caguirofie

哲学いろいろ

#40

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§5 ローマへ ** ――文学と文明と―― (40)

われわれは 前章の文明論を受けて 文学論に入ろうとするのであるが まず 東洋的な《A》の文明現実にしろ 西洋的な《B》の文明現実にしろ 観念をとおしての 現実と超現実との相克過程を 考察していくとき そこには 文学的な領域と社会科学的な領域とがあると思われ 思われるが 議論の焦点また主張の前提として 単純なかたちでは 《類関係論(社会科学)に対する種関係(文学)の優位》を とりあげたのであった。
これを 文学論として 展開したいというのが その主旨であった。
これを 前章では 《文明》――基本的には 第二局面という場 経験現実的には おのおの歴史的な民族社会における場としての文明種――にかんして概観し その出発点を模索した。この文学論の道を展開していくことが ここでの任務である。
内的な階層構造の 社会的な階層における(つまり この存在の内外の階層が 各地域に文明種をつくっていると思われるそこにおける)《種差》の 種差化=時間化ということが この道のやはり基本的な方向であるものであった。労働・事業論においての種差化=時間化のことである。種差によって 生産力に差が出来 経済的に見る限り そこには 発展の度合いの差も出来る と同時に これら文明種は それぞれの地域に独自の特徴をそなえさせているであろうなどなどの問題点である。


まず初めに 現代の殊に日本の社会において その文明にメスを入れて われわれの類関係を ただ観念的に望み見ているというだけではなく しかもその現実化へ向けて努力するというときに もっとも強力な観念をとおしての運動を 提供しているものは 一つにやはりマルクス思想ではないかと 考えられる。

