caguirofie

哲学いろいろ

弁論術・修辞学

さてある雄弁家が言った。

雄弁家たるものは教えるように 魅了するように 説得するように語るべきである。
キケロ:雄弁家 21:69〔弁論家について〈上〉 (岩波文庫)〕)

彼が言ったことは正しい。さらに付け加えて言う。

教えることは必要なことに 魅了することは快さに 説得することは勝利に属する。

この三つの中で 最初に述べていること すなわち教えることの必要性は われわれが何を話すかにかかっており 残りの二つはわれわれがいかに話すかにかかっている。・・・
アウグスティヌスアウグスティヌス著作集 (第6巻) キリスト教の教え 4:12〔三種類の文体〕)

頭の痛い話である。そしてただ 部分的には 次のようにも つけ加えていてくれる。

しかし話すことによって真実が示されれば伝達の任務が果たされる。とすれば 魅了することは必要事でないし 雄弁もいらない。
真実そのものや雄弁そのものが 快さを与えることに注意をはらうには及ばない。真実が明らかになるとき それは真実だから それ自体で快さを与えるのである。だから虚偽があかるみに出され 確証されたときにも しばしば快さを与える。
(ibid. )

《レトリック(弁論術・修辞学)とロジック(論理学)》を相い反する二つの領域として互いに闘わせるのではなく・・・という見解も重要だと思う。→id:namdoog 060706