caguirofie

哲学いろいろ

#23

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§3 バルカン放浪 ** ――または 家族論――

まず あの問題解決の展開過程としての《場》は この家族関係の形成過程に その限りで ひとしいと思われる。家族どうしと言えども その人格(愛欲の主体)としては 互いに 別のものであるというのは そのさらに以前の大前提である。孤独は 独立主体である。
したがって 当然のごとく 愛欲の複岸性は この家族関係として現われる。それは 現実(一元性)的に および 超現実(複岸性)的に の両面においてである。言いかえると 個人のそれぞれの事業論を含めたところの社会の 現実と超現実とのいわば相克は――なぜなら それが 問題解決の展開過程であるのだから この相克は―― 単純基本的には この家族関係における 現実と超現実との相克の過程にほかならない。われわれは それぞれこのような十字架を背負っている。
むろん 事業論における資本一元論ないし皇帝論は その資本多元論との関係として 大きくこの現実 対 超現実との相克であるように思われる。つまりそのように 愛欲論 家族論 および 事業論は おのおの通底していると考える。愛欲の複岸性の矛盾は 家族論をとおして 事業の皇帝一元支配論と結び合わさっていると 一つの見解として 提出することができる。
テオドリックの重婚のようなかたちに見る限りそうである。そしてわれわれは 《豹変》の章での議論にもとづいて この不法をやり玉にあげるのではなく 家族論ないし事業論の 現代的な展開を ――むしろ かれの時代と 場ないし局面を 同じくしていると見てのように――井戸端会議していこうということであった。
《現実》または《超現実》の問題は 《時間》の問題であると考える。事業論として言うならば もちろん 労働・生産の問題である。――なお いまだ この生産の問題をここでは 社会全体の仕組みといったような事柄への議論を入れずに 個人的な水準で 考えようとしている。このような想定は そこに殊に現代では 限界があるとことわっておけば 議論としては成り立つものと思われる。ここでは 限界が見えたならば むしろそのことによって いわゆる社会科学的な議論と政策が 要請されるとさえ 虫のいい言い方で ことわっておきたいと思う。
このような仕方で議論をすすめていき すすめていくなら そこに要請される社会科学による解決策が 基本的な問題の所在として明らかになる というところまで推し進めようと思う。つまり現実と超現実との相克であると むしろこのわれわれの全体的な場を とらえるというならば このような仕方による議論でも 議論としては 成り立っていると思う。そしてなぜなら そうでない場合には われわれの言う愛欲論ないし家族論が 外的な事業論ないし資本論によって ――前者の二つが もはや社会的な経験領域ではないかのように(または つねに それら後者のあとに まわされるように)―― 押し潰されることを恐れている。
むろん 社会科学というのものは 前者二つを 圧しつぶさない――基本的に 前者二者の場の 客観的な交通整理をおこなうものであるから 圧しつぶさないことを だから それらに仕えるものであることを 役割としている――ものなのである。等々。
ちなみに 事業論――労働――が 現実であり テオドリックがここで 家族論として 超現実との葛藤を持っていたとするなら その原因は かんたんには かれ〔ら〕が 労働へと入ってゆかずに ただ掠奪を遂行する移動=侵攻という時間(または無時間)の世界にあったからだと 言って言えなくはない。これは すこし きつすぎる見方であろうので――たしかに 定住生活をもって 生産している ので―― かれの彷徨といういわば空位期間も まったく時間を伴なわない超現実の世界であったとは 言えない。
テオドリックの家族論において 時間過程が 焦点である。
(つづく→Fluctuat nec mergitur - caguirofie060529)