  • いささか旧い感じもするが 思索内容をそのまま掲げる。

それは 必ずしも一元的に《B》文明における《α》の思想形式として 質料関係が 無限に(連続して=類関係的に) 追究されることによって 観念をとおした現実と超現実との往復運動ないし事業関係が すべて望むべき類関係へ結実するであろうといった手放しの 受容でないことは ある意味で すべに了解されることである。この無限追究の問答の主体は 《B》における《α・その2》のフロイディスムや《β‐1》のクリスチア二スムにあっても 同じく類関係概念たる《わたし》であり また 《A》における《β‐2》のブッディスムにあっても あるいは そうでなく 素朴なシントイスムにあっても 《無私》と言いつつも これは《類としての個たるわたし》にちがいないのであり であるから いまは社会科学はこれを別にしているけれども 文学論としても 《α・その1》のマルクシスムは 世界史的に よく 問答議論を 展開していると言わなければならない。事業論としての 資本一元論への批判は ここから出たのである。資本一元論への批判は 種差関係の 労働をとおしての 時間化=現実化の課題にほかならないから。したがって 有効な批判であるかどうかが 吟味されなければならない。
われわれには 一つの大きな伝統としての《β‐2》のブッディスム(その種関係論かつ類関係論)とともに 《β‐1》のクリスチア二スム もしくは 《α・その2》のフロイディスムの中に見られる時間化への動き あるいは いくつかのその他のものが それぞれ相まって いまなお力ある思想であると思われる反面で 特に 社会的な生産を土台とみて 事業関係を観察し われわれの類としての行動にかんする指針となるものは マルクス思想であると考えられる。
言いかえると その他の《α・その2》《β‐1》《β‐2》または いくつかのシントイスム(《β》思想群)は この事業論について それぞれの固有の議論を あらたに展開しなければならず――それらは かんたんに言えば 《国民経済学》=資本一元論による事業論・文明論に そのまま 乗っかっていると言わねばならず―― 正当に この《α・その1》のマルクス思想と いってみれば互いの種差関係を――これをまず――形成しなければならない。このことを やはり単純に言いかえれば あの《A・B》の東西の両文明種の交錯する関係は 資本主義と社会主義(ともに 事業論として)の両種の交錯する場となっているということである。言葉としては 同じく東西の両文明種の平面二角関係である。
これは 《B》文明における 一方で《α・その1》と 他方で《β‐1》とが およそ正当な互いの種差関係を形成したものが 東洋の《A》文明においても 移入され この新しい種差関係が 世界史的となったことを 意味している。《A/B》両文明種の交錯関係は おおきく いわゆる東側世界の《α》思想群の方式と いわゆる西側世界の《β》思想群の方式との 経験現実的な種差関係となったということである。
かんたんに言ってみれば 《β》思想群の中の 《β‐1》クリスチア二スムの無限判断方式は 人間の自由意志(つまり 有限者の判断)を 排除していないのだから 《α・その1》の 有限者による無限追究方式を 共通としていると 言うことができる。逆に言えば 《α・その1》のマルクス思想も 歴史を 自然史的な問答過程とみている限りで その意味で 《β‐1》の無限判断を 排除していない。これらに 《α》思想群の他の方式 《β》思想群の他の方式が それぞれ からみ合って いまの東西両世界の種差関係を 成り立たせている。
これらを 事業論としての資本一元論が つらぬいていると言えるし また 事業論には 内的な階層構造によって導かれるべき種差関係としての 多元的な資本論も 底流によくつらぬかれていると見なければならない。
この全体的な場で 議論の便宜としても 《α・その1》のマルクス思想をとりあげることから 始めようと考える。なお 資本一元論としての国民経済学を 社会科学としては別にしても 文学論として 取り上げていないのは 基本的に この種の事業論は すでにわれわれが見た テオドリックに典型的に捉えられる皇帝論の系譜を継ぐものなのであり これは むさぼり・ぬすみの不法から―― あるいは 法のもとにおけるそれらとしての無効から―― 出発しているのであるから 文学論を形成し得ないという理由による。それらは 内的な階層構造の種差を 無視している。もしくは 種差を重視し これを有効な法ならしめるために 不法または無効を 手段としている。という理由による。
《α》思想群のフロイディスムも 《β》思想群のブッディスムやシントイスムも この資本一元論を 批判している。大きく言って 資本一元論は 《β‐1》のクリスチア二スム(文明種の経験現実として)から出たものであり 《α・その1》のマルクス思想は むしろ《β‐1》の思想形式から自身が出て 方式を変えて 同じく資本一元論を批判し さらには もしそのマルクシスム事業論が われわれの資本多元論(社会資本論)を主張しているとするなら 社会主義の法現実としては 国家の視点(つまり皇帝論)を使って この資本多元論を 形成しようとしている。
だから これに対する一批判としては 文学論において――あくまで いまは これにおいて―― それは 《類関係論に対する 種関係の優位》ではなく 《概念(ないし観念像)としての類関係の 種関係に対する支配的な優位》ではないかと 吟味することが その課題である。
これは 東西両世界の交錯する種差関係の問題であり アジア(東洋・《A》圏)においても ヨーロッパ・アメリカなど(西洋・《B》圏)においては言うまでもなく 現在の 文学論の 課題である。

   ***

前置きをこれくらいにして 出発点で マルクシスムを取り上げると言ったのは この出発に際して すでに引用したマルクスの次の一文を 確認し また検討課題とすることが 具体的な一例として その内容である。そして いまは 社会科学は問わない。

人間は 一つの類としての存在である。というのは 人間は 実践的にも理論的にも かれ自身の類をも他の事物をも かれの対象とするからである。・・・さらにまた 人間は 自己じしんにたいして 眼前にある生きている類にたいするようにふるまうからであり かれが自己にたいして 一つの普遍的な それゆえ自由な存在にたいするようにふるまうからである。
経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

