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哲学いろいろ

#30

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§3 バルカン放浪 ** ――または 家族論―― (30)

ただしここで われわれのテオドリックの彷徨は つづく。
ひとことで言って ゴートの《事業》は 対内的に 安定に向かい 対外的に 依然 流動的であった。それは 言いかえれば 対内的には 労働による時間の獲得・共同生活の樹立 対外的には 移動=侵攻という時間化への 荒々しい動き(模索のみ)である。その意味で ローマとゲルマーニアとは 世界が まさに――二種の平面の交錯するといったような――戦争期にあった。

  • ちなみに 種的二角関係の場を 《平面》と言わずに むろん 《立体》と言ったほうがよいかも知れない。《種》となるべき孤独という一個の《角》は 人間として 内的に 愛欲の一元性と複岸性との《構造》が 相手=第二角に接触して 牽引・反撥のいづれをきっかけとするのであっても そのようにして始められる現実と超現実との相克は 過程的であって 新しい局面へと発展しうるゆえ 同じこの構造を《階層》とも 呼んだ。これは つまり 互いの階層が 内的・外的に交わる場は 平面と言っても 立体(三次元)と言っても よい。ただし わざわざ 立体と もはや言い直さないのは 実は この二種の平面の交錯する関係は 過程であるから 第四次元の時間を容れて 全体として つねに 四次元の世界であるからである。(第五次元は いま問わない。)立体(三次元)と時間軸(第四の次元)との二つに わざわざ分ける必要もないと見なければならないゆえに。
  • なおもう一点。具体的な一人の人間としての《角》は もちろん 《個(個体・個別性)》である。個と個との二角関係は 同じく具体個別的な《場》として 《特殊性》である。この特殊性としての場が 互いの平面の交錯関係としてあるとき 一つの《普遍性》を 形成していると見る。これは 特殊性が 《種》を形成していることである。また このように 二つの《種》の相い交錯する場は 普遍的なものであるなら すでに《類》の関係を宿している。《個別性・特殊性・普遍性》 そして 《種・類》の 概念的な整理として 以上のように。
  • また 言いかえると 世界(ないし自己)の自治の《場》が 個別的・特殊にそして普遍的に 形成され 過程されているということ。普遍的な場は 個別的および特殊的な場を 平面二角の種関係とし 同時に 垂直三角の類関係としているであろう。場の普遍性の基準は 根源的には ただちにその答えを出し難いが 素朴一般的には たとえば人間の信頼関係であるだろう。これによって 場の有効・無効を 人は 推し測るのである。場の有効性は 絶対的な基準ではないが だから 経験現実は およそ つねに その無効性を排除していないが さらにだから 人間の場の有効性も 無効性と同じように 必然の王国に属すると言わなければならないが 人は あの第二の局面に立って よく生きるというとき 《基準たる有効性が 無効な経験現実を よく用いる》という場のちからを 種関係したがって類関係をとおして さらに推進させていく。そのとき 人は どこから来て どこへ行くか これは ここでは議論しないのである。

