caguirofie

哲学いろいろ

#11

――ポール・ヴァレリの方法への序説――
もくじ→2006-07-07 - caguirofie060707

ζ‐3

ぼくたちが いま見ようとしている点は 別の角度から述べれば 次のようである。
例によってまず引用から始める。

  • 次の引用については 平田によるマルクスに関する専門的な研究論稿の中のほんの一節であるので 礼を失しないまでも 前後の脈絡との関係で 誤解があってはならないとは思われる。ここでは ぼくたちの議論の推移によって 《時間》の点でその意図するところを判別して読んでいきたい。

資本論〈第1巻(上)〉 (マルクス・コレクション)》に完成されていくマルクスの経済学が社会変革の社会科学(――この概念はすでにぼくたちのもとにある・・・引用者――)であること 今日ひとは好むと好まざるとにかかわりなく これを承認する。しかし 変革の経済理論は その始源的論理次元たる価値=貨幣論(――このことの詳細は いまは読み飛ばされよ・・・引用者――)において すでに変革の経済理論なのである。
もとより価値=貨幣論は 市民社会としての資本家社会の最も抽象的な論理次元に属するものである。それは 上向の旅のすすみゆく出発点であり その始源としての意義は その上向的展開のうちに より具体的に開示される。しかしこの始源の次元における理論の 変革の理論としての意義を それ自体として探求することなく 変革を物語る者は マルクスが提起した根底的変革をついに知ることなき“マルクス主義者”である。
重ねて言う。マルクスの価値=貨幣論は そのうえに展開されるべき諸論理次元において変革の理論であるだけでなく それ自体においてすでに 変革の基礎理論なのである。
それが照らしだすもの。私的所有の外的対象諸形態とその運動の まさにその足下に 普遍的な 完成された人格的依存関係がある。ゲゼルシャフトとしての市民社会の根底に ゲマインヴェーゼンがある。このゆえに 私的所有の廃絶をつうじての 全面的な人格的依存関係=ゲマインヴェーゼンの 自覚的形成としての未来が いまだ実現することなく しかも すでに その成就の道が踏みしめられている。脚下照覧。人間生存の かつてより存在し今ある原決定 Urbestimmung への還基。
(平田清明経済学と歴史認識 pp.157−158。太字は 原文で傍点の箇所。)

これだけの引用からは 読み取りにくいかもわからないが それでも ぼくたちは ともに《時間的なるもの》における出発を模索してきたからには 平田はここで――マルクスのテクストの読みが正しいかどうかの次元をたとえ別にしても―― 要するに あの中心点における縁組みが十全に成立するというだけではなく その制約からの出発が その初夜から・つまり いますぐここから 始まるという方向を述べているのを見る。

  • ブッディスム風にいえば 即身成仏だというのである。その成仏即身たちは 個人としても社会としても そのときから コミュニスムの道を邁進していくと言っている。
  • ちなみに ブッディスムにあって 即身成仏の思想も それが 《あるがまま》主義でないならば 中心点における縁組みからの出発の議論(実践)を担って 時間過程にある。

このような点に関する認識および主体的意欲(つまりまとめて 実存)は ことの本質から言って ここだけに限って現われるという部分的あるいは例外的なものでないことは むしろ確言されるべき事柄に属すと言ってよい。すなわち この点から言えることは 表現の便宜として許していただくとすれば  平田は 初発には むしろ 遠藤の信仰原理に立って 遠藤のばあい 必ずしもいまだ踏み出されていなかった時点から その出発を開始しようとしているかのようである。
言いかえれば 平田は 日本人として――そしてかれが 自己の私的および個体的出自としての日本人であるということは かれの表現をまねれば 類的であるということになるが――かれは 初めにおいて キリスト教的《時間》の中に入り そのまま即 マルクスのあの中心点における出発という洗礼を受けて そこにおいてかれに固有の時間を展開しようとしているように見える。
別の表現をするならば 一方で 水田が マルクスの《時間》に初発において立つとき 水田は その表現されてくる文章は 《時間》的に言ってそのまま 何度も言うように自然法思想に則り 神学的である。それに対して他方 平田は マルクスの《時間》を そしてその展開を 読むとき その読むことによって 平田は その表現されてくる平田の文章は――キリストとの関係において・もしくは その関係を マルクスを通すかたちで――そのまま同伴者=イエス的《時間》をたどっているかのようである。
以上のように考えられる。
平田の《時間》の方向および色彩については 語り足りないというよりは 言葉にして語りがたいと言ったほうがよいかも知れない側面がある。また 次章以降でもいくらか触れるつもりである。
いづれにしても この章で ぼくたちは 遠藤および平田の両者を引いて 何を語ったか。それは たとえば 漱石が模索しつづけた情感の共同性への再婚であったろう。または逆に 第四の意識への縁組みの破談(――つまり 西欧における成約は 日本における破談であり この破談において 西欧の成約の根底にあるキリスト教的時間の日本における復活――)そのものであったろう。
ぼくたちは しかし まだ立ち止まれないだろう。その点 《時間的なるもの》について さらに次章からは 江藤淳対水田洋は 江藤と吉本との対比に移行するはずである。