抽象的に簡単に言いかえれば 《自己という・わたしという 類としての個(その像)をめぐって 生きている。それは 人間の本質であり 実存(現実存在)的な互いの種差をめぐって 協働し事業関係するとき 類関係としてのこの種関係を 展開している》。
この《問答》――観念をとおした 理論および実践――の過程には 図式的に分ければ 《α》の無限追究と《β》の無限判断とが あった。《α・その1》のマルクシスムも 《β‐1》のクリスチア二スムも 《α・β》の両思想群ないし方式を いづれも 両方とも もっている。ただ いわゆる近代経済学が 生産活動の合理的な実践と形態を 無限追究しつつも モノとしては価値論(その種差関係)であるとか 人間主体としては自由な内的階層構造(やはり その種差関係)であるとかを どこかで 無限判断にゆだねていると思われるとき――時に 《γ》の判断停止に陥っていると思われるとき―― これは 《β》一般の無限判断説によっていると思われ マルクシスムないし社会主義経済学が これをさらに 無限追究していったのだとするなら これは 《α》一般の無限追究派に属していると考えられる。
《A・B》という東洋・西洋の両文明種の交錯が 資本論(質料論)の思考形式にかんする方式で 東側と西側の新しい文明種の対立として 変わっていったとするなら 今度は これを 《α》理論と《β》理論との 平面交錯する種関係として 捉えることが できるかも知れない。
この問題を 抽象的な議論になるが フォイエルバハは 次のように言うとき 原形的に よく見通したことになる。

・・・神学の秘密は人間学であり・・・。
しかるに 宗教(=《β》の無限判断論のこと――引用者註。以下同じく)は 自分の内容の人間性(有限者性)にかんして 意識をもっていない。宗教はむしろ 自己を人間的なものに 対立させる。または 少なくとも宗教は 自分の内容が 人間的なものであることを 白状しない。
それ故に 次のような公然たる告白および白状は 歴史の必然的な転回点である。すなわち (1)神の意識(皇帝論者・資本一元論者の《神の意識》)は 類の意識以外の何物でもないという告白および白状。
(2)人間はただ自分の個体性または人格性の制限を超克することができ 超克すべきであって 自分の類の法則や本質規定やを超克することができず また 超克すべきではないという告白または白状。
(3)人間は 人間的本質(存在者)以外のどんな本質(存在者)をも 絶対的神的な本質(存在者)として思惟し 感知し 表象し 情感し 信仰し 意欲し 愛し 尊敬することができないという告白および白状。
(フォイエルバハ:キリスト教の本質 (上) (岩波文庫) 2・28)

