caguirofie

哲学いろいろ

#22

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§3 バルカン放浪 ** ――または 家族論――

テオドリックは この第二のバルカン放浪の時代において あくまで 彷徨に彷徨を重ねていたのであるが われわれは それでは そのかれ自身の基盤であり基地である家族関係の どこが 安定を保ち得なかったのか あるいは その何が 不十分であって 充たされなかったのかとまず問うことになる。
はっきりしていることは 第一に 叔父ウィディメルとその共同体は テオドリックらとは もはや 離ればなれになっており ともに同じ種族ないし国家であるが 互いに行動を共にしないということ。第二に 父テウデミルは すでに亡くなったということ。第三に 血族としては 母エレリエヴァをともなっていたこと。そして第四には 一般に concubines と呼ばれる妻たち〔とその子ら〕が さらに加わったであろうということなどである。
この中から さしあたって論点を引き出しうる事柄は やはり父〔は すでに ないが〕と母と その子としてのテオドリック この三角関係 および テオドリックとその妻と子との三角関係 したがって それぞれの中の個々の《角》の存在 であろうということは 当然の帰結である。

  • ちなみに 精神分析と何らかかわりがないゆえ わざと 《三角関係》などの語を用いる。

それでは テオドリックは その家族関係の中に 孤独であって孤独でないおのれの存在を どのように みたのであろうか。


ここでは いくらか趣きを変えて論じることになる。というのは かれの前世代の三角関係と 当世代の三角関係とは すでに上に触れた記述で もはや用を足すと思われるから。それほど特異な 永遠の三角関係でもないように思われる。と同時に――前言を翻すかのように―― ひとりの人間にとって 掛け替えのないただ一個の三角関係も 永遠というほどに それは むしろ やはり経験的で時間的なものであるから ――掛け替えのないと断わったうえで――どうでもよいものなのである。そして このゆえに 永遠の または 普遍的な おのおのにとっての 三角関係(その形成態)なのである。言いかえると 人にとって唯一の三角関係を特定したうえでは むしろ形而上学的な(観想的な)問題が 問題であるように思われた。
父や母を あるいは 配偶者や子を それぞれ愛することは やはりきわめて煮つめた議論として言って そのような互いに交錯する二種の三角関係の 場を(場を展開していくことを) 愛することと 同じようであると考える。つまり これが――したがって―― 一個の人間の内的な愛欲論とも 外的な事業論とも たしかに普遍的に 通底して われわれの家族論を構成すると思われた。これによって親や妻(夫)や子を その特定の人物として 愛さない つまり ないがしろにするということになるであろうか。
三角関係が 経験的に言って 永遠だというのは まず このような前提を その内容としていると思う。


そこで 趣きを変えたテーマとしては 《家族》の問題展開は 《現実》に対する《超現実》の問題であるのではないか。
ここで 現実というのは やはり経験現実のことであって いま 家族が 他の家族ないしその一員と 社会的な関係の中で 労働しあっていること つまり 生産および自治を 共同して 遂行していくことを指して言っている。超現実の領域というのは これに対して 想像ないし幻想の世界のことを言おうと思う。家族は 《現実》の基盤であり基地であり 時に同じく 《超現実》の世界を 或る意味で もしくは いろんな意味で 担っているのではないか。愛欲としての孤独が 現実的にも 超現実的にも この家族関係の中で 基本的に と言うか 直接の契機として 展開されると考えるからである。
家族が 超現実の世界そのものとなってしまった場合は この場は 現実に対して いわば窪地を形成している。あるいは むしろ 経験現実としての 外的な環境世界が 超現実の様相を呈するとき 家族は 現実の一つの基盤である。もちろん 内的な 個人に限っての 愛欲論――そこに 外的な事業論の基本的な要因が みられる――が 一つの土台ではあるけれども。
その意味で 家族なる二種の三角関係の連鎖は それじたい 一個の社会であり また 全体の社会に対しては 窪地になりうべき(超現実に陥りかねない)反社会でもある。だから この家族関係の世界で まず愛欲論は いわば完成するとも見られ また事業論は ここから出発していくとも 捉えうる。このような位置にある家族について 考察しておこうというものである。
なぜなら 人が 内的に愛欲論(所有欲・生産への意志などを含めよ)においても 外的な事業論(人は 生産する――再生産していく――動物である)においても もし現実に反し対抗するように振る舞わなければならないように感じるとき だから 現実がむしろ 超現実の世界に陥っていると思ったとき この現実に=つまり超現実に じぶんも 陥らないようにするためには おそらくは まず自己の家族関係を 現実的と(現実の現実的な一基地と)するように 努力しなければならない。このときの家族とは 友だちの連帯といったように 象徴的に家族というときのそれであってよい。社会形態の一つのまとまりを 国《家》と言うといったようにである。
象徴的に家族と言うばあいは これが ひるがえって 超現実の問題であるかも知れない。ただ これは 《現実》への一契機としての《超現実(超現実的な力)》のことであるだろう。つまり いづれにしても――また つまり 国家というときにも―― 家族論の《現実》性 その現実的な形成・確立のためであることが その基調なのであり この家族が 社会のたしかに基盤だと見ることになる。
この永遠の三角関係に焦点をあてることは 避けるべきではなく 一つの重要な主題となりうると考える。事の性質上 非常な日常茶飯事をあつかうことになる。


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(つづく→marie madeleine - caguirofie060528)