caguirofie

哲学いろいろ

#3

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§1 豹変――または国家の問題―― (3)

それでは ここで 一方で殺戮をいさぎよしとはせず しかもその反面で戦争にのめりこんで行こうとするこのテオドリックの動きに われわれは どんな像をかたちづくろうとするか。
人が 互いに矛盾する両方向のなんらかの性格をそのうちに持っていることは 当然であると指摘するのも ただ心理の世界にのみ通用する考えである。ここでは 《〈殺す〉のをためらう》テオドリックが 《〈殺す〉のをためらわない》ことによって 自身が生きる道を選んだという一つの世界であり そこでは 単なる納得だけでは すまされないものが見出されなければならない。もちろん殺す・殺さないという事に関して もし社会に時代的な進歩があるとするなら 現代においては その進歩にもとづくというような形で 時代の制約をもっているということは 言うまでもないのであるが。
この非連続性は 連続性をまったくは 取り消してしまうものではないと見る観点に立っての議論を促す。これは 時代の進歩――問題解決の一般的な展開過程――の問題であると考えてよいであろう。

そこで 戦いに際して 進むか・退くかをためらう一人の人間の葛藤を 主要なテーマとして描くものに たとえば インド古代の叙事詩原典訳マハーバーラタ〈1〉第1巻(1‐138章) (ちくま学芸文庫)》(《大印度》の意)の中の 一編《バガヴァッド・ギーター (インド古典叢書)》(《尊者の詩》)がある。あるいは 《進むべきか進まざるべきかが問題である》というのは 北欧の一王子ハムレットのそれである。
ここでまず バガヴァッドギーターでは 戦場に出た一王子(やはり ハムレットと同じく 王子である)アルジュナが 戦争をいさぎよしとは しないのである。ためらい ためらって 闘いの神であるシヴァ(クリシナ)と 延々と対話をなす場面が 展開する。このいくらかを 拾ってみたい。そこでは まずアルジュナは かれ自身のちゅうちょについて こう訴えている。

・・・〔手足がひるみ 口が乾き 身体がふるえ
髪が逆立って・・・肌は燃えて熱くなっている〕
このことは おお クリシナよ 悪徳の兆す前触れ
でなくて 何であろう。戦いで 同じ種族(くに)
の人びとを殺すことに いったい どんな徳がある
というのか。・・・
かれらを殺すことに わたしは 断じて 同意しな
い。たとえかれらが わたしを殺そうとも。全世界
に代えても そうだ。
The Bhagavadgita ch.1 st.29-31, 35。S.Radakrishnan 英訳よりの引用者訳。以下おなじ。)

これに答えて クリシナは語る。

この折れ返し(=反省) このくじかれかたは 一
体全体 どこから来たのか。われら気高き(アーリ
ア)種族の者には いまだかつて知られたことのな
かったものだ。それによって 天に導かれることも
なければ 地では アルジュナよ ただ名を汚すこ
とになるのみではないか。
(ch.2 st.2)

ちなみに ここで アルジュナの属する《アーリア族》というのは 同じく テオドリックないし大きくゲルマーニア民族あるいはローマ人も共に属する一大系譜であることは 言うまでもない。
こうして始まったアルジュナと神との問答は その世界観を徐々に開いてゆくかたちで 繰り広げられるのであるが ここではもはや その全体について触れる余裕はなく いささか強引に さらに次のいま一つのやり取りのみを掲げて テオドリックの話をすすめていくことにする。それは こうである。

[アルジュナ]
クリシナよ あなたは 進まざることの貴さと 同時
に《わたし》を捨てて進むことの貴さを説かれた。し
かし 〔もしそれらが互いに異なるものであるなら〕
いづれがさらにより貴いものなのであるかを おしえ
られよ。(ch.5 st.1)
[クリシナ]
たたかいを断念すること(the renunciation of works)
にも 《わたし》を捨ててたたかうこと(their〔=the
works'〕 unselfish performance)にも ともに そこ
には われわれの類としての本質( the soul's salva-
tion)を見出すことができる。
しかし それらの間では アルジュナよ 後者のほうが
より貴いであろう。(ch.5 st.2)

