caguirofie

哲学いろいろ

#15

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§2 バルカン放浪 * ――または 孤独―― (15)

〔愛欲・孤独・精神・・・テオドリックの課題。・・・〕
愛欲を 社会的(経済的)な一つの集団としてみるなら 政治経済学のクラスが 問題である。言いかえると この愛欲が 生存欲ないし生存権から始まって 所有欲ないし支配欲 あるいは 労働・協働の意欲 はては 生産・社会(共同自治)への意欲として 行為関係が成立しているときには 社会科学による考察が あたる。国家の問題も 同様である。
ここでは 愛欲の素朴なかたち 個人的なものに まず限って論じよう。むろん個人的というとき それは 社会関係的ですでにあるしかない。
さて 先ほど この愛欲を一つの地下水だと規定したからには――上に述べた理論から言っても―― それは テウデミルが アッティラに抗して みづからの種族の独立を勝ち取ろうとした事実〔の底流〕にも 同じくテウデミルが コンスタンティノポリスとの同盟関係の中において その実子であるテオドリックを 人質として遣るときの煩悶と決断という事実にも あるいは オドアケルが 残党を率いてでも みづからの種族の生存を絶やさないために動いたという事実にも あるいはもっと単純に テオドリックが コンスタンティノポリス宮廷の中で一女官エウセビアとのあいだに見たその互いの関係という事実にも それぞれ さまざまなかたちで それは 淀んでいたり 流れていたりしているのであろうと まず言わなければならない。テオドリックは このような底なる流れの中にあることが そして この流れを断ち切ることが さらにそして この流れを――第一のを断ち切った新しい流れを――愛することが 孤独(つまり非孤独)であると考えるに到ったであろう。単純にこれら全体が 社会的な関係性である。
たとえば――しかしながら―― かれの少年期の十年間も 後見人と人質という関係の中に過ごした皇帝レオとかれとのあいだに もし流れているそれが あったとして いまこのバルカンの山々のなかで テオドリックは そのレオに対して 実質的には 反逆行為をなしながら その互いの流れの中にあって これを断ち切ったのか あるいは それでも これを愛するまでに到ったのか この点を いま言う個人的な次元で 明らかにすることは 逆に むずかしい。明らかにしてしまうべきでは ないように思われる。またあるいは オドアケルとの関係としては 実際テオドリックはかれを 名に聞くのみで 会ったことも見たこともないのだが それにしても この時すでに このテオドリックとそのオドアケルとのあいだには いま言う意味での愛欲という現在=歴史として つながりが結ばれつつあったと むしろ反対に明らかにしうるかも知れない。
二人が ともにローマを目指し もし互いに 対手と見合っていたのだとするなら その欲するという行為事実の中に 地下茎は張られつつあったと言えるかも知れない。いま 愛欲を 個人的な次元で論じようというのは このような意味あいをもっている。社会的な第一次の関係性とは このことである。それは 簡単に 同時代人〔であること〕といった内容であると言える。
孤独とは――だから 非孤独とは―― このような意味の脈絡の中にあると考えられる。これを愛するのは 第一の愛欲としての魂そのものではなく テオドリックの また われわれの 精神と意志とであると推し測ることができる。《場》が いくらか構造的な内容をもったものと思われ しかし とうぜんこの構造は 問題解決の展開過程としてその過程であるにほかならない。
したがって いま一里の里程標としての結論を提出しえたと思うが ここで 個人的な水準でと断わったことからすれば 問題を 少し――ほんの少し――視点を変えて こう問いかけることになるであろう。愛欲というからには 性あるいは性の孤独を テオドリックが――さらにその後――どのように見ていたのか いまは これである。
上に概観しておいた一般の社会的な関係性(だから また 人の内面におけるかたちのそれ である)は この《性(性の孤独)》の外延にあたると思われ ここでは なおその内側を見ることになる。
言いかえれば 愛欲は 性関係として もっとも内側にはたらき 特に任意の対(つい)の関係を 一つの大きな基軸として その周辺(内面における外側に接する部面)へ向けて だから一般社会関係へと開かれ延べられていくものと考えたい。
基軸というのは 根拠のことではない。根拠は とりあえず人間の論法で言えば 人の肉・魂・霊を統べるところの精神の霊である。第二の局面の愛欲すなわち《愛》と これを言いかえてもよいが 哲学的な規矩(道徳)と見られることを恐れる。もっとも 悪しき精神を 偽りの愛(偽りの仲介者)とも呼べるなら 愛という概念も 価値自由的な(経験科学における)議論に耐えうる。ともあれ 精神――魂の規矩としての精神――を立てずに むしろ 第一の愛欲を 考察の主題とする。
ちなみに 一般的な愛欲(生存の欲求 所有欲 協働の意志などなど)による一般社会的な関係を まだ 人の内面のことだとしたなら その外面は この孤独の外なる社会的な展開であり のちに述べるように 社会的なおのれの仕事(役割分担)にあり ここでは これを 《事業》と定義するはずである。

