caguirofie

哲学いろいろ

Capdenac le Haut

Pays des Causses - Lot
: dans les ruelles médiévales, il faut admirer les maisons à encorbellement, les fenêtres à meneaux et les portes ogivales. Depuis la place des Andrieu, un escalier de 135 marches conduira le visiteur à la fontaine des Anglais, peut-être d'origine romaine. La tour de Modon, un imposant donjon carré des XIIe et XIVe siècles, abrite un musée d'histoire locale.
( Veuillez, chère Mille épis, afficher des photos de vos favoris.)

《寅さん》を演じなくても成り立っていく世の中を・・・と思った男の物語り

(例によって soliloque のかたちにさせてもらいます。)

  • 男が寅さんを演じることを女性が何ら必要としない世界を望んだという意味である。
  • まず――というふうに論じる姿勢が 河を隔てた国の出来事だと言われかねないけれど そしてこの主題では 個人的なことがらに触れて話すことになると思われるけれど――初めに わがクレド:《 On est un christ. 》が来る。
  • なら その《われわれ もしくは 人間》は 両性の存在をめぐっては どういうふうにとらえているというのか?
  • こうである。一方でアウグスティヌスが《神の似像――そこには性は存在しない――》と二度触れた事態 他方で 《それでは身体の性を持たないのか。そうではない》と見る事態 この総合的な実態だ。
  • そして そのあとには 特に何か決まったことがらもないと思ってきたのだが・・・。
  • そうすると こういうことだろうか。男は 自然性としてそうであるほかに 社会的な性(その役割; gender というのかな)としても男であると。
  • 社会的にも男として振る舞う つまり寅さんのように男を演じるという理論。
  • もしこのように解していいとすれば わたしの回答はかんたんである。《神の似像――そこには性は存在しない――》 これが 寅さんの役割を務めるということ。しかも――おどろくなかれ―― この寅さんの役割を演じる《神の似像》は とうぜん 女も持っているということ。
  • (未完)

《寅さん》を演じなくても成り立っていく世の中を・・・と思った男の物語り(la suite)( bragelone )

とある高校の放課後クラブ活動のときの雑談。
――[bragelone]・・・相良直美の唄の中の《二人のため 世界はあるの〜》って 反対だよね。
――[tous les autres]えっ!!??
――[bragelone]だって 《世界のため ふたりはあるの〜》じゃないか。
――[C子]・・・ああ。brageloneクンは そうかも知れないけれど 女にとっては 《ふたりのため〜 世界はあるの〜》も いいものよ。
――[bragelone]ええっ?
――[Y子]brageloneクンは だめ!一生探しても そんな女の子は いないわよ!
たんたん!

谷泰 sur D.H.Lawrence:The Man Who Died = Jésus( bragelone )

The Man Who Died

The Man Who Died

死んだイエスの架空の後日譚

ヨーロッパ近代における性愛の復権者D.H.ローレンスの短編に 《死んだ男》という作品がある。それははりつけになったあと 本当に息を吹き返したイエスの後日譚である。もちろんそれは聖書の福音書の記述とはおよそかかわりなく D.H.ローレンスが創作したフィクション そして受難後のイエスについての架空の物語りにすぎない。そしてその内容は 敬虔な信仰の立場からすれば およそありえたはずもない 冒涜的な物語りともみえるものである。
D.H.ローレンスは物語りを ひとたび息をひきとり 埋葬されたイエスが 身体に強い痛みを感じつつ もうろうとした感覚のなかから 徐々に意識を回復しはじめるところからはじめている。立ち上ったイエスは よろよろした足どりで墓所を出て歩きはじめる。そして とある農夫の家の庭にたどりつく。
傷を受け 生死の境いをさまよったイエスの意識はなおもうろうとしている。ただその庭で憩ううちに回復してくる意識のなかで じりじりと照りつける太陽の下 彼は精気にみちた一羽の雄鶏が 庭で雌鳥を追いかける光景をみる。まさにその雄鶏の姿は 性の いや生の旺溢の象徴であり イエスはその姿を眺めつつ 自分がいかに不自然な理想を追い求めてきたか という感慨におちいる。それは一見欲望を抑えた崇高な生であったかにみえつつ しかしいかにも不自然な人間的生の追求ではなかったか。こういう自分の生への反省は さらに自己の過去の生への嘔吐にも似た嫌悪の情へと イエスを追いやる。そして 

だがいったいなぜこのように人間を高める必要があるのか。
土くれは掘り起こされることによって再び生気をあたえられる。それを高める必要はないのだ。土をして土たらしめあくまで天に対してその存在を主張せしめよ。
土くれを高めようとしたのは 私のあやまりだった。
破壊をもたらす鋤の先端が ユダヤの土壌につきこまれ この農夫の生命は畑の土のように掘り返されるだろう。大地を耕作から救うことはだれもできぬ。救済ではなく耕作をこそ・・・。

