caguirofie

哲学いろいろ

#11

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§2 バルカン放浪 *――または 孤独―― (11)

テオドリックの第二の旅立ちは 結局 早くも 翌々年にやってきた。
サルマチア遠征――そこで かれの《豹変》という 自己の同一にとどまること をわれわれは みたのである――のあと である。もし 幼年・青年時のコンスタンティポリスへの人質行が 第一の旅立ちであったとするなら この帰郷のあとのサルマチア遠征をひっくるめたものが 第二のそれである。
なぜなら サルマチアから帰ったあと 翌々年といっても 次のような理由で 十年振りののち 仲間たちと隠密裏におこなった遠征から帰って つづけざまに といってよいほどであったから。この第二の旅立ちというのは 文字どおり 種族全体の移動(そういう生活である)をいうのであるが これは 事の性質じょう 一年・二年の準備をもって 開始されるのであるから。すなわち 種族(くに)全体の移動に際しては 特に食糧のたくわえが必須条件なのであって 小麦から羊肉・魚肉の燻製まで――小麦などは その収穫を待って―― 大量の保存食糧を 用意しなければならなかったから。したがって 実際の旅立ちの開始は サルマチアから帰って 二年ののちであった。父王テウデミルも これに 同意したのである。
ウィンドボーナ(ウィーン)に居住して 南へ降りる機会をねらっていた叔父ウィディメルも じつは同じくこのとき その移動を開始している。テウデミルのほうの共同体は ちょうど このウィディメル隊を パンノニアから まず送り出して その後みづからの出発を 開始したのであった。ウィディメルは 前々からの計画どおり 南へ方向を取り テウデミルのもとに テオドリックらは それとは反対の方向の東方へ 進路をとった。こうして 一共同体の 食糧やらを載せた何台もの車と 途中の食用でもある何頭もの家畜を率きつれての移動という生活が はじまったのである。
当然のことながら またそれは 行く道の先々で 時に 異郷・異族との戦闘を 回避し難い情況に つねに 追い込まれかねない生活であった。そしてテオドリックらが その旅を むしろ定住とするようになってからは大きくながめて すでに久しい時間(数世紀)が経っていたことは もはや繰り返さない。結局 ゴート種族のパンノニアでの定住は ちょうどテオドリックの誕生にはじまり かれの人質からの解放後まもなくの時期にいたる約二十年間ということになった。そしてその間に何度も述べるように アッティラフン族が 崩壊した事件を初めとして しかも他方 ローマ帝国は 依然 今度はゲルマーニアのさまざまな種族の者たちに 徐々にその権力を脅かされる形勢にあるという事情が テオドリックらの周囲では 繰り返されていた。
ただ ローマ帝国の衰退のあらわれと言っても コンスタンティノポリスに都する東のローマは 必ずしもその力を 弱めていたというわけでもなかった。それでも――テオドリックらは結局 パンノニアから東へすすんで この東の帝国領土を 公然と 侵そうというわけであるが―― その東の領土内でも 都コンスタンティノポリスを離れて 辺境ないしバルカンやマケドニアの山間地帯は 〔テオドリックらの後の侵略の結果からみても〕やはり それへの侵攻が 難しいというわけでも なかったようである。
このような情況のなかで このような事情のもとに とにかく テオドリックらは 移動=生活=時に侵攻 を遂行していくことになった。すなわち これは端的に言って テオドリックの幼い頃の養父役となっていたレオ皇帝への反逆を 意味することになる。《反逆》ないし不法行為等について その間の事情は 前章の《豹変》で述べたのである。
ここで ただちに この旅立ちの経過・結果を述べれば――そのように考察していくことが この第二部でのスタイルであるが―― まずかれらは シンギドゥウヌムの街を通過し すでに テオドリックらが遠征して討っておいたということになるサルマチアの領土を経て アドリア海沿岸のイリュリクム また マケドニアを侵し 遂に エーゲ海にまで 達し テッサリアやテッサロニカの街々を落としていったというものであった。
たとえばテッサロニカでは そこに駐在している正規のローマ軍と 一戦を交えている。また 都市を攻撃し 掠奪・占領をやってのけているのでもあるから むしろこの旅は そのまま 侵略行為であり ゴート種族の新たなる建国・勢力拡大への動きといったほうが よいかも知れない。このことに 目を閉じるつもりは ない。
そこで さらにまた 従って これら数々の攻撃・戦闘の結果 とうぜん コンスタンティノポリス宮廷とゴート国とは その戦いを終結させなければならない情況をもったのであり 両者のあいだに 最終的に 和議が成立することになったが それは ゴートがすでに占領し それぞれ分散して居住していた帝国内の各地域は すべてゴートに 譲渡されるというものであった。いづれにせよ そういう結果を見ることになったが 従って 今回の移動 すなわちテオドリックにとっての第二の旅は かんたんに一・二年にして その足をとどめ 早くも このマケドニア地域一帯に ふたたび定住生活をおくることになったのである。
わたしたちは こういう歴史――つまり 不法を法とする第一の局面を容れた人間の社会的な歴史――を 少なくとも経過してきている という意味では これを むしろ ありのままに見つめ 問い直さなければならない。問い直すというのは そのありのままの姿を 擁護することではなく これを超えて ――むろん 糾弾すべきは糾弾してだが――人間の歴史の擁護を しなければならない。現代から見て あるいは いわゆる学(心理学・哲学・政治経済学等)から見て われわれとの非連続性は むしろ はじめに ある。ゆえに これが まったくの非連続であるのだとしても 歴史的事実は 連続しているのであるから――これを 取り消すとか ただ書き直すといったことは ありえないのであるから―― これを 見ない・省みないということは ありえない。
この問題解決の展開過程――つまり第二の局面にあっても井戸端会議――は そのまま 人間のすがたであり われわれの生活動態そのものであるしかない。
このようにして 自国のあらたな土地を勝ち取り 大移動が 終結してほどなく 国王テウデミルは キルスの地で重病にかかり あっけなく亡くなることになる。すなわち このことによって テオドリックは この旅の終わりに 父の後を継いで 若い国王として立つというめぐり合わせを 持つことになった。
以上ふたたび繰り返せば このようにして 約二十年間におよぶバルカン放浪は テオドリックにとって 第二の旅立ちであったが それは 種族全体をともなっての そして同じく 現実に戦闘行為をおこなってのそれであったのであり さらにそして その終結は 父王を亡くし 後継者として みづからが立つという事態をともなってのそれと なったのであった。
そこで テオドリックのこの二年間を 随意に素描してみたいというのが 本章の目的である。題して 《バルカン放浪》――《ローマへ》到る二十三年間の模索の最初の一期間――である。
ただ テオドリックのちょうど二十歳からのこの二年間は じつは――断わっておかねばならないのであるが―― 例によって とりたてて歴史的な事実を拾ったり それらを究めていったりするということに 主眼はない。バルカン放浪と題したように きわめてわれわれの恣意をも交えながらの 気楽に テオドリックのその後を追ってみたいという程度が われわれの考えである。

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(つづく→2006-05-17 - caguirofie060517)