この章の最後として テオドリックの対外的な事業への胎動――だから かれの家族論の確立――は 具体的に たとえば次のような動きとして 表わされた。これを 特にコンスタンティノポリスのゼノ皇帝との関係において 追っておくことにしよう。
コンスタンティノポリスは まず前皇帝レオと 指揮官アスパル(ゲルマーニアのアラン族の人である)とが 実権を争って ついに相い戦い その結果 レオがその座を確保したのが 四七一年のことであり 四七四年には そのレオも かれの孫を レオ二世として 帝位に就けたあとで 亡くなっていることは すでに述べたとおりである。
レオの孫のレオ二世とは レオと皇妃ヴェリナの娘アリアドネと 将軍ゼノ(小アジアのイサウリア出身である)との 婚姻によって もうけられた子である。このとき 実権は 父であるゼノに 徐々に移っていった。
しかも 四七四年一月に即位したこの幼帝レオ二世は その死因が何であったにせよ 同じ年の十一月に 夭折したのである。そのままゼノが 次の皇帝として 立つことになった。
そこで レオの未亡人であるヴェリナが かのじょの実弟であるバシリスクスとともに ゼノの対抗勢力となったことは うなづかれることである。もともと小アジアの辺鄙な地であるイサウリアの者で 元の名を タラシコディッサと言い それをゼノンというギリシャ名に変えた皇帝ゼノに対して 幼帝の夭折の原因への疑惑とも絡んで 帝国に反対勢力が現われるのも もっともだと考えられたからである。レオの義弟であるバシリスクスは すでにアフリカ遠征を指揮して 大失敗を犯して 一般に 不人気であったのであるが このとき 時の勢いを得て 元老院の支持を受け ゼノを落とし 帝位簒奪に成功することになる。
ゼノは 今度はかれが 一般からの排斥の声を聞いて 一たんイサウリアの山中に逃げ去った。そうして バシリスクスの統治は 四七五年一月から翌年の八月まで 続くことになる。すなわち この八月とは ふたたびゼノが 勢力を回復して コンスタンティノポリス奪回を果たすときなのであるが ここで バシリスクスが その部下のあいだに 不平不満の徒を 数多く作り その人物らが 配所のゼノをふたたび 呼び戻すことになった詳しい事業は略す。が そこで この八月のゼノの決起には マケドニアテオドリックは その援軍として呼ばれ かれも それに応じることになったのだった。
結果は あっけないものであった。それは テオドリックの軍が コンスタンティノポリスに着くまでにその結着は すでに ついてしまっていたのだ。しかしかれは 復位したゼノによって 歓待を受けることになった。なお この時 相手のバシリスクス勢には 西ゴートの一分隊である(その本隊は スペインにまで移住していた)同名のテオドリック〔・ストラボ〕が 就いていた。このストラボのほうは そのまま バルカンの元の地へ 逃げ去っている。
テオドリックは 以前にも増して ゼノとつながりが出来――ちなみに 同じイサウリア出身の かつての女官エウセビアについては ここでは触れない。と言うよりも これまで述べてきた議論にしたがえば ここでかのじょとテオドリックのあいだに もし再会があったとしても 何が繰り広げられても ことの本質にかかわりないであろう。もし一言 指摘しておくべきことが あるとしたなら それは 二人のあいだの信頼関係が固まったというぐらいの点であるだろう。ゼノとテオドリックには つながりが出来て――
ゼノ皇帝は テオドリックに 帝国軍の統率者という地位などを与えることによって応じている。それらの地位は ちょうどそれまで バシリスクスによって 西ゴートのテオドリック・ストラボのほうに与えられていたものであった。同じゲルマーニア人の いまは亡きアスパル将軍と 同じようなかたちである。
そこで われらがテオドリックの行動についてであるが まずここで バルカンの山中へ逃げ帰ったストラボの征討を ゼノに申し出たのである。――ちなみに このような人間関係 種関係関係が 集まったところで たしかに テオドリックのかつての知り合いである年上の女性エウセビアについて 触れたいところである。上には再会後 お互いの信頼関係が固まったと述べたが これが よく働いたかどうか――場の局面転換であるかどうかは―― 微妙な問題でもある。ここで テオドリックが 同じゴート人のストラボ勢の征討を申し出たことにも エウセビアとの種関係が 悪いほうに つまり依然 彷徨として 作用したと言うべきかも知れない。ただし ことの本質は ゼノとの つまり東ローマ帝国との 種関係の展開にかかわっているであろう。すぐあとに これを見る。
もう一点。エウセビアの存在のほかに この新たな種関係の関係の中では ゼノに敗れてシリア・エジプトに逃れた先の皇妃ヴェリナ(ゼノにとっては 義母である)について 触れておく。かのじょは――ただし その弟バシリスクスは すでに滅んでいる―― このオリエントの地で なおも反乱を組織しようとしていたから。このとき ヴェりナの娘であり しかもゼノの妃であるアリアドネは 夫に その母ヴェリナへの慈悲を 嘆願したと言われている。テオドリックとそして同じゴート人であるテオドリック・ストラボとの関係にしても ここには 何か運命のいたづらと言ったものを見るべきであるかも知れない。つまり 種関係は このように国家の水準でも むしろ 家族論(だから 非家族の論)として 展開すべくして展開していくのではあるまいか。簡単に言って 運命という言葉を使ったのは 種関係をめぐる無効のばあいはその無効が 無効とされていくといった意味としてであるのだが。
さて テオドリックは バルカンの山中に分け入って テオドリック・ストラボへの攻撃を開始した。そこで このような敵対関係――ゼノとは 同盟関係――は きわめて意外な そして あまり面白くもない経過をたどる。ことをテオドリックとストラボとゼノとの三者関係にしぼっても かれらのあいだに 協定と裏切りと反目と和解と再度の反目と和解とが 次つぎに繰り返されることになる。
ここでは それを詳細に見ることを しないが その後 ひととおりの安定期に入るまでの経過の中から いくらかの事件を拾って ながめるなら 次のようになる。
初めに テオドリックの ストラボへの攻撃であるが このとき 少勢力のテオドリック軍に対して 援軍を約していたゼノが ついにその約束を果たさず そうして テオドリックが 完全に裏切られたのは この時のことであった。テオドリックは トラキアの地で 食糧も尽きるという苦境に陥ったのであるが そこで かれの採った行動は 戦うに利なしと見た結果〔としても なのだが〕 ストラボのほうに 和解調停を申し出ているのである。しかも このストラボのほうは かれらの側から 次のように テオドリックにむしろそう説得したと E.ギボンは 記している。

