caguirofie

哲学いろいろ

#16

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§2 バルカン放浪 * ――または 孤独―― (16)

愛欲の あるいは 性関係の さらにもう少し具体的な事柄を述べておかなければならない。この一連の作品で これまでに具体的に触れたことのあるテオドリックのその相手は コンスタンティノポリス宮廷時代の一女官エウセビアと もうひとり 帰郷の途中を同行した一ゴート女性オストラゴータとの二人である。まず述べておかなければならないことは 性関係というのであって エウセビアとの具体的には 無事という結びつきをも 含むということである。孤独〔という関係過程〕の問題であるから。性関係を 愛欲の そして基軸といったのは この意味においてである。言いかえれば 愛欲の触手が 動き・動かされ それらが それぞれの孤独の 基軸(河幅)に 関係しているか どうか 関係してくるなら ということであるから。
この点について その間の事情をよく説明しているものとして 次のような文章が ある。それは――大いに唐突であるかもしれないが―― W.ブレークの《地獄の諺(ブレイク全著作)》の中の次の二つの命題である。

  1. いつも進んで心底を語れば 卑しい人は きみを避けるだろう。
  2. きみに平気でだまされる相手は きみをよく 知っている。

(壽岳文章訳)

これは 《地獄の諺》とあるとおり まさに孤独の闇の中に 弋を放って狩猟しえたかに見えるその獲物であると取ることができる。一言で言って――何べんも繰り返すように―― 愛欲の岸辺が 眼に見えない孤独=社会関係の一基軸となっているからには たとえばこのような命題が その岸辺に沿って まったく音も立てないまま 蠢き流れていなければならないものと考えられる。すなわち この命題を あの規矩としないとき この命題は 動態的に はたらいている。そして第一の愛欲に そのままかかわっていながら これから われわれは 解放されているその過程を しめしているであろう。これを 性関係として 言っている。
これは もっとも そのものとしては 規矩でもあるから もし テオドリックにも 何らかの折れ返しがあったとするなら たとえばエウセビアやオストラゴータとの関係の中で このような命題の地点までたどりつき ただし再び戻り 重ねて遊弋すべき一つの場所ないし形態として それは かれの内奥において 浮かびあがってきたに違いない。
重ねて述べれば テオドリックの・孤独の表面は あくまで 一言で言って ゴート種族の存続・これを願うことであり――表面というのは 孤独の内面とその外面としての《事業》との接点ということであり―― しかも その孤独の内的な基軸は 観念固定的になりうる規矩としての 誠実であるとか敬虔であるとかではなく このような地下坑の中の言い知れない蠢きであったに違いない。基軸から解放されたあとも それは 河幅として残るであろうし これを断ち切っていることと これに無感覚であることとは 別であるから。
ただしテオドリックは この河幅が 複岸となっていた。つまり 不法にかかわっていた。かつ 清廉と温和 つつましさと雄々しさ または 誠実・敬虔などという規矩は この地下水の流れる地点をかいまみることを通して その濾過物として浮かびあがるものである。このような議論を不問に付して 《規矩》主義から離れている第二の愛は あたらしい流れとして生きたもの(展開過程)となっている。ただ沈黙しないがためには このような議論が必要である。テオドリックが エウセビアやオストラゴータに対して このような議論(かれは放心の形態の中で考えた)が 必要であったように かれとわれわれとの連続性を見る上では 有益であるかも知れない。知られるべきものは 知られるべくして 知られるであろう。
もう少しはっきりと言うなら われわれも実際 もはやすでに あの第二の局面に立っているのであるから その意味でのたとえばエウセビア〔とテオドリック〕は――というふうに かれらを われわれの現在に置きかえて捉えるならば―― このような議論をすでに 自分たちのものとしている。この愛欲論をすでに 自分たちのものとしていて これを 善く用いるか否かの問題であるとなる。善くというのは 第二の局面に従っているかどうかが その基準である。
エウセビアは――また 別の意味と形式(関係形式)で あのオストラゴータも―― テオドリックを 避けず かれを離れなかった。テオドリックも かのじょらから離れなかった。三人は いづれも心底からその心を打ち明けていたであろう。ただちに言葉による表現として あらわれたかどうかを別として。そして 言葉による表現として また 結婚なら結婚という性関係として 現われなかったなら それは 不法――ここでは 河幅の複岸性――であった。
これは あの悪しき精神なのである。むしろ確かに――たとえ 不法が法であると言っても 確かにそのように見えていても―― すでに ほんとうは かれらは この第二の局面にあるのであって 性関係という河幅の複岸性はゆるされては いない。それは むさぼらないをむさぼらないとする局面に立って じつは 複岸性(むさぼる)なのである。この第二の愛の局面に立っていると確かに言うのは かれらは 心底から語りあって お互いを避けなかった〔というあの《場》の一貫性〕が 証明しているものと思われる。
むしろ 不法ないし悪しき精神――たしかに 霊である――は もはや法が法である(そして それが 単なる規矩=律法としてではない)新しい局面にあるゆえに 生起するのである。複岸性(むさぼり)は かれらのそれぞれの孤独〔展開〕において ほんとうには はねとばされている。一夫一婦という結婚(つまり 制度・法律としてではなく 孤独連関として)は ここで 生きた動態となっている。愛欲という孤独の一基軸の中の 性関係として 個人的な次元において 孤独を論じるというのは そこで人は このような一帰結を持っているのに違いない。ゆえに いく人かの妻を持ったテオドリックではあるがかれと われわれとは ここで 連続していると結論づけることができると思うのである。われわれは 規矩・規範に陥ったであろうか。
孤独は 孤独であって孤独ではないと 考える。社会は 社会関係であって 固定的な社会関係のみではないと 考える。――現代二十一世紀に住むわれわれとしては すでにS.フロイトを知っており K.マルクスを知っている。それらについて 詳しく触れなければならないという声が 聞こえてくるのであるが 非力なままであるが 次の展開にもかんけいして 同じくテオドリックの内に入って少しづつ そこに見えるもの(それのみ)に関して 議論をつづけ やはりそのことで満足しなければならないかも知れない。

   ***

(つづく→2006-05-22 - caguirofie060522)