caguirofie

哲学いろいろ

#18

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§2 バルカン放浪 * ――または 孤独―― (18)

事業の複岸性は ここでなお 個人の視点にのっとっているなら まず意識の流れの複岸性であろうかと思われる。
一般に かれの現実の錯綜性である。あるいは これまでのように言えば テオドリックに沿って 恩義と忘恩 法と不法とが――そして実際には 具体=個別的に―― それぞれ複雑に入り組んでいて 言おうと思えば 互換性を持つことであろう。そして 愛欲論において 複岸性――その一つの基軸は 性関係をとおしてということであった――が 結局の現実には 大きな一岸性(ただし 岸というからには その河幅がある)を 基本とするのであったように この事業における《法と不法》というときにも もはや両者は それらのさらに大きな一つの法(または 第二の局面という《場》)が やはり基本であると言っていなければならないかも知れない。
つまり 法と不法 恩義と忘恩と ここで言うのは 孤独(つまり人間存在)の根拠そのものとしてではなく その経験現実として言うことになる。経験現実の中の一こま一こまだと見てもよいように思う。なぜかと言うと 可変的な一齣一齣であると見るゆえにこそ 大きくは〔構造的な〕一岸性のもとに 具体的な事業としては やはり法ないし恩義または信頼関係などなどが 貴いものであると根拠づけられてくるからである。ややこしい言い方だが そういうことになるであろう。
ここで 事業論は 内的に愛欲の多元論(これが 一岸性〔基本〕と〔解放すべき〕複岸性とから 成るのであった)であり 外的に 資本関係論であるとなろう。
つまり 事業〔関係〕は 内的に 愛欲論に根ざして 資本一元論と 資本多元論とから成るとみることになる。ここで 資本とは 孤独の内的で素朴な基体が 愛欲であったように 孤独の外的な展開つまり事業の やはり素朴な基体である。人間存在が 肉・魂・霊から成っていたように この資本(資本関係)も モノ(資源)・事業欲(やはり愛欲・所有欲を含めよ)および人(つまり人間関係)とから成るはずである。ここでは この点を まだ詳しく展開しない。
要するに まず孤独つまり人間の 内外一体の一つの水路のようなものとして 愛欲論と 事業の資本論とが 考えられるということである。愛欲論に一つの結論を与えた今では 事業の資本論(ただし いまは 個人の視点に立っている)を展開させることは いくらか容易であるとわたしたちは知っている。
ところが いま 孤独の内と外とでは その河幅の岸は 別のあり方を示すとも思われる。つまり こうである。愛欲の複岸性――つまり単純には 基軸としての性関係をとおして 重婚をおもえ――は むしろ 事業の資本の一元論とつながっている これである。かんたんに例えてみれば 一帝国ないし一人の帝妃〔とその他の妻〕との 孤独関係ないし婚姻関係は ここにすべての基軸を置くなら つまり 皇帝制は その限りで 《事業》としては 資本一元論〔の一つの前奏曲〕であると見ることも可能である。前奏曲だというのは 重婚が解消されるとき されたなら 資本一元論そのものであるとなるからである。
若し今テオドリックが 皇帝として(少なくとも 一国家を装って) ゴートによる一元的なイタリア支配に 遠く 向かって いまはバルカンを荒掠していたとするなら まずこれは テオドリックの事業として 資本論ないし 資本一元論としての皇帝論(それへの序曲をなすもの)であるとも あるいは さらにくどいように 内的には そのような愛欲の一元論〔という文明であるのだろう〕へのささやかな抵抗(模倣を含む)を試みるものであるとも 考えられるのである。この意味で 全体として テオドリックのバルカン放浪は まさに 孤独の時期であった。
ここではまず テオドリック〔のゴート共同体〕の企業論のくわだてであり 同時に その成就への〔見通しを容れたところの〕限界であったと見なければなるまい。
ただし――と言うか したがってと言うか―― この企業ないし事業の成就(のち 一たんは 成就した)をもって 孤独の完成であるとも あるいは 企業の限界につきあたることをもって 孤独のまったくの挫折であるとも 見ることはできない。孤独のあの《場》――ないし第二の局面――が いわば連続するのであり 個人的には テオドリックにとっても この《場》への到達いかんが その完成かどうかを見る基準である。
つまり 孤独の外的な展開としての事業は たしかに それのみでは 限界を持つ。つまり 資本の一元論であれ多元論であれ それだけでは たといそれが成就されたしても 限界を持ったものである。完成いかんは 資本論にとっても あの《場》の――個人的な問題展開の過程としての――実現いかんにかかっている。まず資本論についても これを論じなければならない。
おそらく孤独(また非孤独)は 内的な愛欲論でも外的な事業論でも ちいさな成就(それとしての成就) あるいは ちいさな限界を つぎつぎと孕み それぞれを 分娩あるいは流産させて 流れつづけていくものとは思われる。この点で いま唐突かも知れないが たとえばフロイト精神分析学は 愛欲について その内実――ここでは 複岸性ないし一元性――における或る選択を とうぜん おのおのの孤独(ないし意志)に 迫っているものとして 基本的に読まなければならない。これを抜かしては ただの愛欲の無意識領域を指摘していたとしても いわゆる性格分析〔による単なる解釈〕とちがわない。
これは 無意識領域が やはり孤独ないし人間の――だから 肉・魂・霊の統一体の――根拠では ないことを 物語るはずである。従って〔と言うか〕 おそらくこれと同時に マルクス資本論は これが 資本一元論であるとするなら――マルクス自身は そうは言っていないと思うが―― 資本の多元論(だから むしろこれが 愛欲の一元論につながっている)を 証明しようとしたものとして 読まれなければならないはずである。
資本の一元論とは 国家の視点をもってとらえるなら 皇帝論=帝国論なのであり 一般に 大いなる孤独の一元的な社会支配のことである。いまは そのように個人的な視点をもとにして 人の――つまり 孤独の外的な展開としての――事業論として見る限りにおいてである。マルクスの《資本論》なる著作が書かれた時代にも 資本の多元論=つまり愛欲の一元論が 説かれた。少なくとも あの《場》の永続的なものとして これにおいて・かつ これをとおして 見通されていたと考えるのである。ひとまず テオドリックのバルカン放浪期の孤独の中からは 以上の点を見て そしてこのようにして かれの企業論・皇帝論が 実際にその緒に就いたと考える。

   ***

さらに続いて論じたい。
次章では ふたたび内面へ戻って 愛欲の現実的な形態(形成態)としての 《家族》をとりあげるつもりである。この家族と そして事業との関係を見てみようと思う。
これの橋渡しと そして なおこの章の論述への補足として いくらかの考察しておきたい。別の角度から 次のように。
(つづく→2006-05-24 - caguirofie060524)