ゴート族を 骨肉あい食む剣戟によって 破滅させようとするのは ローマ人の不断の政策であるのに それを おまえは 知らないのか? この不倫な戦いに打ち勝つ者は 同胞民族の不倶戴天の恨みを受けるであろうし また受けるのが 当然であることを おまえは 覚らないのか?・・・

という《ゴート族の気質によく適した言葉であった》ということだそうである。これは われわれにとって 不快である。
次に このようにストラボの種族と 和解をなし 友好関係を結んだテオドリックは その二年後 ゼノへの報復の途に就くのである。――その行軍は 一たん首都コンスタンティノポリス近くまで攻め そこで 損失を伴なって 押し戻され ふたたび大移動=大侵攻を期して エーゲ海の沿岸地帯あるいはエピルスの地で 掠奪を重ね そして勢力を蓄えるというものであった。そこで行軍が止まったのは ふたたび同じように ゼノが恐れを抱いて 和解を申し出たからであるとされる。
この調停には しかも かつての少年時代 宮廷でテオドリックの教師役であったアルテミドールスが ゼノによって遣わされた結果 テオドリックがその勧言を聞き入れたと言われている。
次には さらにその三年後 今度は テオドリック・ストラボのほうが ついに みづからの種族軍を率いて コンスタンティノポリスを攻め入った時のことである。ストラボは しかしこの時 結局 一進一退の中の敗走中 運悪く 殺されてしまったという。攻撃の手は休められ しかしなおも残ったその部族民三万人は ストラボの子息であるレキタハの指揮下に入った。が ここで このレキタハをさらに支配下に引き入れたのが この時のテオドリックであった。
そこで このようにゴートの大合同が成ったと聞いて たちまちゼノのほうが 和解を 採らざるを得ない最善策として取って ひととおりの安定した和平期に入るというものであった。
そして これから後は テオドリックは 時にゼノに代わって 辺境部族の反乱を鎮圧しに出かけることもあれば 種族の者を 獲得した領土に定住させておいて 自身は コンスタンティノポリス宮廷で ゼノとともに 華美な生活にも浸るというものであったのだが かれが 種族を挙げて ローマへ進む時までは まだ 六年のあいだ そのようにして 彷徨がつづいた。
以上は 家族論にとっても 個別性ないし特殊性の領域での出来事である。
また じっさいには もう 第一の局面にとどまるということではなかったが その自治形式つまり《不法を法とする》場合は つづいていたのである。つまり 外にあって 事業としての資本一元論つまり皇帝論が うずまいていた。
われわれが 真に 資本一元論と相い向かって 戦う(問題を展開させる)のは まず 皇帝論(時に 国家主義の問題)が そのあらゆる形態を――無効に――展開し終えたあと さらに いわゆる近代市民の時代に入って 資本一元論が やはり無効に しかし 一個の社会形態ないし世界史の全体にまで 経験現実的にあまねく展開していくとともにである。これの成立を俟ってではないが 現代では そこまで 展開されて来ている。ゆえに 家族論が その有効な基地である――井戸端会議が 戦いの基本である――と思われた。つまり 内に 愛欲の一元論 外に 資本の多元論(種関係の社会資本的な総体)。
(§3 の終わり。つづく→2006-06-09 - caguirofie060609)