#14
――ポール・ヴァレリの方法への序説――
時間的なるもの もくじ
- α 序――《出発》としての《時間》――:2006-06-24 - caguirofie060624
- β 《時間》――《意識》的と《情感》的と――:2006-06-25 - caguirofie060625
- γ 《意識》――文学・社会思想的と社会科学的と――:2006-06-26 - caguirofie060626
- γ‐2:2006-06-27 - caguirofie060627
- δ ふたたび《意識》とそして衣服としての《情感》――:2006-06-28 - caguirofie060628
- δ‐2:2006-06-29 - caguirofie060629
- ε 情感による《衣替え》の《時間》:2006-06-30 - caguirofie060630
- ε‐2:2006-07-01 - caguirofie060701
- ζ 社会科学的意識による《時間》の《衣替え》:2006-07-02 - caguirofie060702
- ζ‐2:2006-07-03 - caguirofie060703
- ζ‐3:2006-07-04 - caguirofie060704
- η 《情感》の社会科学的領域――政治・まつりごと――:2006-07-05 - caguirofie060705
- θ 現代における《時間》――衣替えに関連して全体的な《情況》――:2006-07-06 - caguirofie060706
- ι 結び――《時間》における《出発》――:本日
ι
《不滅の生を望むな / 力の及ぶところを究めよ》というピンダロスによる主題を掲げたのは 西欧人ヴァレリであった。しかし この詩人の命題は 西欧における情況 言いかえれば キリスト教の系譜の中においてのひとりの《自己》による時間(その構造)の披瀝であった。
ヴァレリのこの命題が これまでぼくたちが捉らえてきたように《社会科学》の視点と《自己》との統合に対する困難さを表明するものであるとするなら 逆にかれは この中心点における統合を見る一思想的系譜に反を唱えたことにほかならない。
いまこのピンダロスによる主題が テレンティウスの主題でもあったことを想起すれば ちょうどこのテレンティウスに触れて アウグスティヌスが次のように述べるとき それは まさに ヴァレリが異を唱えたキリスト教の系譜の一中心的命題を語っている。
・・・テレンティウスが賢明にも
汝の欲するもの起こり得ぬゆえに
汝のなし能うものを欲せよと語った・・・。
この言葉の凱切なるを誰が疑い得ようか。しかし これは悲惨な人に いよいよ悲惨ならざらんため与えられた助言なのである。
ところが すべての人がそうあることを欲する幸福な者には 汝の欲するものが起こり得ぬ と言うのは正当でもなく真実でもない。なぜなら もし彼が幸福であるなら 彼が欲することはみな起こり得るからである。
それというのも彼は起こり得ないことは欲しないから。けれども このような生は私たちの可死性の生ではない。それは不可死性が存在するであろうときでなければ 存在しないであろう。もしこのような生が人間には決して与えられないとするなら 浄福を問い求めても空しいであろう。浄福は不可死性なくしてはあり得ないからである。
(アウグスティヌス:アウグスティヌス三位一体論 13:7)
また 《可死性》が 有限性であり 《不可死性》が無限性のことであるとするなら G.W.F.ヘーゲルは この系譜を次のような表現において述べる。
無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(――もしくは《時間》――)の高さである。
(ヘーゲル:法の哲学〈1〉 (中公クラシックス) §35追加。括弧内は引用者。)
《宗教が人間を創るのではなく 人間が宗教を創るのである》と述べたマルクスも また この《法の哲学》の一地点 もしくは このような個体的な中核を はずしてはいないと考えられる。
- 《Iヘーゲル国法論批判》(ヘーゲル法哲学批判序論―付:国法論批判その他 (国民文庫 30))の引用文(〔ζ‐2〕2006-07-03 - caguirofie060703)においても 《無限性》は 《民主制》において端的に表わされているだろう。
ピンダロスの主題を立てたヴァレリは この系譜の中において なお 一視角として 《自己》を主張したのであることは あらためて述べるまでもない。
・・・私はこのしごとを・・・一つの試みとして そしてこの試み自体を こういうものをひとが試みたことはまだないということに私が気づいたときに私が抱いた驚きのしるしとして 提出する。
もし自分の制作が無価値でなければ――それは大いに貴重であり 自分はそれを自分のためのものとして取っておく。もしそれが無価値なら――それはなんのためにもなんの値打ちもないわけだが 自分はそれを――誰のためでもなく 取っておく。
(ポール・ヴァレリ:カイエについて(Les cahiers in “Cahiers” 寺田透訳)
そこで ふたたび ぼくたちの情況が問われる。
すでにぼくたちは いくらか 吉本における日本的な時間として 二重構造――二重本質――に触れた。一方で 水田・平田・吉本らに見られた あの中心点における縁組みの成立を見る視点があり 他方で ヴァレリとは異なる意味で ぼくたちの情況としてその社会的土壌の点において この縁組みの成立が 困難であるとの視点の生まれる構造 これがあった。
