caguirofie

哲学いろいろ

#33

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章四 《光源氏‐紫の上》なる対関係――家族:《観念の資本》の核(かまど)――

次に ただ 文学の次元を 同じく芸術として扱うのであるが それを 仮構・物語の中に描くのでなく なお 学(哲学・論理学)として扱う《精神の現象学 上 Phänomenologie des Geistes 》は これであると思う。あるいは 先に 章二補において論じたように 江藤淳作家は行動する (講談社文芸文庫)》 吉本隆明――この場合 《定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)》ではなく また《心的現象論序説 改訂新版》(これは 精神科学である)でもなく むしろ――《改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)》(これは 行動科学である)は それぞれ この立ち場を継ぐものであると言えるであろう。
すなわち 文学が 第一次性としてあり その意味で スサノヲ主権論にどうしようもなく立つものであり この原則を 市民社会学が 揺るぎないものとして前提するとき この学の立ち場は 広くスサノヲ主権論のひとつの下位概念に入ることにもなる。
が この下位概念が 市民社会学一般の環境整備(政策・法律的作業)とあいまって このスサノヲ主権論 Susanowoïsme を具体化すべきとして おのれを学として提出する一行為領域が存在するように思われる。《精神現象学》等このような哲学としての文学行為は 市民社会学とより直接に通底すると思われる。この通路によって なお 紫の上類型にアプローチしうるかも知れない。

・・・概念なき実体的な知が自己の我執を実在の中に沈めてしまったと言い 真実で神聖な態度で哲学を研究していると自称するならば そこに隠されているのは 神に身を委ねるかわりに 節度と規定を軽んじて むしろ或るときは自己自身のうちに内容の偶然性を また或るときは内容のうちに自己の恣意を 放任しておくということである。
そういう人たちは実体のほしいままの醗酵に身を委ねながら 自己意識を包み隠し悟性を捨てることによって 自らを 眠っている間に神から知恵をさずけられる神のいとし子であると想いこんでいるのである。だから その人たちがじっさい そういうふうに眠っている間に受胎し分娩するものも やはり夢である。
ヘーゲル精神の現象学 上  序論 )

《実体のほしいままの醗酵に身を委ねながら 自己意識を包みかくし悟性を捨てることによって 自らを 眠っている間に神から知恵をさずけられる神のいとし子であると想いこんでいる》のは 空蝉である。《じっさいそういうふうに眠っている間に 夢を受胎し分娩する》のは 明石の入道である。
この《夢》――共同観念自足的――を破ることが 精神現象学の目的であり 作家は行動する。また 共同幻想論の それでもあった。しかし なおかつ この《神のいとし子である》ことの《夢》を破砕したのちも――近代キャピタリスムは 社会的および個人的に そうし得たのであるが なお―― その重い腰を上げない精神の一領域が 存在する。
源氏物語が 光源氏類型の中の停滞性領域を なお 薫に受け継がせ また 夕顔ないし紫の上類型を さらに 大君(宇治の八の宮の長女)や浮舟に受け継いで 書き継がれていったとするなら それは この重い腰を据えたものの存在を 明かすものであるはずだ。
この点は ある意味で すでに浮舟論の中に 眺めえたことである。

  • 神の手にも負えないものの・自然史過程への解放と考えた。

そして 別の意味では ここで 文学と市民社会学とが 重なる。もしくは 後者が 前者を環境的に保証し その後者は前者の自己形成の結果にほかならないといった相互連関の過程が 捉えられるであろう。
この相互連関の中で 市民社会学(法律制度)は 文学の要求するものの仮象にすぎない。しかしこの仮象が 一つひとつの時代の中で 一つ前の時代の文学が要求したものを 環境として――たとえば 婚姻形態における両性の平等といった法律の問題として――保護し その意味で スサノヲ主権論を実現させる契機となる。だから 文学は 新たなスサノヲ主権論を なお捉え請求しうる。このとき文学は 政治・経営行為にまで発展しうる。
この意味で 市民社会学は 表現行為の環境を整備する行為であるとともに 時に 表現行為そのものとなると言ってよい。文学でもあり 市民社会学でもある《物語》として。
整理しよう。表現行為には 物語 μυθος / tale と学 λογος / logic との二つの方法があった。前者においては 現代では 物語そのものが 新たなスサノヲ主権論を提出する力を失ったかに見える。これまでは むしろ前衛を担った文学が むしろミネルヴァのふくろうとして 夕暮れに後れてやって来る。現代において これは 簡単に言って 反文学という立ち場が 文学の立脚点となる所以であると思う。後者・学としての表現行為は たとえば 次のような形式がその典型であろうと思われる。