三つの《公然たる告白および白状》のうち (1)および(2)が 《β》の無限判断論 の欠陥を指摘している。ただし (1)の中の 《神の意識》というのは 《神》つまりわれわれの言う《無限者》そのものではないから フォイエルバハが そうだとしてのように 《β》思想群をまるまる全部葬り去ったとしたなら 次の(3)のような文章の 誤謬が 出てくると思われる。
つまり (3)を言うことは たしかに《α》の無限追究論の一極端をなすものであって 有限者(人間)の本質を 無限者(《絶対的神的な本質》)としてしまいかねない。このことは いわゆる社会主義文明が 資本一元論による文明種と いかなる意味でも 平面交錯しないというふうに もし考えられる場合があるとしたなら その誤謬と同じものである。から。
だから 上に掲げたようなマルクスの種関係=類関係論を 一出発点としてのように 質料論の追究に際して 無限追究説《α》と無限判断説《β》の二つが 図式的には 生まれてくることになる。
これは クリスチア二スムの種=類関係論から 歴史的に 同じく《α》および《β》の二つの質料論方式が 出て来たと見られることと ほぼ同じである。
ことは すべて ヨーロッパ・キリスト教圏の《B》の世界で 歴史が 動いている――それを 《A》の世界が 受け容れている――と見られるかも知れないが それは あたらない。《α / β》の両思想方式が 観念論ではなく 観念主義に陥らないとするなら その現実は 《類関係論による種関係の規制》ではないのだから 《類関係論に対する種関係の優位》のことを あらわしているはずであり 《A》のアジア世界が 《β‐2》のブッディスムを持っていようと あるいは 《β‐2 / その1・その2・・・》の各民族社会の土着的な各シントイスムを 殊更 言おうと言うまいと この《A》文明種では 《種関係の優位》は 素朴に 現実経験であるように思われるからである。
このような《A / B》の両社会土壌のちがいの上に 図式的に言って 《α / β》の両思想方式 いわゆる東側・西側の両世界が 対立・種関係交錯していると考えるのである。ことは ややこしいが こうであると考える。
むろん 社会主義社会を《α》 資本主義社会を《β》と それぞれ 結びつけるのは 極論であって 抽象論である。かつ ことを経験現実に沿って 議論するぶんには このような観念運動をとおして 問答が展開される一面もあると考えているのである。
ここからは 社会科学に まだ 移行しないが 社会科学とそして文学論との 関連を 見ていかなければならないであろう。
たとえば 交通の便をはかるため 河川に橋を架けるのは その計画から施行までも事業は 社会科学の領域にある。個人の事業論は それ自身――それはまた 文学論でもある――から出発してこの社会科学にすすみ そして この社会科学の領域に対して そこから おのれ自身をみちびく。
しかし この橋が架けられたことによって その両岸の都市のあいだに もろもろの質料関係(資本論)が 変化をきたすはずである。そして この変化ないし矛盾(それがあれば)に対応して 質料論を あらたに展開するのは 文学論である。そしてむろん そこから ふたたび 社会科学へ移行する。
言いかえれば ここで まず観念をとおして 文学論としての事業にあたるのは 社会科学者――経済学者や工学関係者――であってよいのだが そこには そう言うほどに まず文学論ないし種関係現実が 先行するし このことは あたりまえの事実でもある。
したがって逆に言いかえれば 一般に 文学者・作家も いわゆるエンタテインメントとしての文章を書くが これは 極端に言えば やはりまず 質料論であり その意味とその限りで 社会科学者である。言わずもがなのこととして 付け加えれば 自然科学者も一般の市民も 質料論者であり 文学者であって社会科学者である。
想像力としての文学は 新しく 質料関係=世界を 観念する。
上に掲げた出発点としてのマルクスの文章は まず ここまでのことを言っていると思われる。したがって この――この――マルクスを いわば出汁にして 現代において 《α / β》の新しい両文明種の関係について 考察をすすめよう。つまり 文学論としてである。
《A / B》両文明種が なくなったわけではない。ただし いづれの文明も 《α / β》の新しい文明種の両方式を 持つようになっている。または 方式としては 《A / B》両世界のいづれにおいても 一個の社会現実(国家のかたちを取っている)の内部で 《α / β》の両方を 持っているようになっている。
