩蕩八千里 欲学葛藤文字技

《得失忘懐当是仏》の句が 華厳の滝へ投身した藤村操への《水底の感》を表わし 《前程(=前途)浩蕩八千里》の句が かれ漱石が自然を生きたことを表わす。そのとき それは 《欲学葛藤文字技》に生きたことを同じく示し しかも 《江山満目悉吾師》であると言いながら その《見わたす限り(満目)の江山》の一部とも思える《色相世界》は これを《現狂癡》として退けるかのごとくである。だとすれば 《 you and I 》の世界のほうを表わしている。両方の世界が含まれている。
いま俳句はこれを――特別の理由からでないが――除こうと思えば ごく数少ないかれの和歌からは 次のうたを拾うことができる。

    阿蘇山二首  明治三十二年九月五日
赤き烟黒き烟の二柱真直に立つ秋の大空
山を劈いて奈落に落ちしはたゝ神の奈落出でんとたける音かも

《赤き烟(けむり)黒き烟の二柱(ふたはしら)》が 《 you and I 》ないし《君と我》に擬されていることは 容易にわかる。《はたゝ神(または はたはたがみ)》は 《霹靂ないし霆》のことであり 古事記でも アマテラスのタカマノハラとスサノヲのアシハラミヅホの国とを取り結ぶ《タケミカヅチ(猛御雷)》が登場するように 《 you and I 》または《君と我》とのあいだに介在するであろうことを物語っている。

  • なお この和歌二首については 小説《二百十日》(明治三十九年)が参照されるべきである。いまは深入りしない。

英詩のほうに戻るなら 先の《 you and I 》のうたは 《秋の大空に真直に立つ赤き烟黒き烟の二柱》のさまを ほしいままに描いている。

We live in different worlds, you and I.
Try what means you will.
We cannot meet, you and I.
You live in your world and are happy;
I in mine and am contended.
Then let us understand better
Not to interfere with each other's lot.
We break an ox's horn by bending it;
We are not meant to be broken like that !

前半の一連である。終わりの二行の《牡牛の角を矯める》ことであるとか 《その牡牛の角を曲げるようには 〈君と我〉は 仲たがいする( to be broken )ようにはできているのではない》であるとか 馴染みのある語句でありつつ 実際の中味はやや難解である。
後半の一連は 《阿蘇山二首》と同じようにして 《奈落に落ちたはたゝ神がそこから出ようとする》というような姿勢 しかも そこでは このはたた神の介在をむしろ突き放すようにしてうたう姿勢 これらがうかがわれる。

Your world is far away from me.
It is veiled with mile of mist and haze.
It is in vain that I should strain my eyes
To catch glimpses of your abode.
Flowers may there be; and lots of things pretty,
Yet never in a dream I wished to be there.
For I am here and not there;
And I am forever mine and not yours !

はじめに 《漱石のうたの中では 男性が 方法の上で 孤立している》と述べたが ここでそれは 《 you and I 》の互いの乖離として 積極・消極の両方向において捉えるべきであろう。ここで漱石がうたうことは 《〈我〉は〈君〉の世界に居ようとは思わなかったが それは 〈幻想をとおして in a dream 〉ではないからだ》と言っているからである。 
《決して夢の世界で 〈君〉の世界の中に一緒にいたいと思わない》と言うのであって 《夢の世界をとおしてさえも〔 never 〕 in a dream 》と言っているのではないからだ。(誤読でも そう読みたい。)かれはここで 《秋の大空に二柱が真直ぐに立つ》という和歌を 裏付けている。これが 積極的な意味である。その反面の消極的な意味とは このまっすぐな宣言という表現じたいをかれが採ったということ自体にある。
かれは 《山を劈(さ)いてタケミカヅチ(雷)は奈落の底に落ちた》と言う。《君は君 我は我 I am forever mine and not yours 》と言うのであって また《タケミカヅチが 奈落の底から出ようとして〈猛る音〉》を その傍らにあって聞いている。またこれは 先の前半の一連の終わりの二行との関連の問題にもつながっている。
これまでのいきさつから言って その二行での《牡牛の角 an ox's horn・それを曲げ bending it・また折る break 》といったことは はたた神ないしタケミカヅチに通じると考えてよい。つまり 仲介者の介入の問題である。(《角を矯めて牛を殺す》というところまでは 進まないほうがよいと思われる。)
もしそうであるとするならば 次の行の《 We are not meant to be broken like that !》の意味するところは 《 山を劈いて奈落に落ちしはたゝ神》のその《奈落に落ちた》ことじたい もしくは そもそも《山を劈く》ことじたいに対する概念的な否定の辞であると考えなければならない。
そしてこの真直ぐな宣言――方法の上の真直ぐな宣言――は ここで消極的にとらえるべきもののようなのである。
つまり 漱石のうたは こうである。アマテラスとスサノヲとの互いの連関と乖離に対して タケミカヅチが介在することに疑問が寄せられている。いや そもそも A者(アマテラス)とS者(スサノヲ)とのその乖離じたいに 強い否定の視点が投げかけられていると思われるのだ。われわれは これを《男にとって 不幸である》と言おうとしている。
別の詩編に見れば こうである。