という全編をつうじて一つの基調をなすべき思想の開陳であるのだが 同じくただちに 結論的にいって わたしたちは これを それが もはや明らかに 信仰の次元の話であるという一点において 〔これも〕 テオドリックの変節にかんするものとしては 採りがたいと考える。ここまで――バガヴァッドギーターのように ここまで――言うことは もはや《すべてがゆるされている》と――そしてそれは 確かに真実だ――言うことに ひとしい。それで これにて足れりとすることに ひとしい。
我々は類としての本質(――要するに 人類の一員であるというその仲間であるという人間の存在のこと――)にもとづく知識にて 事足れりとするのではなく さらに 種的ないし個体的な実存についても 議論をつづけなければならない。
テオドリックに 果たして 〔キリスト教アリウス派の〕信仰のどんな内容が育まれていたのか それは ここで問うべき事柄でもないように思われる。もしくは 逆に このかれの個人的な信仰に 間接的にかんれんして それとつながった問題として かれの人間を問い求めなければならない。

  • すなわち ここでは 一般に 文学作品としての完結性を もはや焦点とはしないということである。

アルジュナは 類的な知識によって 決断をかたちづくった。テオドリックは――また 実際のアルジュナその人は―― そのような文学作品における思想を超えて 生きた。この存在は 過去として 現代にとって 非連続でもあるが 議論として 連続性の側面をも持つと言わなければなるまい。つまり 類的な知識にのみよる信仰は まだ 自己という人間を把握してないところの単なる宗教である。慣習である。これは 先の性格分析による人間の把握および 論理分析による情況の把握と同じように 人間把握にとって 以下であり以上である。いな 類的な本質を言い当てている限りで《以下》ではないが これをやはり 至上命題とするとき 幻想的にして 《以上》となる。それでは 駄目だという意味である。
そこで もうひとつ 先ほど触れたシェイクスピアの ハムレットに現われた思想はどうかというと これは やはり結論的に言って 同じく 別の意味で 信仰の次元に属していると考えられる。すなわち その宗教的な(従って文学的でもある)奥底の深さは別にしても ハムレットが 進むか進まざるかに対して みづからの手で 復讐をなしとげて そしてその後みづから 自身をも抹殺するという一連の行為に沿って進んだという一点において これは 明らかに ひとつの信仰という選択であると考えられる。
これはむしろ 類的な知識によってではなく 個別的な実存の問題として かつこの個の知識において 信仰ないし宗教とつながったことを 明かしている。この一点においてはやはり――シェイクスピアの全体的な思想あるいは ハムレットにかんする文学的な表現のちからは別にしても―― われわれは これを取らない。