とつぶやく。
やがて彼は再び立ち上って歩きだす。そして海辺のほとりにたどりつき 女性に出会う。彼女は 女神イシスをまつる祠守りであった。イシスとはいうまでもなく 殺され 身体をちりぢりに裂かれた男神オシリスを探し求めて放浪し ついに彼を見出し そのばらばらの身体を一つにし 彼と交わることで 新生をもたらした女神である。このイシスの祠守りの女は イエスを暗い 灯芯のゆらめく祠のなかへ導き入れる。そしてイエスは彼女と交わる。その生の充足のなかで 真に復活の種子がまかれたと感ずる。


要約すればこれだけの話であるが・・・
(谷泰:キリスト教とヨーロッパ精神――とりわけ女性的性をめぐって―― 民族の世界史 (8) ヨーロッパ文明の原型

kitsch & counter-kitsch ?

存在との絶対的同意の美的な理想は 糞が否定され すべての人が糞など存在しないかのように振る舞っている世界ということになる。この美的な理想を俗悪なもの(Kitsch )という。
存在の耐えられない軽さ p.288)

この《キッチュ》に対して 《逆キッチュ》が横行しているのではないかという疑い そのような議論ができるのではないかと考えました。
《糞などは――あたかも人間的に あまりにも人間的に ゆえに しかもやはり美的な現実のごとく――存在している》と主張する動きのことです。
その眼で見ると 《ダ・ヴィンチ・コード》のイエスの結婚の話も いわゆるキリスト教への反動が起こっていると捉えられます。
また 精神分析が 結局はあたかもキリスト教のごとく 科学の精神として 神を表象するかの動きを見せていることも 同じように捉えられます。

  • ユダの福音書》の場合は 結果において 内容が違ってくるように考えています。よろしかったら→2006-04-07 - caguirofie060407
  • ローレンスは じつは少し読んだことがあります。この《死んだ男》でもなく《チャタレイ・・・》でもなく 思い出さないのですが(あとで調べます) 評論集だったかも知れません。つまり そんなに共同主観 common senseから離れているとは思わなかった記憶があります。sympathetic でさえあった記憶があります。(題名を忘れているようでは あてにならないかも知れません。)

D.H.Lawrenceなどの覚え書き

読んだのは エッセー集でした。

・・・
Sex and beauty are inseparable, like life and consciousness. And the intelligence which goes with sex and beauty, and arises out of sex and beauty, is intuition. The great disaster of our civilization is the morbid hatred of sex. What, for example, could show a more poisoned hatred of sex than Freudian psycho-analysis ? - which carries with it a morbid fear of beauty, 'alive' beauty, and which causes the atrophy of our intuitive faculty and our intuitive self.
The deep psychic disease of modern men and women is the diseased, atrophied condition of the intuitive faculties. There is a world of life that we might know and enjoy by intuition, and by intuition alone. This is denied us, because we deny sex and beauty, the source of the intuitive life and of the insouciance which is so lovely in free animals and in plants.
(D.H. Lawrence: sex versus loveliness 1928 in Selected Essays pp.14-15 )

  • 第二の段落に下線を引いていました。昭和三年ですか 当時において このくらい言っていれば いいのではとでも思ったのでしょうか。
  • 《 The man who died 》 これは――レジュメで判断するかぎり―― 度量が小さくなっているとの印象ではあります。
  • 谷泰は 文化人類学者として 女性原理ないし大地母神など《古代西方的世界の神話的発想のもう一つの深い流れからの湧出が 見出される》と捉えたようです。
  • これと並んで・もしくは合わせて 《キリスト教という固有の宗教によって抑圧された人間の心性からの ひとつのリアクション》と言っています。《C.G.ユングの言葉をかりれば アニムスに対する 抑圧されたアニマからの 平衡を求める復権の主張が みてとれる》とも言います。
  • ローレンスは 当時わたしが イギリスにも興味を示したときに手に取ってみたのだと思います。
  • A.Huxley E.M.Forster(印度がからんでいたので) そして 脈絡なしに Margaret Drabble Iris Murdochらの女性作家の小説などを 読みました。ただし このとき 辞書なしで最後まで読むという試みをしていて けっきょくどこまで分かったか はっきりしません。ローレンスのは ペーパーバックの本ですが もう最後まで読んでいないのが分かります。また 関心が次のほうへ移ってしまったのだと思います。
  • 《 insouciance 》を 呑気・無頓着あるいは 低俗にまでは至らない範囲でミーハー・能天気だととれば 自己弁護するような文章としてわたしは受け取ったのでしょうか。わたしの頭は 単細胞とまで言うかどうかを別にして 当時も今も 単純そのものです。相手に合わせた議論として おそらく多少は 複雑になっているのだと考えます。and so on...。