(補注)
平田の引用文の中の《価値=貨幣論》について 場所をあらためて 簡単に触れておく必要があるだろう。その内容は 《歴史認識》として当然 奥行きの深いものでなければならないが さしづめ ここでの議論の上で必要と思われる点について。
それは 実際には 引用文の後半・すなわち《それが照らし出すもの。・・・》以下の部分に内容的にもひととおり述べられているが その叙述と合わせて 次のようにぼくたちは考える。

( a ) 交換価値の世界という 物象的依存に媒介された幻想としての人格的非依存性と 幻想ぬきの人格的依存性との根底的矛盾
経済学と歴史認識 p.156)

これは 価値論による一認識であるがまずここでは 《幻想ぬきの人格的依存性》とは ぼくたちの言葉で 家族のあいだに見られるような素朴・直接的な情感の共同性(その残存)であり 従って 《物象(とくに 貨幣)的依存に媒介された幻想としての人格的非依存性》とは 資本主義社会の交換価値・貨幣のあたかも自律して君臨するかのような客観法則 つまり第四の意識に侵食された情感の共同性(つまり その破談)である。物象に依存するならば 人格に依存することはないという幻想だと。これがもし幻想でないとすれば 非依存の関係という自由の上に立って 情感の共同性も 自由に 成り立たせていけると考えられる。
しかし逆に このような情況においても 平田は 情感(その共同性)は 客観的・抽象的な第四の意識によって媒介され 抽象的に共同性・普遍性として存続していると見る。すなわち たとえば

( b ) 市民社会にあっては 物象的依存関係の普遍的発展が 人格的依存関係を 抽象的にではあるが普遍的なる形態に解消している。(p.154)

と。そして 問題の《すでにいまここから出発が始まる》というかれの《時間》の方向性についてであるが それは 以上を受けて次のように展開される。詳しい論理はあえて捨象するならば それは ( a )の《交換価値の世界という・・・根底的矛盾》が・つまりその《自己矛盾による自己崩壊》(p.135)が それ自身・つまり近代市民社会を それと対立する社会状態(すなわち 未来社会)へと移行させるというふうに まず述べられる。その意味するところは たとえば

( c )・・・貨幣(さらには 資本)という物象のすがたをとった社会的力能を かれら(勤労者)自身の共同的で社会的な生産力能へと転化することを通じて 《自由なる個体》が開花していくことと把握され・・・る。 (p.134)


( d ) 〔ゲマインヴェーゼンとしての〕共同労働は 交換価値の生産として 直接には人格的非依存の関係行為として 社会の目にみえぬ底面において しかも直接には自覚されることなく 遂行される。しかしそれは そのようなものとしてではあるが 世界的規模において普遍的に遂行される。 (p.144)


( e ) 私的所有の社会に固有な諸矛盾・・・の展開と爆発を通じて 未来社会〔は〕ふたたびは物象的依存の世界でありえぬ・・・。未来社会〔は〕もはや 物象の支配と抽象の支配をふたたびは受けない 真に人格的な依存関係の社会 この意味での協同体(ゲマインヴェーゼン)の自覚的形成であるほかない・・・。 (pp.153−154)


( f ) 社会変革の主体的努力とは この市民社会がそれ自身うみださざるをえない自己に固有な未来の理論的先取りであり その実践的成就の営為にほかならない。(p.157)

などである。長い引用文(原書pp.157−158)のなかの《自覚的形成としての未来が・・・すでに その成就の道が踏みしめられている。脚下照覧。》という指摘と ( d )や( f )の認識とのあいだには あの中心点における総合的な意識のあり方として ややはっきりしないところもあるが その重心のありかとして 平田のばあいの《時間》は ここで一言でいって やはり その衣替えが いますでにここにおいて 始まっているというたぐいの方向性を持つと捉えてまちがいでないであろう。そしてそうだとするならば それは まさに キリスト教が個体においてその個体の内へと揚棄されて非キリスト教的信仰=理念となったものの《時間》の系譜なのであると 特に明示して ぼくたちは見るのであった。――なお くどくなるが 水田のばあいは 自己の神学(――信仰=理念――)じたいを明示的に展開することはしない。
そしてぼくたちは 次には この《時間の衣替え》を むしろ どれだけ主体的意欲の中に摂り入れることができるかという側面に重点をおいて 社会科学的なよりは 社会思想的もしくは文学的な視点から とらえて議論をつづけることになろう。すなわちそれは 吉本隆明のばあいであり それを 江藤との対比において明らかにしていきたいと考える。
(つづく→2006-07-05 - caguirofie060705)