逆の面で言いかえると 《β》は 無限判断による質料論方式として 一般に 宗教であり それとしての資本一元論であり 《α》は 無限追究による質料論方式だが 無限者をみとめないと言いつつ いわばこの無限追究論じたいを 無限者(至高の司令者)としているとするなら やはり宗教であり 資本一元論を 国家という皇帝論によって 止揚する(対話・問答していく)資本多元論――宗教としての多元的資本論――であるように思われる。
このとき いづれも 宗教としての質料論方式である《α / β》を 止揚していく問答は――そのような質料論方式は―― ありえていると考えられ 仮りに これを 文学論的な事業論(企業論としては 資本多元論をとる)だとするならば この《α》でもあり《β》でもある新しい方式と 一元的な《α》方式および一元的な《β》方式とが 対立・種関係交錯しているというふうに 認識することが可能。そのためには 社会科学が要請されるが その第一次的な議論として こう文学している。
ということが 最初にかかげたところの 《社会科学に対する文学の第一次性》というテーマの内容であり 問答方式としては《類関係論(時に宗教的)に対する種関係の優位》という視点の内容を 形成していくものと思われるのである。
ここでは たしかに 図式的に言ったところの 東側《α》と西側《β》との 新しい両文明種が 平面交錯していると思われるのである。これは 《A》東洋・《B》西洋のいづれの世界においても 端的に 社会主義政党と資本主義政党とが 混在・共存するという社会現実の 有効性の基盤ではないだろうか。いくらか結論を先走ったようだが 文学論は このことを証言し 明らかにするように思われる。
《α》思想群も《β》思想群も いづれも それぞれとして極ではないのだから 両思想方式の社会である《B》西洋においても 新しい一つの方式(文学的な事業論――それはまた 家庭論的な事業論でもあった――)は 底流として 流れてきているのであり このことは 次の理由で 《A》東洋においても あてはまる。一般に《種としての個が 優勢であり 類としての個は 種関係において 望みみられればよいのであって 必ずしも初めに立たない》とみたとき 一方で 《類関係が つまり 種差関係が 観念的に・幻想的に 無化され 時間が 眠ったままである》と言うべきであると同時に 他方では このことは 《類関係論(質料関係論としてのそのような一個の像)が 逆に 観念主義によって 固執されることを よく阻んでいる》と言うべきであった。だから 後者の意味で ――そのとき 《B》の世界からもたらされた《α》思想形式も 《β》も 受け容れつつ――この観念をとおして 新しい一つの方式は(家庭論種関係としての事業論は) よく その底流にあって 根付いている。根付きうる。から。時間(労働)論としての《α》ないし《β》の思想が ヨーロッパ《B》世界からもたらされたと言ったのは アジア《A》世界において そのような思想形式が なかったからではなく これを 明示的に 表現して 持つことが少なかったからである。無限判断論《β》はもちろん 無限追究論《α》も 個においては 密教的にでも 持っていたとも言いうるのではないか。または 言うべきであるように思われる。それは あの第二の局面を 受け容れたからであり その素地のあったところに 《α》形式も《β》論も まったく白紙であったとは 思われない。つまり 人間の本質としての内的な階層構造の――あたりまえのように――普遍性である。このような第二局面の 新しい一段階が 現代のように思われる。
すなわち 無限追究論《α》も 無限判断論《β》も 矛盾律に照らし合わせてみれば 明らかに両方式は 互いに共存するのは おかしいことになるが それは 経験現実に沿ってであって やはり われわれの場は 問題解決の展開過程として 本質的に 一つである。
この問答の場から 現代において《α》派と《β》派とを止揚する新しい・家庭論的な事業関係論という一つの方式を 見ることができると言ったとき この方式も 経験現実にほかならない。つまり そのような一つの質料関係論・世界観なのであって 一方で こうして歴史的に 無限に(連続的に) たしかに追究している(つまり 《α》論をとどめている)と同時に 他方で これが あたらしい質料論であると文学するのは ――そのために 社会科学的な裏付けが 必要であると言うことはあっても――その保証は(一つの最終的な保証は) むしろ社会科学には なく(なぜなら それは 実践のための手段であるから。もっとも 手段たるそのような交通整理が 中間的に経験科学的に 保証されることは ありうる。だから 一つの最終的な保証は) じつは 無限者(わかりやすく言えば 歴史の狡知)の判断にまかせていることにある。