真理が現に存在するほんとうの形態は 真理の学的体系を措いてほかにはあり得ない。哲学が知という名を捨てることができ 現実の知であろうとする目標に一層近づくために 努力を人々と分かとうとするのが 私の企てたことである。
ヘーゲル精神の現象学 上  序論)

そして この《愛知 フィロソフィア という名を捨てることができ》るための表現行為が求められている。言いかえれば すでに多かれ少なかれ 法の前の平等という一つの行為形式となってその名を一たん捨てることができたそれが なお 個別的に 社会的・外的な表現行為へと進む道も 開かれており また 求められつつあるといったそれである。文学のスサノヲが もろもろの社会の科学たるアマテラス領域へと進出しうる。
これら二つの方法のいづれの側からも――少なくとも 過渡期という一つの時代への視点に立つとするなら―― むしろ外的な市民社会学行為にこそ 表現行為が求められると言わなければならないのではないか。外的な市民社会における行為形式の形成――その意味での自己形成――にこそ 内面的な表現行為を外化する途が 求められると言うべき道がある。物語の世界や 精神現象学(哲学)の系譜に そのまま取って代わるというべきものではないであろうが いま述べたもの これが われわれの市民社会学のひとつのドグマをなすものであった。
そこで これが 実は 紫の上の問題であると主張するのは 次の事情のもとにおいてである。個体としての紫の上 および 社会としての紫の上といった主題がそこに残されている。
そもそも市民社会学という一つのジャンルは 個体次元の文学と 社会形態次元の政治経済学との両ジャンルにはさまれて 中途半端な位置にある。スサノヲイスムに立つなら――弁証法唯物論史的唯物論なども それぞれ質料主義に基づいて そうであったと思うが―― 文学(言葉および行動)が 第一義的な世界(世間・生活)の領域である。
それに対して第二次的にだが この文学領域を本質的に補完するのは 学としての政治経済行為領域である。それらは軍事的にをも含み 一般に政治経済文化的に補完するものであり しかも それらは しばしば観念現実的にさえなっていると思われる。
このとき 両領域の中位段階にあって 市民社会学は 中位のあいまいな概念やカテゴリをしか成さない。それにもかかわらず 個体にとっての文学が 対関係としてあり 市民社会学という新たなジャンルを 愛欲および愛から始めるというものとするとき この市民社会学は 個体が 実際にはそれぞれ既存の対関係複合態(ムラ)から出自する以外にないという一面の確認にのっとって この文学の母体を成すべきカテゴリを 実際には形成しきっていると考える。同じく社会形態を運営する政治経済学が 市民社会(生産関係複合様式)から出てその発展を見守るものでしかないとすれば この政治経済学の原形を成すべきカテゴリをつねに担っていると明言せざるを得ない。

  • この観点は すでにわれわれは 《ポール・ヴァレリの方法への序説》補論 社会科学の新しい概念像へ向けてにおいて論じた点なのであるが 簡単に言って 市民社会が ナシオナリスム(それは むしろ個体および家族におけるものとして)の 母体(ムライスム)であり キャピタリスム(自由な資本社会・国家資本社会)の 原形なのだ。スサノヲ・キャピタリストたちの原型的な生産関係であると考えられる。

