caguirofie

哲学いろいろ

#9

――ポール・ヴァレリの方法への序説――
もくじ→2006-07-07 - caguirofie060707

ζ

さて この章で登場する新しい二人とは 遠藤周作と平田清明とである。
前章までの議論に沿って言えばもちろん 前者が《衣替えによる〈時間〉》の そして後者が《〈時間〉の衣替え》の それぞれ方向を ここでは代表する。そしてしかも両者とも 先の江藤淳・対・水田洋と微妙にちがった点を持つのだが それは――先に述べてしまえば――かれら(遠藤および平田)が少なくともその文章作品において 何らかの意味で完結した世界――時間・行為――を表現していると思われることによって 《時間》は かれら二人なりに そこで・すぐに それぞれ固有の十全な出発を持ったかに見える二つの例だという点である。それを 以下に述べようと思う。

先にその文章の世界が それぞれ完結しており 新たなる《時間》が すでに・そこに 生まれたかに見えるといった両者の共通点から見てみるならば 端的に言ってそれはおそらく両者ともが 日本的に受容されたキリスト教(つまりそれによる時間)を見出している点にかかっていると言ってよいだろう。
もちろんこの二人は 先の江藤対水田の対比におけるそれぞれの一代表であって 互いにその方向はむしろ百八十度ちがうと言ってよい。しかしながら かれら(遠藤および平田)の《時間》は ともに鮮やかに そこで・いま作動を開始しているかに見えるのである。
まず《衣替えによる時間》を見出すのは 遠藤周作のばあいであった。かれの場合 おそらくもはや 詳しい例証を必要としないほどであると思われるが 端的に要約するならば かれは 漱石に見られた日本人としての典型的な《時間》の中心点における葛藤を キリスト教信仰という衣を着ることにおいて 解決したかに見えるというものである。
キリスト教じたいは もともと――いくつかのヴァリエーションはあるにしても―― そこには明確なかたちで一定の《時間》が 流れているものであった。しかも遠藤は その時間を かれなりに(ということは 一日本人として)仕立て直すことによって 固有の出発をなすことを試みる。言われているように・また自らも公言するようにかれは キリスト教の父性原理による言葉と行動との《時間》を 日本的な母性の原理によって取って代えて

  • もちろん それ(母性原理)も 一つにはもともと西欧のキリスト教の中にもあった方向であるが・つまり聖母マリア信仰のごとき

仕立て直しを敢行し また完成させたかに見える。これは ぼくたちの言葉では やはり いい意味でも悪い意味でも 情感の共同性といった仕立ての術によるものであるとまず考えられる。がしかしぼくたちは それが一つのみごとな時間・行為像の形成(再形成= Reformation ――日本的《神話》という宗教の改革)ではあると言わねばならない。その例証は おそらく任意にかれの作品にあたってみれば見出されると思うが 短い文章としてまとまった一節を引いておくならば。――たとえば

ガリラヤで育ち エルサレム城外で殺された 痩せた 手脚のほそい男。犬のように無力で 犬のように殺されながら 息を引き取るまでただ愛だけに生きた男。彼は生前 現実のなかで無力であり ただ愛だけを話し 愛だけに生き 愛の神の存在を証明しようとしただけである。そして春の陽ざし強いゴルゴタの丘で死んだ。それなのに彼は弱虫たちを信念の徒に変え 人々からキリストと呼ばれるようになった。キリストと呼ばれるようになっただけでなく 人間の永遠の同伴者と変っていったのである。・・・
遠藤周作キリストの誕生 (新潮文庫)

ここには ヴァレリのように個体の精神(信念といいかえてもよいが)の核への上昇を見るかたちながら しかも 第四の意識のたぐいと相対して さらにそれをも包もうという平面的な社会的倫理の方向が打ち出されているのを見る。現実の質料関係(物質的諸条件)(――それは あの第四の意識を生む根拠であろう――)に対して 分析の手こそ加えていないが ぼくたちのあの中心点をはずさない一視点がある。とかく停滞しがちな情感の共同性の中の時間を 実はその核としてはやはり神という父性原理によって前へ進ませようとする大きな出発がある。ただそれは 一言で言って 《衣替えによる時間》というあの縁組みの逆説的な成立であるとも言わなければならない。――もし ぼくたちが 漱石が《行人 (新潮文庫)》で述べたように 情感の共同性を 宗教または宗教改革の次元へと運んでいくことを拒み そのような信仰の次元での時間に留まることをなさないのだとするならば ぼくたちは ここに このような《衣替えによる時間》を超えて(ある意味で 依然 葛藤をつづけて)いかねばならないと考えるのである。
それに対してただちに次に移るならば 逆に 《〈時間〉の衣替え》の方向にある平田清明のばあいを見てみるのがよいと思われる。――なお遠藤のばあい つまりそのキリスト教のばあいの《時間》においては 《神》が 《人間の永遠の同伴者》として規定されている点に留意しておかれたい。


平田清明は 先にあげた水田と同じく 第四の意識と明確に 縁組みの成立を見て 対峙する立ち場である。その地点にいる。
(つづく→2006-07-03 - caguirofie060703)