この後者では 《β》論を 同じく とどめている。無限判断と無限追究の両方を みとめなければならない。無限判断(その極としての論ではない)を 将来すべき歴史の――社会科学による――展望に代えるというのは ここから派生してくる一つの方式ないし立ち場である。われわれの立ち場は 《類関係論に対する現在の種関係の優位》であって 将来すべき類としての個の概念――社会科学が これを 展望するのである――によって 現在の種関係を質料論する文学に 取って代えることは 基本的に できない。この点は 争われるべきであろうが 一つの前々からの立脚点であることではあった。
社会科学による やはり観念をとおしてみた一つの観念的な像ではある《類としての個》の概念は それが われわれの現在の種関係そしてそれに対する文学論の 視野を ひろげてくれることは ありうるが このような展望は 反面で やはり 類関係論の優位を主張していることになる。それは 経験科学として そのように 類概念で 展望したにすぎないのだが 上に少し触れたように 現在の種関係における種差ないし矛盾に対して 文学的に質料論を展開する以前に 将来すべき類関係の概念操作で 河川に橋を架けるとなると 文学論は 消化不良を起こすこと まちがいないばかりでなく この経験科学たる社会科学が たとえば貨幣という一元的資本に代わるその意味での新しい皇帝になったことにすぎない。
《展望によって視野をひろげること》と 《家庭論に立った事業論を――だから 資本多元論を―― 現在の種差関係の 矛盾解決過程として 展開せずに その社会科学による類関係論的な展望のもとに 種関係の展開を 従属させること》とは 明らかに 異なる。つまり 後者を あの《α》極論あるいは《β》極論が 言ってみれば みちびこうとしているというのが 現代の種関係交錯の情況ではないかと 考えられる。一元的な無限追究論が あるいは 一元的な無限判断論が それぞれの社会現実の中で 文明種となったという現状は それらが ともに 宗教(資本一元論にとって代わる観念一元論)であると認識できる分には 国家が・あるいは社会科学が 人間社会の王者となったことであるように 考えられる。
文学論は いま このような傍系の(周辺領域の)議論として 述べなければならないように思われるのである。かんたんに言えば 類としての個は 内的な階層構造として 本質であって この文学論(愛欲・家庭・事業論)として 問答していくということは 現在の種差関係の種差化=時間化において 現実的であり このことは 観念(普遍概念)的な類関係論を志向する社会科学に対してさえ 先行し つねに優位に先行すると思われる。内的な階層構造は 外的に社会階層へ 経験現実的に 移行しうる――あたかも 移行しうる―― けれども だからと言って 内的な本質の 外的展開を 類概念そのものにおいて 社会科学的に 類推することは 決して種差関係の類関係への移行なのではなく 種関係の交錯・交通を 手段として 整理・援助するものにすぎない。
歴史の展望が 類としての概念において 現在の種関係を 整理し支援するならば その社会科学は 有効・有益ではないか。これは 一つの立ち場である。われわれの見るところでは それが有効であるのは 架橋の必要が――つまり 現在の種関係の社会的な矛盾が―― 生じたときにおいてである。言いかえると この歴史展望は すでに そのときには 未来展望ではなく 将来展望ではあっても この将来という時間は 現在の時間なのである。この先行をはずしての未来展望は むしろ社会科学でもないように思われる。 
われわれが 新しい一つの方式としての文学論で 掲げてとどめている《α》の無限追究も 《β》の無限判断も 現在の有限者による無限追究であり 判断である。社会科学先行論は 未来の有限者 だからそのような無限者(つまり 一元的な無限追究者または一元的な無限判断者)のための 幻想的な(観念主義による)文学である。この観念主義的な社会科学は 文学論として 無効であるだけではなく――無効の実効性がみられるだけではなく―― 時間の超越であり 超時間化として 反労働論であり わたしには ほとんど狂気でしかないように思われる。かれらは フロイト《α・その2》が 種関係的に一人の孤独者を対話の相手にえらんだとき 相手を患者と規定したが この患者を 一つの経験現実としての新しい文明種に・つまり そのような社会現実の中に 見たのである。この文明種とは 《α》極論ないし《β》極論のそれぞれ支配的となって形成されるかたちのことである。このような種関係現実からの 類関係への類推は 誤謬であり 不幸である。だから 文学が 廃れているのだと思う。
言いたいことを言っているようであるが ここまでは 進むべきだと思う。狂気の(種差=時間に無関心の)社会科学者には つける薬がない。

    ***
(つづく→2006-06-19 - caguirofie060619)