この構図にもとづいて スサノヲ主権論の具体的な政策(環境整備)は この市民社会学(mura / yasirologie / intermuraïsme )にこそ 求められると主張しうる。地方分権とは この思想に発するものだと考える。
これによって市民社会学の主体は 単位としての対関係また家族にこそ求められるはずだ。これが 紫の上を基軸とする家族形態が 源氏の対関係類型のほぼすべてをそこに摂り込んで まず最初で最終的な主題でなくてはならないとする所以である。
現代においては 空蝉の社会的解放をおおきくその課題としている。それは 藤壺類型の動態論にのっとって たとえば 六条院邸の重婚形態の止揚にこそ 学としての政策行為の視点が 収斂すると思われる。もっとも キャピタリスムは 法的には(だから 仮象として) たとえば夕顔の単婚形式を 実現させた。あとは この形式の本来の活発な内容的充実にのみある。
しかし この対関係の唯一形式の活発な内容化は 必ずしも簡単なことではない。紫の上(小さく 夕顔・浮舟)のこの理念は まず 過程としてあり 過程としてしかなく それは 制度的保証のみによっては 何ら実質的なものとはならないと言わねばならないからである。卑近なかたちで言っても スサノヲ・キャピタリストの単婚形式は この理念・制度に 《無媒介に身をゆだねようとする》ことであり それは 《何物にひきつけられてそうするのか分からないけれども いちど逆立ちして歩いてみようと企てるようなものである》(ヘーゲル:前掲書)との批判が そのまま内省につながる形式のうちにしかないからである。
なにゆえ このような倫理的批判を目くじら立てて行なうかと問われかねないが ここでは 逆立ちした紫の上がおり 六条院の重婚もしくは乱婚形態が 明暗織り交ぜて 階層化するといった源氏物語のヴァリエーションが 現実であるからである。この点 われわれは 紫式部を笑えない。光源氏を笑えない。物語の文学研究者も おおむね この事態には 目をつむっている。それらは 文学世界の自立性を ひそかに 確信しているか もしくは それはあくまで仮構なのだと心得ているか いづれかである。
問題は 物語の世界としては 物語を現代化するか あるいは 学の系譜としては 物語の理念を 過程として捉え学的体系へと構築するかにある。学的体系といっても 学者としての自己形成であるにほかならない。
市民社会学は その一つの方途であり その媒介である。愛欲および愛の過程を その革命的出世間を視野におさめて 表現することに すべてはかかっている。表現行為とは 自己の内からの外化であり 自己表現である。

  • 共通感覚論 (岩波現代文庫―学術) sensus communis 》の著者・中村雄二郎は 《パトス(情念)の知》の構築ということを述べた。――朝日新聞1980・1・14夕刊。
  • われわれには メシア(ナザレのイエス)は必要でない。なぜなら そのかれの文学の制度的保証は おおむね実現されているのであるから。
  • われわれには ブッダ(ゴータマ・シッダルタ)は 必要でない。何故なら 《アジャータシャトルブッダ》連関は イエスの系譜の共同主観体系・キャピタリスムとともに その中で かれの観念の資本(たとえば 慈悲)が すでに広く 自由なかたちで発進しうる社会資本になっているから。環境整備として整っている。
  • また 共同主観体系のなお新しい総合的な構築は 必要でない。カール・マルクスが ある種の見方で言えばまちがいを交えつつ そのすべてを すでにおこなった。
  • ただ 新たな紫の上の過程的現実 これが課題である。(それには たしかに イエスブッダも必要だ。というより かれらが その課題であることをおしえている。)
  • その学的体系は 超越的・規範的であったI.カントが 《啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)》に応えて言ったことは 《敢えて賢かれ》であった。ただし 今は啓蒙の時代でないことは 言うまでもない。カントの《敢えて賢かれ Sapere aude ---- Horatius 》の内容は あからさまに言ってしまえば 女性に対する批判であり 母性への敬愛の表明であった。

大多数の人々(そのなかには全女性が含まれている)は 成年に達しようとする歩みを 煩わしいばかりでなく極めて危険であるとさえ思いなしているが それはお為ごかしにこの人たちの監督に任じている例の後見人たちのしわざである。
(I.カント:啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

  • 悪しき光源氏がいると言うのである。光源氏もどきが 世の中にははびこっている。夕顔や浮舟の悲劇が繰り返されずに済む世の中になっているはずなのに。しかも その夕顔や浮舟の系譜にあると疑わしき女性も まだ いると考えられる。
  • 藤壺類型の自立的発展の軌道上にある紫の上類型に関して述べるとすれば どうしても一度は あらためてこのような主張を取り上げざるをえなかった。

このように述べることが 現代において 道徳からする表現行為でないのは 言うまでもない。何故なら われわれの主張は 性器的人間の誕生に主眼を置くものであり この主眼の範囲内で 一夫一婦形態の保守にないことは 自明のことだからである。一夫一婦方式の――そのものの過程としてでなく―― ただ段階的な・世間的な形態 これの廃絶を目指すことに主眼は あるからである。世間(loka =差別)的な形態とは あたかも人生を分割し 今の時間をも 相手によって それぞれ分割し あたかも自らの生 eros に 六条院生活を実現させようとする形態である。うちつけの好きずきしさと 性器的人間とは違うということである。 
観念の資本としての家族 生産力としての家族を 自身の前(親)と後(子)との世代を通じて はじめに 形成すること これが はじめであり終わりである。この一事が主題となるであろう。
われわれの市民社会学の主張は――或る種の仕方でだが その短所はすでに十分分かっているから敢えて言うのだが――断定的に言って 光源氏類型の現代における復権 このことに尽きると思われる。
(つづく→2006-08-11 - caguirofie060811)