caguirofie

哲学いろいろ

#8

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§1 豹変――または国家の問題―― (8)

ここで 以上これらの命題を 綜合してまとめるならば まず [γ]と[ε]とは われわれの住む《世界》を 的確に表現して あの出発点としての基本的な場を指し示していると考える。これが 国家という視点と かかわっている。繰り返すなら 《有限ないし相対的であり 法と不法とから成り それじたい 自身の内において固有の(人間の経験的な)自治を持つ》といった位相の《世界》。このようにむしろ与えられた世界の上に しかも この位相と よく かかわって 国家の視点が 登場する。

  • つまり 性格分析や論理分析や 世界史の段階的な発展論やと同じように それらのほかの一見解として――それらと必ずしも別様にではないが――このように議論していくことができる。

次に このように分別された位相の中で [β]と[δ]とは その世界の法ないし自治の様式を示していると思われる。すなわち それを 二つの局面に分けるなら 一方で 世界史のある未発展段階において 不法が法としてその所を得ていることによって 自治をもつような様式 他方で その発展後は ある一定の法によって ないし或る正義によって 言いかえれば 具体的に一定の国家として 世界は その自治をもつという様式 これらが見出されているといわれているようなものである。
世界の位相は 便宜じょう このように その発展の以前と以後として 二つの局面に分けて 捉え得る。

  • ちなみに ここでも階級関係によって見る史観に 移らないのは はじめの出発点としての場とその場における出発 たとえてみれば 戦略と戦術とを むしろ故意に 互いに循環させたいという見方によっている。階級史観が みづからの史観を 至上命題としないならば この自同律のように見える問題展開の過程と同じものであると考える。きわめて舌足らずだが いまはこのように。

そしてさらに [α]の視点は これまでの考察から言って 一つには 以上の二つの局面ないし二つの自治の様式についての その一方から他方への移行に それじたい 深くかかわっているであろう。かかわりながら しかもその移行を見守るという当の視点でもあり かつ もう一つには 大きくこのような移行が成される舞台としての《世界》そのものを見つめる視点でもあると言うことができる。

  • 階級闘争史観も この前提に立っているはずである。

いま 《見守る・見つめる》などと言って 実践を言わないのは 問題解決の展開過程についての議論なのであるからであり それは また すでに言った 戦略と戦術との(つまり理論と実践との)つながりを見ようとして そこから まだ 離れたくないということによっている。もっとも このこと自体が 具体的な展開過程であり 動態であるなら むしろこのような自由な 議論(話し合い)が 実践であるとも じつは 見ようとしている。
すなわち 今いちど言いかえて繰り返すなら [α]から[ε]までを綜合する限りで 《世界》は たとえばその有限の領域という位相をみる視点と その見られた位相そのものとから成り その位相すなわち世界においては ある発展の前と後というかたちで 二つの局面に分かれ これら二つの局面には それぞれの自治の様式があるものと思われる。――そしてこのとき テオドリックにかんしては――以下が その結論であるが―― この議論に沿うかぎりで その発展の以前の局面すなわち 《不法を法とする》ことによって 自律する世界に属するということができる。まず これである。
そのとき 二つの局面をかかえる位相(ないし現実)としての世界にかんするかぎりでは 結局のところ テオドリックとわれわれを 互いに引き離す要因は ないと言わなければならない。ないと言ったほうがよい。そして この限りで すでに述べたようにしてわれわれの テオドリックは ひそかに サルマチア遠征をおこなったと考える。

  • わたしは 殺害ないし不法行為じたいを 弁護したつもりはない。
  • だから 仮りに ここで 階級闘争史観をあてはめて考察するなら それは むしろ その解釈の明快さゆえに 行為――もちろん 不法のそれだけではなく 一般に 〔法にのっとる〕行為――を 弁護し擁護し 時に その史観が 至上命題となるばあいには 人間の認識ではなく その行為の認識とその行為そのもの・つまりいわゆる実践の要請(至上命令のようなもの)に 《発展》する。つまり 発展したと見られつつ そこに《閉じ込められる》と思われた。

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以下 補論として述べたい。
(つづく→2006-05-14 - caguirofie060514)