A(アマテラス)‐S(スサノヲ)の連関の生じるそもそもの初め またはそのとき自体での乖離 これを 《 Dawn of Creation 》と題したうたは うたう。
そこでは 《 Heaven 》が アマテラスであり 女性である。《 Earth 》が スサノヲであり 男性である。さらに前もって 註解を述べるなら 《はたた神ないしタケミカヅチ》は 文字どおり《 Thunder 》である。(じっさい よく符合している。)そして この《 Thunder 》のより社会的な役割は 《ツクヨミ the moon 》もしくは《星々 the stars 》によって担われるという想定である。ツクヨミ(月読み)は 暦を司り 祭祀・行事の事務に当たる。そういう仲介者である。全体としてそういったうたの構造から成っている。
全編をかかげる。

     Dawn of Creation

Heaven in her grief said: " Wilt thou kiss me once more ere we part ?"
" Yes dear," replied Earth." A thousand kisses, if they cure thee of thy grief."
They slept a while, souls united in each other's embrace.
They were one ; no Heaven and no Earth yet,
When lo ! there came Thunder to lash them out of slumber.
It was in the dawn of creation, and they have never met since.
Now they live wide apart:
And though the pale moon never tires to send her silent message with her melancholy light,
Though all the stars wink and beckon night after night,
Though all the tears fall mute and fresh to crystallise her sorrow on every blade,
They have never met since.
Alas ! Earth is beset with too many sins to meet her.
August 15, 1903

タケミカヅチ= Thunder が二人を引き裂く前には――しかし 引き裂くことが 時間の初め= the dawnof creation であると考えられるが―― アマテラスとスサノヲとは ひとつであった= They were one.。そこには 天も地もなかった= no Heaven and no Earth と言う。時間が生まれたあとには かれらはもはや会うことはなかった= They never met since.。タケミカヅチに代わるビュロクラット( the pale moon )やスターたち( the stars )の介在にもかかわらず スサノヲ( Earth )の側には あまりにも深い罪( too many sins )があるとの思いが深く この溝を埋めて アマテラス( Heaven )にふたたび会うことは かなわなかった。
これが 漱石の方法の消極的な側面である。
それには この一編の中でも最初の数行において ふたりが一体であった頃 そこではむしろアマテラスもスサノヲもなかったという頃 そのとき 一方で《君 Heaven 》がいて 他方に《我 Earth 》がいて 一方は他方に 《別れる前にいま一度 口づけされたし》と言い 他方は一方に《別れの悲しみを癒せるなら 何度でも》と応えているということに照らせば その論理上の・および うたとしての矛盾を指摘することで足りる。けれども われわれは もう一編 別のうたを取り上げてみよう。
無題のうた。

They had words together:
They measured their swords.
Each sword drank deep of his enemy's blood.
All this for her whom they dearly loved.
Loved was she; and she killed them both in return.
In killing them she never shed a drop of her blood.
Yet every drop in her is turning gall now.
There she sits; let her sigh.
There she sighs; let her lie.
There she lies; let her die slowly
Without shedding the single drop
Of blood or tear for her lost lovers.
November 27, 1903

ここでは 積極的な側面がよみがえったかの感を持つ。先のように スサノヲ対アマテラスの図式ではなく 複数のスサノヲ( they / her 〔lost〕 lovers )対アマテラス( she )の関係である。その中に はじめの《君は君 我は我》のうたが うたい返されている。
時間の初め( in the dawn of creation ) 天と地が別れてのち 《地》の側では スサノヲどうしで対立し この対立関係が そのまま《天》にも向かいあったかたちである。天は この向かいあったかたちの中に どちらのスサノヲに対しても そのかれらの闘争とその結果に対して 血を流さなかったし 涙を見せなかった。しかも 血の一滴または涙のひとしずくが かのじょの中にあって 一つひとつ こぶ( gall )になったと言う。だから 《はたた神の奈落から出ようとして 〈猛る音〉》をかたわらで聞くかのようにして 《かのじょの衰退 sit - sigh - lie - die 》の過程を捉えて うたう。
したがって この《かのじょの衰退》の過程は この二日後の詩の中で 次のようにうたわれている。

