caguirofie

哲学いろいろ

#8

――ポール・ヴァレリの方法への序説――
もくじ→2006-07-07 - caguirofie060707

ε ‐2

そこでもう一度 元に戻りここに得た輪郭を敷衍するかたちで あらためて ぼくたちの《時間》をたどっていくべきだと考える。
たとえば 日本におけるこのような現代の《時間》が模索され始めたのは 言うまでもなく 明治以降である。そこで ぼくたちの代表としてあがるのは やはり漱石のばあいであろう。かれは この中心点に立って たとえば《自己本位》の四文字を持って出発した。そしてさらに おそらく 《則天去私》を目指すことによって かれの《時間》をころがしていく。
江藤淳によれば 漱石のそのような日本人としての《個人主義》的《時間》は 社会と自然 もしくは 平面的な倫理と垂直的な非倫理との両世界から成る構造ないし方向を持っていたという。そのことは これまでのぼくたちの議論に沿って言いかえるなら――いささか図式的になる嫌いはあるが―― 大岡に見られた平面的な普遍化の方向と そしてヴァレリに見られた精神じたいの核への垂直的上昇の方向との どちらかと言えば あくまで前者に傾いたかたちでの葛藤の世界であったということができよう。そしてこのような《時間》の葛藤を伴なった色彩と方向とは――これまでも述べてきたように―― いまだ確定的なものとはならないままに なお現代のぼくたちが受け継いで模索しつづける方向のひとつではある。
このような方向に関するさらになされるべき議論をも含めて ここで 江藤淳のばあいに見られる立ち場は 次のように要約することができよう。すなわち江藤のばあいは きわめて煮つめた議論としては この中心点の縁組みにおける具体的な行動としての挫折と その挫折からの言葉による行動としての再出発といったもの――つまり そしてさらに そうであるがゆえに 広く日本的な《現実》におけるたとえば 言葉の復権といった衣替え(そういう《時間》)――であるように思われる。
この《衣替え》という点では 先に見た加藤周一のばあいは 具体的な挫折を経ずに・もしくは 挫折をそれほど重要視することなく 内面的にいわば《日本的なるもの》を裏返して着ることによって一挙なる衣替え・つまり新たなる《維新》を目指して かれの《時間》が動いているとさえ言うことができよう。江藤のばあいも 《日本的なるもの》の衣替えなのであるが それは 挫折を見るが故に 裏返して着るのではなく 言葉の復権(かれは 日本語の可塑性を言う)という衣替えであるように思える。
ぼくたちはここで あらためて 先に提示しておいた 言葉による行動によるとの《時間》の二領域の問題にも入った。また逆に言えば 先ほどの 情感の共同性というぼくたちの構造は この《時間》の言葉と行動という両領域の交錯する相互関係というように言いなおすこともできる。――やや唐突であるが その点にかんする 詩人・大岡信の視点は 次のような作品に表わされていると言ってよい。つまり

女は刑場にひかれてきた
死を前にした美しさで
広場ぜんたい催眠術をかけた
・・・
ひとびとはただ集中する視線だつた
ひとびとはただ女に向つて集中した
・・・
ひとびとが女に向つて積み上げた
蔑みと殺意と怖れの壁は
音なく女の胸に吸はれ
ひとびとはいま
つひに女と結ばれてゐた
淫らに内に捲くれ込んだ彼らの茂みに
陽はあまく融けこんでゐた


私は舐めてゐた わが眼の中で女の白い足を
私は女を抱きしめてゐた 広場の中で 無限に遠く


女の髪は天に吸はれ
足指は青白く伸びて死につつあつた
そして刑は永遠に始まらなかつた
女はそこにゐた いやはての汗に濡れて
すこやかな子宮をもつて


ああこの催眠の恍惚の中で
死にかけるのは ただ
広場に群れるひとびとだつた
その安楽な噴水
その閑雅なる
平和だつた
大岡信:女は広場に催眠術をかけた)

というようにここには 端的に言って 情感の共同性の構造が うたわれてある。《時間》に関して言葉による領域と行動による領域についての議論は むしろ ない。しかし ぼくたちの《時間》の全体的な構造をこのように詩という言葉によって 自らの時間の中に摂り込もうと行動することは とりもなおさず この二領域の交錯関係をうたっていないだろうか。
少なくとも ここには詩人が 喩を超えた喩をもって 《時間》――いまは さらに《行為》と言いかえてもよいが――を 妖しく押し出そうとする姿勢がうかがわれるであろうか。この作品は 最後に《――〈彼女の薫る肉体〉の Post Scriptum として》とあるのだが そのようにかれの散文の中篇詩《彼女の薫る肉体》をも参照して読まれるべきであろう。
そこで ぼくたちは ここで 衣替え・もしくは 維新としての新しい《時間》の像を持ちつつある。またそのときは 互いに方向こそちがえ 先の水田のばあいとも 広い意味での軌道としては 同じ歩みの中にあるとさえ言ってよい。ただ ことは そう容易ではない。なぜなら 片や 中心点における挫折からの出発であり 片や 中心点をあくまではずさずに じっとそこに居つづけて 縁組みを諦めない《時間》を展開しようとするのであるから。
このことは 言いかえれば おおよそ同じ軌道の上にあって 片や 衣替えによる《時間》を追求し 片や 《時間》そのものの衣替えを目指すということである。これは ぼくたちの議論においては新しく江藤と水田との対比として措定することができる。そこでただ この一対の視点をただちに受け継ぐというのではなく 次章においては 新たなもう一対を取り上げそのそれぞれの文章において まず省みておきたい。
(つづく→2006-07-02 - caguirofie060702)