  • だから もちろん そのような時間的な行為の選択が・意志の自由選択じたいが 貴くないというのではない。

テオドリックは この遠征で 明らかに 何かを特に目的として 行為しようとするほど 抒情的でも 悲壮でも ないように見られる。あるいは ハムレットが出たところで ちなみに テオドリックは 他方 あのドン・キホーテのように 明るく――かつ悲壮で――あるかと言って それでもないように やはり思われる。
われわれは 起こりうる議論として 四つの提案をしりぞけたことになる。人間の自己認識にとって 以下でありかつ以上であるところの 性格分析および論理(情況)分析が まず最初の二つ。あとの二つは 人間の自己把握にとって 一方で類的な知識として 他方で 個的な知識として それぞれ持たれるもの これらを 同じくそれぞれ至上命題とするところの信仰 つまり経験的な行動方針の如くして宗教 である。
これら四つの議論が 無益だという意味ではない。まだ 人間の言葉すなわち理性的動物のことば に到達しておらず われわれ理性的(かつ社会的な)動物のことばとしては それが これら四つの議論を用いると考えるのである。つねに それら議論を用いる地点にたたなくてはいけない。これは われわれのすでに提示した 問題解決の社会的・歴史的な展開過程という 結論的な行き方のまず 基本だと思われる。
たとえばここで 一度 整理して次のような事実を テオドリックのここでの条件として 確認しておくことは無駄ではない。
第一に テオドリックにとって 人質生活はもはや 終わったことである。そのかえる途中で見舞われた使節の一人 ハーゲンの不幸は これも すでに 完結したことであり――敵オヌルフに対する怨念は 捨てた―― この故郷に帰還した時点で 讐(かたき)とすべき事情も相手も 見つからないということ。第二に 大きく言って かれらの誰もが 戦いをおそらく避けては通れない世界の全体的な情況の中にあったことは 事実である。事実であるが 具体的にこの時 取り立てて戦いを挑まれていたわけでも何でもなく こういった差し迫った危険な情況にあったということでもないこと。
第三に テオドリックは 文明世界に接して 同時にその世界の共通の基盤が 何らかのかたちに現われた皇帝(これを共有して 共同自治すること)にあることを思い――時代として そうである―― いまこの時 戦いに入ろうとするためには 自身の世界にも 何らかのかたちで 皇帝(もしくは 文明世界の皇帝への何らかの関係・行為)を持たなければならないだろうと考えて行った――テオドリックのばあい そうであった――ことは 確かである。確かであるが それが 少なくとも この遠征の時点で かれの中に具体化したものとは 思われない。テオドリックは サルマチア族に勝利をおさめたのち かれらの財産を没収して 単純にそれを持って 父テウデミルのもとへ 帰っている。この時点で《ローマ》は はるかに遠いということ。などなどである。
言いかえれば われわれは ここで 一方で 何らかの内なる信仰による要請――それが 類的な知識によるものであれ 個的な情況によるものであれ――であるとか あるいは他方で 急迫したまたは遠大な計画といったそれぞれ現実として 外なる皇帝に対抗するための要請であるとか これらのいづれをも その主要なテオドリックの内面の事情を考える議論としては 放棄することになる。はずである。まず このことを確認しておきたい。
たといこのことが 史実に のっとっていないと指摘されたとしても ここに掲げた問題の展開過程じたいは 存続するはずであるからだ。こう――いくらか強引にでも―― 問題を立ててみたい。そして これは わたくしごとながら かなり重要であると思われる。

そこで じつは このことを確認できたとすれば この確認こそが テオドリックの変節を問題にしたことのすべてであったと言っても よいくらいなのである。これに対して なお少しく触れておきたい。


不法 という一点にしぼって テオドリックの動きを眺めて見ようということになる。
まず われわれは すでに触れても いたように この遠征でテオドリックがおこなったことは 現代のわれわれの客観的な理念から言って ひとつの不法であることを知っている。
テオドリックとかれの一味というゴート共同体の一部分が その隣人であるサルマチア族を破壊したことは その行為じたいは――くりかえすなら かれらに 内面においてのどんな信仰じょうの弁明があろうとも あるいは 外面においてその情況からのやむをえない行動に属するようなものだとの弁明が たとい用意されたとしても その行為じたいは―― 基本的に言って それが糾弾されるべきものであると考えるほうに われわれは 傾いている。
言いかえれば その点で われわれは 現代において 法・不法という点にかんして 単なる一共同体の域を理念的には超えている。ここで 諸時代の歴史的な 連続性・非連続性の面が 問題となるのでなければならないであろう。かんたんに言うなら 今は問題は ――この一つの理念じたいに限れば ほとんど議論の余地はないのだから(つまり その意味で 過去は 一般に 非連続であるという見方が もたれたりする)―― いま問題は 時代の歴史的な差異を われわれがどう考えるかという点に しぼられるとも言っておくことができる。
つまりそれは 現代にとって およそ争われざる法なら法(正義)ということの 理念が まだ――しかしまだ―― 理念であるという議論に ひとしいはずである。だから 問題解決の展開過程が結論だとも 言うことになるのだから。およそ まず われわれの解答ではなくとも 解答を問い求める場の設定をなしえたと考えてよいであろう。


そこでそれでは あらためて言いかえれば テオドリックら およびかれらと時代を共にするたとえば相手のサルマチア族のその内面において 不法をおこなうことをいさぎよしとはしない普遍的な考えが・・・ 
(つづく→2006-05-07 - caguirofie060507)