caguirofie

哲学いろいろ

#7

――ポール・ヴァレリの方法への序説――
もくじ→2006-07-07 - caguirofie060707

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前章の最後で ぼくたちは依然 同じ問題点のもとにあると言った。このとき 問題点というのは もちろん まず初めの認識においての いわゆる階級対立の意識であったし そしてより精確には 階級対立を孕んだ資本主義という社会じたいの客観的な分析という第四の意識 この第四の意識と ぼくたちの実存的な意識とのあいだの縁組みが 成り立つかどうかであった。
文学・社会思想などふつうの社会生活じょうの意識(細かくは三つの意識)と 社会総体の立ち場としての第四の意識(つまり社会科学)とが ぼくたちそれぞれの個体において 統合されうるか したがって ひょっとすればその縁組みの破談の問題でもあった。
しかしここで この同じ問題点のもとにあったとしても ここまで述べてきて その重心は 微妙に変移したと言ってもよい。少なくとも 日本人の《時間》としてはここで 問題は 筋として(論理として)階級対立の問題でありながら あるいはさらに 階級対立を含む社会と別の社会との対立の問題でありながら ぼくたちの重心は そのような中心軸から ここでむしろ微妙にそれたとも言いうる。
すなわち それは 先に見たように まず大岡のばあいは このような問題の中心点に立って 情感をまといながらも はっきりと対立(もしくは対峙)の立ち場を取って 自らの《時間》を持続させ表現する。それに対して 加藤周一は この中心点において そこに自己に対立すべきものは 必ずしも見ない。いや見ても むしろそれを 内側へと導き入れて その内側における対立として運動させる。その地点から言葉をもって自己に固有の《時間》を生み出そうとする。
そしてさらに もちろん この中心点における対立をそのままそこに見て いわゆる弁証法的にそれは解決されるであろうし・また解決すべきであるとする立ち場もすでに見ていたのであって それは たとえばここで水田洋に代表されるばあいであり そのように 固有の《時間》を 現実に行動によっても――少なくとも契機としては――展開しようとするのが その一つの基本であった。
大きく言って これら三者の相互の関係は――これら三者だけでも ぼくたちはあの十一面観音を見るようであるが―― それぞれともにぼくたち日本人の《時間》に見られる方向に違いないと言わなければならない。
すなわちここで――ここではまだ大雑把な三者のみの相互の関係をとらえたにすぎないが―― ぼくたちのあいだでは 単純に言って 階級意識の対立そのものというよりは その《時間》の問題の重心は その対立・矛盾の中心点から一歩引いてその点にいかなる立ち場を取るかというそのような構造を持つという事態 これに移行したと思えるのである。そして言ってみれば ぼくたちは いい意味でも悪い意味でも ここでいかなる立ち場を取ろうとも その立ち場の隔絶を超えてとりあえず情感の共同性の構造の中にあるとまず言っていい。
言いかえれば 日本人としては 互いにとってヴァレリの言う《自己の超現実=幻想領域》が 普遍的なかたちで存在する。そしてこのことは むしろ はっきりさせるべきであると思われる。――ちなみに ここでこのような一般性(一般化)による欠点としてただちに指摘しなければならないことは このような共同性の中にあっては その平均的な情感ないし意識があるとすれば それは たとえば加藤のばあいとちがって 逆に 出発しようとして出発をしないという時間(反時間)の中にありがちだということである。停滞する時間の問題である。平均的なというのは 右へならえのと言いかえてもよい。
これは 一般論であるが ぼくたちは ここで ぼくたちの実存が 第四の意識と向かいあうとともに この情感の共同性とも向かいあうという位相をも持ってくるようである。確かにそのようであり むしろこの点を課題として持つべきであるとも考えられる。
もっとも このことは 新しい課題ではなく これまでの問題点が 構造的に新しい局面を持ったというほどのことである。

  • すでに触れた事柄としては 第四の意識は 共同なる幻想と おそらく同次元のものであり 互いに背中合わせのような関係にあるだろうということであった。
  • ここで《共同なる幻想》がただちに そのままぼくたちの《情感の共同性》と同一の時間的方向・座標であるかどうか 一概に規定できない。おそらく この点が この小論の最後まで 残るであろう課題と思われる。

あるいはこの共同なる幻想は 第四の意識のうちの一ヴァリエーションであるか もしくは 時代的な遅れとして 支配階級としての資本家的市民の私的・個別的な幻想(その普遍化)にすぎないか であるということにもなろう。がこの点も 今後の課題である。

  • ふたたび整理しておくならば ぼくたちの《時間》は 次のような構造の中にあるというのが いまの課題である。すなわち ぼくたちの実存と 第四の意識との対立もしくは縁組みの問題がまずあり 第四の意識は 共同なる幻想と 方向をたがえて同地点にあるだろう。ただし 広い意味で一般に情感の共同性と呼ぶべき時間の一領域は ぼくたちの精神もしくは実存ともほかならないのではなかったか こういった局面である。

さしづめ考えられることは 情感の共同性が 二つの部分に分けられるということ・つまり ぼくたちの実存――それは 存在もしくは《時間》というのと変わらないが――の中に実際に生きている部分(たとえば 日常的な信頼関係であるとかだ)と その共同性を形成するために用いられる素材じたいとに分かれるであろうということ。後者の素材というのは いわゆるぼくたちが 幸か不幸か いくつか持ち合わせている神話のたぐいである。
また従って そのときには 端的に言って支配階級によるこの素材・これら神話の利用という局面も浮かびあがるであろう。利用できるかどうかも 問題であるが。またひるがえって 逆転するかのごとく 情感の共同性の存続がほんものであるなら この近代的・資本主義的側面も 民族ないし国家の一員という私的で個別に一般的な感性すなわちぼくたちの実存と きわめて分かちがたく結びついて現われていると見るべきだとも考えられる。そのときには――その見方を擁護するものとして―― 近代を形成した西欧が 民族的にも国家としても 長く興亡を繰り返し 変転を経てきているというかれら自身の《時間》(つまり私的で個別に一般的な感性としてもの)の固有の性格についても考え合わせなければならないであろう。
いづれにしても ぼくたちはさらに 世界史的な資本主義体制の中にある日本の社会 もしくは 日本という社会が近代明治以降に資本主義体制をとって形成してきた現代 において ぼくたちにふさわしい《時間》を明確につかもうとしてさらに出発するであろう。ぼくたちの《時間》は 現代においてある意味で 十一面観音であると言ったが これまでは 大岡・加藤・水田の三者の例において ヴァレリなどの例をまじえながら 一通りの輪郭をなぞらえるということであった。
そこでもう一度 元に戻りここに得た輪郭を敷衍するかたちで あらためて ぼくたちの《時間》をたどっていくべきだと考える。


たとえば 日本におけるこのような現代の《時間》が模索されたのは 言うまでもなく 明治以降である。
(つづく→2006-07-01 - caguirofie060701)