もしこの社会形態的な把握が誤っていないとするなら 一つには 平田が示唆するように 日本におけるキリスト教の受容の系譜を ぼくたちは内に省みることが必要であり 正しく それと対峙するべきである。(それは たとえば 大岡のように。)一つには ぼくたちの情況の歴史的な本質としての共同観念を正しく とらえることが 課題となるだろう。
唯一神体制としてのキリスト教の系譜の中で 《〔古えの〕神々の沈黙に / じっと / 耳を傾けていた》のは ヴァレリであった。ぼくたちは 非キリスト教の系譜において ぼくたちの《神々》の沈黙――喧噪?――に耳を傾けるべきであろう。 《社稷》が 永遠の火を象徴し その意味で ぼくたちの時間における無限性を指し示していると考えられなかったわけではないからである。《道行き》が 新たなる共同情感を得ようとして 行為するとき 不可死性の存在を表わしていなかったと誰が言おうか。ぼくたちの《情感の共同性》情況においても 確かに――あのアウグスティヌス‐ヘーゲルの地点と その信仰の原理こそちがっていても―― やはり同じく 無限性‐有限性の構造は無論のこと 固有の意味の《社会科学‐社会思想(文学)》構造という時間の位相をもたなかったとは言えない。
ただし 資本制社会の普遍性(世界史性)以降 言いかえれば 思想的に マルクスの出現以降 現代におけるぼくたちの時間は より複雑である。そこではさらに日本的――もしくは アジア的――情況と 西欧的――キリスト教的――系譜との 構造的な対立・相互発展過程がひとつの課題となっている。
そしてそこでは マルクスとヴァレリとの対峙をそのまま ぼくたちの情況へと移し変えるわけにはいかないのであって それは ヘーゲル以後の西欧の系譜において 《ユダヤ教の崇高な理想であ》るキリスト教を揚棄しようとするかれらにとって 《ユダヤ教の社会的解放〔が〕ユダヤ教からの社会の解放である》とうたわれた方程式から言えば ぼくたちの情況における多神教もしくは汎神論 という無神論の声に まず 耳を傾けることを 一方の(直接の)課題とし それとともに キリスト教ないし非キリスト教的キリスト教の系譜との対決・共存が 前進のための他方の課題となると考えられるのである。(つまり この限りで あたかも二重本質。)
この点では 最後に述べるとするなら 社会科学は それが 本来 経験科学であるという性格(制約)を有することは承知しながらも 単に 帰納法的に もしくは 西欧の系譜を基準(準拠枠 frame of reference )とする演繹法のうちに帰納法的に だけ成されるのではなく むしろ 初めに 準拠枠は 構造的に二者(アジア的および西欧的もしくはそれ以上)存在するという地点を初発の地点として 明言したうえで 遂行されるべきではないかと考えられる。
ぼくたちにとっては それは 《社会科学‐社会思想(文学)》体系が 情感(アジア的)と意識(西欧的)との双方の視点から捉えられるという社会構造であり おぼろげながら そのような構造的視座ということにまずなるだろう。一つには 経験科学としての社会科学が価値観から完全に自由に説かれうるものでは決してないものであり 一つには 反面で 価値自由的であるためには そこに存在する価値観(特に 情感といった明示的でないものを含めて)を 微妙な言い方であるが それぞれの社会構造じたいの中で固有なかたちにおいて捉えないでは それが成り立ちがたいと考えるからである。――が この議論はもはや別の機会に譲ることにしたい。
ぼくたちは以上において これまでの日本において著わされた時間の方法について その覚え書きを取り ある意味で社会科学の方法に関して 小さな検討をおこなった。この次の課題は 一つには その方法を 具体的に示すことにあるだろう。
(《時間的なるもの》 おわり)
ポール・ヴァレリの方法への序説 正誤表
page line 誤 正
13 9 ぼくたちの対比 ぼくたちとの対比
〃 10 髪は夜空にさかまいて 《夜空に》は傍点不要
32 2 社会科学を分析 社会科学が社会を分析
41 10 (なし) (加藤周一《羊の歌》)
69 9 p.76 p.67
79 6 《個体の幻想》というときのそれ ・・・というとき〔さえ〕のそれ
91 11 ・・・Wealth of Nations》ch.? ・・・Nations》bk.? ch.?
96 11 どんな 自然的 どんな自然的
109 18 ’υλη ‘υλη
110 2 成る。形相 成る形相
121 9 lib’erte liberté
128 3 形相因 《形相因》に イデア のルビ付す
130 8 コミュスニム コミュ二スム
142 16 対応するものと考える。 ・・・考える(《世界認識の方法》)。
148 13 軍国主義 ミリタリスム
151 13 スサノオ スサノヲ
158 11 べきであろう。 べきであろう。(まさに《知〔解行為〕は〔生産〕力なりscientia est potentia》と。)
166 6 としての国家〕が存続 の国家〕がそれぞれ別個に存続
177 3 おおきくもしくは おおきく または
181 2 初発の・共同主観 初発の 共同主観
184 9 資本であるかのように 資本であるからのように
185 4 existecne existence
186 2 このような視点 以上のような視点
187 4 περεγκλιλσιs περεγκλισιs
218 19 共同性(ナシオナリテ〔社会階級性〕の祖体) 共同性(ナシオナリテ〔社会階級性〕)の祖体
234 16 《社会科学〔主体〕資本》 《社会科学〔主体〕−資本》