caguirofie

哲学いろいろ

#13

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§2 バルカン放浪 *――または 孤独―― (13)

たとえば マルクス・アウレリウスは 《自省録 (ワイド版岩波文庫 (77))》の中で 次のように書いている。

人生の時は 一瞬にすぎず 人の実質(ウーシア:本質=存在)は 流れ行き その感覚は 鈍く その肉体ぜんたいの組み合わせは 腐敗しやすく その魂は 渦を巻いて居り その運命は はかりがたく その名声は 不確実である。一言にしていえば 肉体にかんするすべては 流れであり 霊魂にかんするすべては 夢であり煙である。
人生は 戦いであり 旅のやどりであり 死後の名声は 忘却にすぎない。しからば われわれを導きうるのものは なんであろうか。一つ ただ一つ 哲学である。
それはすなわち うちなるダイモーンを守り これの損なわれぬように 傷つけられぬように また快楽と苦痛を統御しうるように保つことである。また なにごとも でたらめに行なわず なにごとも 偽りや偽善をもって なさず 他人がなにをしようと しまいと かまわぬよう あらゆる出来事や 自己に与えられている分は 自分自身の由来するところと同じ所から来るものとして 喜んでこれを受け入れるよう なににも増して死を安らかな心で待ち これは 各生物を構成する要素が解体するにすぎないものと見なすように 保つことにある。もし個々のものが絶えず別のものに変化することが これらの要素じたいにとって 少しも恐るべきことでないならば なぜわれわれが 万物の変化と解体とを恐れようか。それは 自然によることなのだ。自然によることに悪いことは 一つもないのである。
(アウレリウス:自省録 (ワイド版岩波文庫 (77))

これは マルクスが五十歳をやや越えた時のものということであり また われわれには馴染みの深いパンノニアのドナウ河畔の一都市カルヌントゥム(現在のウィーン近くのハインブルグ)において書いたその第三章の中の最後の一節のすべてである。

このように――全部が全部 そうとは限らないが――かれアウレリウスの場合は 自身の中へ折れ返って そこに言わば或る規矩を見出すといったかたちが 見受けられる。つまり 哲学。
他方 テオドリックが 自身の中へみづからの心を放ったというときは――単純に対照させて言うならば―― むしろ このような規矩を離れて まず規矩から離れて 言いかえると 折れ返し〔の軌跡として残されたやはり規矩〕を閉ざすようにして 意識の中に浸ったといえるのではないかと考える。言ってみれば マルクスは 孤独の中から 規矩を問い求め テオドリックは 同じく孤独の中から 逆に 規矩を取り外そうとしたということ。
このテオドリックの孤独の中の 遊弋(ゆうよく)については まだ 何も述べていない。
テオドリックは たとえば かれの周囲の人びと〔との関係〕を思った。父や母や 〔その頃には〕妻〔も いたであろう〕や 種族(くに)の人びとや あるいは かれらの外のコンスタンティノポリスの皇帝以下かれ自身とめぐり合った人びとのことどもである。

  • ちなみに アウレリウスは 本質(ウーシア=エッセンティア)を 問い求めている。

そして 遊弋というからには ただ放心するのではなく ちょうど矢に糸をつけて鳥をめがけて射るように〔――これが 弋(ヨク・いづる)という猟法だ――〕 《ここ》にいて 孤独の中へ 放つのである。放った先に その孤独の中に 何か目指す地点があるかどうか それは むしろこの場合 わからない。むしろ規矩を はずすのであるから 何も見えない地帯へと向けて やはり遊泳するというものであるかも知れない。ここでふたたび アウレリウスを引いて その対照をみようと思えば かれは その著書の冒頭に 次のような省察を残している。

祖父ウェールスからは 清廉と温和〔をおしえられた〕。
父にかんして伝え聞いたところと私の記憶からは つつましさと雄々しさ。
母からは 神を畏れること および 惜しみなく与えること。悪事をせぬのみか これを心に思うさえ 控えること。また 金持ちの暮らしとは 遠くかけはなれた簡素な生活をすること。
曽祖父からは・・・
(アウレリウス:同上)

以下つづいて――このかれの本の第一章では―― さまざまな哲学者や 親交のあった者から 特にそれぞれ学んだ事柄を 自分の中に折れ返って 拾いあげている。そしてマルクスの場合は このようにして 自身の孤独と相い対して その中に 何度も言うように規矩――こころの定規である――を見出したと考えられる。
が テオドリックの場合は 単純に言えば こうしてマルクスが拾いあげた〔たとえば 孤独と孤独との関係の中の接点を 人間の本質的なものとしたところの〕規矩は むしろ見ないで その余の孤独という意識 あるいは 意識(もしくは意識下)という孤独の中へ 入っていくのである。
つまりもちろん 意識というからには 人と人との関係概念であることは 言うまでもない。放心のとりこに なったのではない。あるいは逆に この意識に糸をつけて《ここ》から たとえて見れば 暗闇の世界へ 遊弋しようというのである。まずこのことが テオドリックの放浪であったと述べておきたい。


