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哲学いろいろ

村上春樹文学に新解釈とのこと

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)海辺のカフカ (上) (新潮文庫)


村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)

今朝の日本経済新聞・読書欄《活字の海で》子が触れている。

主人公の少年がたとえ夢や想像であっても 《父を殺し 母と姉と交わる》のは 根源的なタブーを犯すことを容認するものだと指摘。
この小説は 《国家の名による殺人の正当化》である戦争に結びつくと見る。
その上で

イラク戦争に反対しても 暴力の連鎖を止められなかった〕欲求不満=フラストレーションを 記憶の消失と歴史の否認 精神的外傷(トラウマ)を〈解離〉によってなかったことにして 空虚であることを〈いたしかたのなかったこと〉として容認する そのような〈癒し〉効果を 《海辺のカフカ》は世界中にもたらしうる。
小森陽一村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)

と批判する。
(中野稔(文化部) 日本経済新聞2006・06・18朝刊24面)

  • 虚構作品に 何を書いていけないというのは 原則として ないと言うべきだ。
  • だから 小説に書いたことで 《根源的なタブーを犯すことを容認するもの》ではないかとか だから《戦争に結びつく》と言っても あまり面白くない。
  • わたしは すでに《ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)》において 《風の歌を聴け (講談社文庫)》からの村上春樹の 自己到来の旅は 崩壊したと結論づけた。自己還帰あるいは 信頼関係の構築 これを放棄し 登場人物の人格には破綻が生じたと断定した。《ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)》までは その構築は無理でも その問い求める旅は 続けられていたのである。→2005-04-30 - caguirofie050430(最終的には その破綻の分析を述べ切っていないところがあるが 明らかな変化を指摘した。その後は 偉大な大衆小説に移行したと見るということである。) 
  • 小森の原文からの引用部分は 要するにこう言っている。 

ものごとを 途中であきらめても その曖昧性こそが 或る種の解決であり それによって癒されるのがよいであろう。村上作品は そう語りかけているように捉えられる。

無力感は 既成事実とそれがなし崩しにつづくという既成事実の前に 自己増殖をおこない 一方で 戦争にむすびつく道を用意するだろう。また もしさらに それでも この無力感をも癒したいということにでもなれば たとえば 禁忌の侵犯を 少なくとも 想像の世界において描く それによって 癒されるという道が用意されているのだと。

  • たしかに この論理として その村上効果が 世界中に蔓延するかも知れないと言いうる。一度は 言ったほうがよい。逆に ただ その均衡によって ものごとは 何もなかったように 推移していくかも知れない。そうではないかも知れないけれど もっと気の利いたこと もっともっとしゃれたことを言うことはできないか。
  • できないかどうかを 話し合うことはできるであろう。

デタッチメントからコミットメントへなのだが・・・

と さらに別様の指摘・批判・注文にも触れている。

文芸評論家の山城むつみ氏は・・・

〔以前は〕社会的な問題への〔むしろ〕《デタッチメント(関わりのなさ)》が大事だったが 最近は 《コミットメント(関わり)》を考えるようになった。
(出典不詳)

と述べた。

と指摘し さらに村上文学への注文が寄せられていると簡略な報告を終えている。たとえば

村上作品には子を持つ親がほとんど登場しない。親子関係を真正面に取り上げるといった身近なことでも 十分コミットメントになる。
山城むつみ

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)》以降は読んでいなかったが その空白は埋めずに 上の作品を読んだ。判断を変える必要を見なかった。
物語りの運び方が面白いし 文章が飽きさせないし 幻想としてでも或る種の癒しがもたらされると推測できる。ゆえに これを必要とする現代人がいるかも知れない。