・・・
Then came the Twilight; gliding from afar with love:
Soothing it came and wooingly it wrapped us up
In her thickening light, thinner than the moon,
That eternal Twilight ! That enchantress who lends
Enchantment to everything we see and makes it all violet.
...
November 29, 1903

《双条のひかり Twilight 》 とは何だろう。《ツクヨミの光よりも繊細なあふれる光 〔 her 〕 thickening light, thinner than the moon 》を持って 《われわれを覆い包む wooingly it wrapped us up 》《たそかれ》とは 何であるか。
この同じ詩は 次のようにしめくくられている。
双条の光が紫色に染められてとどまる( the Twilight is violet still )とき 《かのじょ》の胸は 波打って すすり泣いている( Her bosom is heaving )。そもそもこの詩の第一行は 《かのじょのすすり泣いている胸に わたしはそっと こうべをめぐらした I rested my head against her heaving bosom. 》によって始められている。このとき 《このわたしは?と訊かれても わたしが誰なのか問わないでほしいと答えるよりない。なぜなら わたしは かつてそうであった者でも かつてなれたであろう者でもないのだから。 And I ? ask me not who I am; for I am not / What was once thought to be, nor could ever be ! 》と言う。
この《黄昏》とは 何であるか。

ここで われわれは 別のうたに逃れよう。月 the moon とは何であるか。天 Heaven と地 Earth とは何であるか。イカヅチ・はたた神 Thunder とは。これに答えるべく和歌の作品に逃れよう。

     討月有感 二首 明治二十二年九月
蓬生の葉末に宿る月影はむかしゆかしきかたみなりけり
情あらば月も雲井に老いぬべし かはり行く世をてらしつくして

この《月》とは 何であるのか。
それでは 漱石の和歌をも去り――俳句は措いて―― 新体詩に逃れよう。新体詩は 先に掲げた《水底の感》のほかに あと二編ある。
明治三十七年五月十日《帝国文学》に発表された《従軍行》と題したうたは 六行一節の七連から成り 次のようにうたう。

       従軍行

   一
吾に讐あり、艨艟(もうどう=いくさぶね)吼ゆる、
    讐はゆるすな、男児の意気。
吾に讐あり、貔貅(ひきゅう=猛獣→勇猛な軍隊)群がる、
    讐は逃すな、勇士の膽。
色は濃き血か、扶桑の旗は、
    讐を照らさず、殺気こめて。


   二
・・・
燦たる七斗は、御空のあなた、
    傲る吾讐、北方にあり。
・・・


   四
空を拍つ浪、浪消す烟、
    腥(なまぐ)さき世に、あるは幻影(まぼろし)。
さと閃めくは、罪の稲妻、
    暗く揺くは、呪ひの信旗。
・・・


   五
殷たる砲声、神代に響きて、
    万古の雪を、今捲き落す。
・・・

《罪の稲妻》が《さと閃めく》と言い――詩の中では どうしようもなく そうであり―― 他方 《呪ひの信旗》が 《暗く揺(〔ゆれ〕うご)く》と言う。
同じ年のもう一編には こうある。

     鬼哭寺の一夜
百里に迷ふ旅心、
古りし伽藍に夜を明かす。
(中略)


折りしもあれや枕辺に、
物の寄り来る気合して、
(中略)
吾を呼ぶなる心地して、
石を抱くと思ふ間に、
仏眼颯と血走れり。
立つは女か有耶無耶の
白きを透かす軽羅(うすもの)に
空しく眉の緑りなる
仏と見しは女にて、
女と見しは物の化か
細き咽喉(のんど)に呪ひけん
世を隔てたる声立てゝ
われに語るは歌か詩か


『昔し思へば珠となる
睫の露に君の影
写ると見れば砕けたり
人つれなくて月を恋ひ
月かなしくて吾願
果敢なくなりぬ二十年
ある夜私かに念ずれば
天に迷へる星落ちて
闇をつらぬく光り疾く
古井の底に響あり
陽炎燃ゆる黒髪の
長き乱れの化しもせば
土に蘭麝の香もあらん
露乾(ひ)て菫枯れしより
愛、紫に溶けがたく
恨、碧りと凝るを見よ
未了の緑に纏はれば
生死に渡る誓だに
塚も動けと泣くを聴け』


・・・
塚も動けと泣く声に
塚も動きて秋の風
夜すがら吹いて暁の
茫々として明けにけり
宵見し夢の迹見れば
草茫々と明けにけり

鬼哭寺に一夜を過ごす《われ》に 《歌か詩か》が 《語》ったと言う。
《昔し思へば珠となる / 睫の露に君の影 / 写ると見れば砕けたり・・・》は 《きみとわれ》の構造にほかならない。ここで ふたたび英詩の世界に帰ることができる。次の詩を見よ。

(つづく→2006-08-16 - caguirofie060816)