テオドリックらのバルカン放浪について 具体的にどの地を征き どのように闘い どのように日々の暮らしをなしていったか この点については 特に記すつもりはない。また 必ずしもその用意もないのだが ただ たとえば今 このような移動について大まかなものでも そのイメージを抱いておくためには 二・三 文献の中から 次に引用する。

・・・人びとは出発するのに必要なものをととのえ できるだけの駄馬と荷車を買い上げ 途中の穀物の供給にこと欠かないために 沢山の種を蒔き 近くの部族と仲良くした。それには 二年間で十分と思い 三年目に出発と 法で 決めた。[C]


・・・その領地を出る決心を実行しようとした。もうその用意もできたと思われたので・・・すべての町・村 そのほか個人の家に火をかけ 帰国の望みを残さずに 断乎としてあらゆる危険を冒そうと 穀物も携帯できるものの他はみな焼き棄て 挽いた食糧を三ヶ月分ずつもって 国を出ることにした。・・・[C]

テオドリックの進軍は 一つの全民族の移動とみなければならぬ。ゴート族の妻子眷属 かれらの年取った両親 最も貴重な動産などは 念入りに 運搬させた。そして エピルスのただ一回の戦闘で 二千輌の荷車が失われたというのであるから いかに多額の輜重が この軍隊に随行していたか その概観をつかむことができよう。
かれらゴート軍は 同伴の婦女子の手で操縦される運搬用挽臼で 小麦を挽いて これを食料とした。また 携帯の羊群や牛馬の群から 乳や肉を得 その他狩猟から生ずる偶然の獲物とか 行軍の途上で抵抗したり 親善的援助を拒絶したりするものから 強制的に徴収する貢納物とかに 依存することにした。
このような用心深い策を取ったにかかわらず 何しろ冬の最中に七百マイルの行軍をするのであったから かれらは 飢餓の危険に遭会し ほとんど窮地に陥ったのであった。ローマの勢力の没落以来 ダキアおよびパンノニアの地方は 人口稠密な都市や よく耕作され田園や 歩きよい国道やの美観を もはや 展示しなかった。野蛮と荒廃との勢力が 再び台頭し 空虚になった地方を占領していたブルガリア族・ゲピデ族およびサルマチア族らは かれら生来の凶暴な性質により またはオドアケルの依頼によって テオドリックの行軍を 一生懸命に妨げた。名もないながらも激烈な幾多の戦闘を通じて テオドリックは 好く戦い 好く勝った。
やがてその老練な指揮と 不撓不屈な勇気をもって あらゆる障碍を踏み破って かれは ユリアヌス・アルプスから攻め下り イタリアの辺境に 無敵の軍旗をひるがえした。[G]

引用は 先に[C]としたのは カエサルの《ガリア戦記 (岩波文庫 青407-1)》からのもので これらは 言うまでもなく 年代も部族も 異なるものではあるが そして 後の[G]としたのは E.ギボンによる《ローマ帝国衰亡史〈5〉第31‐38章―アッティラと西ローマ帝国滅亡 (ちくま学芸文庫)》からのもので しかしそれは テオドリックが 二十三年の放浪ののち 最後に《ローマへ》向かったときの情況の一端を記述したもので このバルカン放浪のときのそれとは また 異なるのではあるが しかしいづれも 移動=侵攻の世界を よくうかわがせてくれるものとは思われた。
このようであるなら この情況の中にあっては たしかに 孤独をつかみ それを また あたため しかもそのいくらかは棄てていくという作業を遂行することは 必ずしも容易ではなかったかも知れない。その時間すら むしろ なかったと言ったほうが よいかも知れぬ。ただ やはりこの二年間(かれの二十歳からの)のバルカン放浪では テオドリックの内に 国家の問題(じつは 自治形式の局面展開)が始まったとするなら 放心の形態は 尾を引いていたとするのである。
特にテオドリックにあっては 何ごとにおいても その引け際の悪さがむしろ かれの真骨頂となって そこここに現われ出るのだったから。逆に言うと 自然という偶然と必然の織りなす・しかも それぞれの主体がその意志をもって繰り広げる社会という その原初的な関係性――孤独=孤独関係――が はじめにおいて テオドリックは つかみきれなかったとも言うことができる。片や 社会的な第一次の関係性の中に 孤独を見 その孤独の中から 自然の・人間の・規矩という関係(関係の規矩)をよみがえらせるということ(マルクス・アウレリウス)と 片や 規矩の問題ではなく 同時に 自己の知恵の同一にとどまるということ これを 孤独という海の中にみづからがあって そこにさまざまに投げ入れられた関係性という網を ふたたび暖めてでも 元の第一次的な関係を 探り当てようとすること(テオドリック)とである。
このようなたくらみ(青春の)を持つテオドリックは 毎日の行軍が ゆううつであるのでも 爽快であるのでも ない。言わば ひそかに あの運命の顔を見ようとし しかもその顔からの眼差しを避け それらすべてに抗しようとするそのような同じく運命に 突き動かされている一青年であった。

  • ちなみに

(つづく→2006-05-19 - caguirofie060519)