さて ふたたび繰り返せば 愛とは 孤独また非孤独 これの愛であり さらにその基軸としての愛欲である。この基軸をまだ棄てておかないのは この第一の愛欲から人が 解放されたときにも なお孤独だとすれば そうであるからには この愛欲に対して 無感覚となることを 意味しないからである。逆に 非孤独と言い 第二の愛だと言って 第一の愛から解放されてあると ここで つよく唱えるのは 無感覚にならずして この第一の愛欲にわれわれは おそらく 死ぬであろうと言おうということを意味している。これは 問題解決の展開過程のことにほかならない。 
もしいままで述べてきたように 孤独の中の地下水〔としての愛欲 または すでに これに対する孤独の自立としての精神〕が テオドリックの人生の寝床であるとするならば 性関係は 一基軸として その川幅であり 縁堤であるように思われる。寝床というのは 仮りの宿りであるとも 言っておかねばならないが その地下水の川幅であり縁堤である(つまり河の流れそのものとは 言っていない)ところの性関係は いったいどのようであるのか。
まず具体的に言って この時代のつねに違わず テオドリックには 愛妾を入れて数人の妻がいた。後にイタリアを征服してから フランク族のクロヴィスと同盟を結び 同時に 縁戚関係をなすものとして その妹であるアウデフレーダを 正妻として娶ることになる。つまり このような歴史をとりあげるという意味で 性関係の規矩としての一夫一婦(特にその制度)を 正面から取り上げることをしないということである。
一言で言って 具体的にテオドリックの地下を流れる河の幅は 複数の女性の関係によって成り立っていた。と言っていい。これは 具象的な愛欲の ないし 孤独の 基軸としての《重複性》あるいは《錯綜性》である。あるいは 河幅の《複岸性》である。この中にみづからを置くものとして しかもみづからがこれを断ち切るものとして そしてその自己を愛するものとしての孤独の内的な基軸は テオドリックにあっては 重複したものとなっていた。
自己を愛するというのは 場の展開過程として 自己の同一にとどまろうとするということである。この重複性が あの規矩に照らしても 不法であることは事実である。また 真実であるが この点は説かない。それは 前章《豹変》で論じたところであり ただしなお この不法の事実について 論じすすむということである。それは 第一の愛欲(不法を宿す)から解放された第二の局面の愛が その精神による展開過程として なお 第一の愛欲に 無感覚ではないことを意味しているであろう。
ということは むしろ われわれは すでに たしかに第二の局面に立たされているのであり これは 問題の解決過程であって 戦いであるから このすでに戦いの模様を えがき 論じるということでもある。われわれは 第一の局面ですでに 法をもっていたのであり それがすでに 律法主義的な自治を言っており そうであるならば 第二の局面において やはり律法(道徳)の示す規矩を持ち出すことによって単純に 第一の愛欲は もう解決済みだと言うことはできない。第二の局面に立たされたことじたいが むしろ解決なのであり この解決は 愛欲そのものを解消したことを意味しない。われわれの進む場は このような前提の上に 展開しているものであろう。
まず ここまで述べて われわれの期するところは このようなテオドリックの内的な孤独のうごめきが すでにいくらか述べたその外的な展開(《事業》あるいは《出世間》)と 複雑にからみあって 当然つながっていると結論づける方向にあるのであるが それには いましばらく議論をつづける必要がある。


愛欲の あるいは 性関係の さらにもう少し具体的な事柄を述べておかなければならない。・・・
(つづく→2006-05-21 - caguirofie060521)