caguirofie

哲学いろいろ

#37

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第五日 ( kk ) (社会または《歴史》)

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――ごくろうさま。何から言っていいか よくわからないけれど あとはテーマを自由に選んで述べることとして わたしとしては むしろ 今のボエティウス君の議論から直接には 離れるかたちで わたしの中にある一つの視点について 述べてみたいと思います。しかい 今の議論にかんれんするところまで まず述べていきたいのですが それは ここで もう一度 《家族》ということについての検討から始めたいと思うのです。それは 次のような点です。
《家族》については すでに何度も述べてきたのですが ここでさらに その内部に立ち入って見てみたいと思うのです。それは あの《永続する三角関係(それとしての 類的な存在)》としての そのさらに具体的な関係(交通)についてであり そしてここでのわたしの議論の焦点は それが《三角関係》であるということ・および その三角関係の内容が ボエティウス君たちローマの側とわたしたちの側とのあいだでは やや異なったふうに見られているのではないか そう思われることにあります。
そこでまず 言われている事柄を わたしなりに理解すれば それは次のようになります。(

cf.

阿闍世コンプレックス

阿闍世コンプレックス

まず わたしなりにボエティウス君の側の家族観を分析するならば それは むしろ 捉えやすいと思われる。すなわち 簡単に言うならば 《家族》は 《情況》に対する《個人》の関係において その情況全体に対して たとえば《身分》という情況要因の一単位よりも後方に・そして あるいは《国家》という単位(つまり社会形態)と同じ程度に後方に 位置していると思われる。そこでもし それでは その《情況全体》とは 具体的に何を意味するかと言えば たとえばそれは 究極的には コスモポリスといったもののようにも思われる。が 従って その《三角関係》という家族単位が捉えやすいものだと言うのは そのような両親と子との垂直的な系譜関係が そこではむしろ 誇張して言うならば いま述べたような意味での 情況に対する《個人》が 全面的に表面に現われたところの 水平的な類関係としてあると考えられるからです。
互いに皆 水平的な個人どうしの関係であるということは 同じく誇張して述べれば それは その《三角関係》の中の《第三角》・つまり一個の自然・生物学的な余剰としての《子》が 誕生とともに 即座に 《親》それぞれの同じく 個人として その《二角関係》(つまり夫婦)の中に 割って入るといったものであると考えられます。

  • ちなみに ここでも 《余剰》が そのまま 本来の《形式(関係)》と見なされる思惟様式が 見られると言うべきかも知れません。もっとも 《人格》の《余剰》という言い方は おかしいのであって この場合は 新しく誕生した第三角つまり《子》も かれ自身《度量》の三つの範囲をもって 発展する《形式》の主体である――無条件にそうだ――という条件のゆえに そうであるのだと考えられますが。

そしてこのとき もし 《情況》というものを この三角関係としての《家族》という単位情況に限って言うならば その《子》(たとえば一人の男子)が 他の先行する世代の二角(両親)のうち その子自身と同性の一角(たとえば父)の位を奪って その子自身とは互いに異性である他の残りの一角(つまりこの場合 母親)との自然・生物学的な人間の関係が 成り立ちうると 言われる場合があります。
このことの心は むしろ 互いに異性である親と子との 人格的な等位形式交通つまり自然=社会的な関係が 成り立っていると見るゆえに 自然=生物学的な言わば余剰の関係の側面が 一つの認識の可能性として 指摘される――そして それが 文学作品といった想像上の現実の世界で 物語りとして描かれる――ということだと思うのですが。
つまり従って もしそうであるならば 所謂る男女両性の関係(単位的には 二角関係ないし 平面的な三角関係)は この《家族》という単位の枠を 破ってというか 離れてみても 一般に 情況の中で 《水平的な 類としての 三角関係》ないしつまり《等位形式交通》を その基調としているのだと説かれるし この認識が すぐれて 優勢であります。
あのソフォクレスの描いたオイディプスにまつわる親子の三角関係の物語りにしても まず第一に 次のような意味から この《等位形式交通・やはり[α-ω]》が その基調をなしているということ。すなわち オイディプスは あやまって 父を殺し その母と結ばれるというそのような一つの三角関係にあるとして 描かれているわけですが しかも かれの意識は 自分が知らずに犯したその三角関係を みづから暴くという方向につねにあって その限りで 外へ開かれている。つまり その意味で 等位形式交通の中にあり おそらく 諸価格関係における個々の交通も そうであるだろう。
たとえば ソフォクレスに従えば オイディプスは その罪のつぐないに みづから 盲(めしい)になるというように 等位形式交通の回復へ向けて 進展する。そうでない場合 つまり 罪のつぐないを はっきりしたかたちで 取らない場合も そのかれを支えていったのは この等位形式交通という現実であるだろう。身分化あるいは民主化(つまりこれらは 直接的には ここで 家族という三角関係の中におけるである)といったいづれの形式よりも 基本形式[α-ω]が 貴ばれたと 見ることは可能だと考えられます。そして国王としてとどまるにしろ とどまらないにしろ 国家という社会形態の中で 身分制よりも民主制よりも 等位形式交通の展開に 重きがおかれていると考えられます。
もし これに対して オイディプスが 無意識のうちにも抱いたとされる複合心理構造(コンプレックス)が かれの形式形成を 左右してしまうほど 強いものであったとするなら 言いかえると 等位形式交通という視点を 実際に たとえば民主制[γ]なら民主制という作用として捉え 両親の二角関係の中に その性の行動としても 割って入ったとするなら もう一度言いかえると そのように 皆が互いに等位にあって かつ 意識ないし心理が 行動においても 複合するべきだなどと考え これを実行に移したのだとするなら そうだとしても 
これは 単純に自明なこととしては 等位形式交通の概念の誤解から来たものであるから やはり その正解としては-――循環論法であるとしても―― 《形式》的・《人格》的に そして自然=社会的に その交通において 遅れてやってきた子たる第三角も 先行する両親の二角のあいだに その意味で 割って入りうるという概念と 両立するものと思われ それは ボエティウス君の言うように きみたちの社会では 《形式》は 《情況》全体に対する関係が 基本であって そのように 外へ開かれている。つまり 垂直的な三角関係たる《家族》も 考え方として 水平的な類と関係として 捉えられていると思われるのです。
つまり 垂直的・時差過程的に 含みや幅をもたせての等価ではなく 水平的に等位形式交通にもとづいて 自然=社会的な一定の価格の値いに落ち着くと考えられた。
《情況》には 一面で それじたいに《自己否定性あるいはむしろ自己肯定性》がないという意味で 言わば《自然》ないし《無意識》であるという側面と しかし 他面で 《情況》にも それが個々の成員の《形式》の集合のみから成るというその意味で 《精神》ないし《意識》であるという側面との 両面があると思われるのですが 個々のの価格関係における等価交換は 精神的ないし意識的な等位形式交通にもとづき そしてそれが 水平的な類の関係として捉えられる傾向が強いということより これによって 自然的ないし無意識(情況不関与的)であると考えられます。これは このように  わたしの見るところでは 《家族》における形式ないし方式に よっているのであろう。
《意識》が 《精神ないし知性ないし意志》と 《自然ないし身体ないし感性》との接点であるとしますと いわゆる現実でもあるこの意識領域の方向によって 同性の他者の位を奪うという無意識的な心理の複合作用(いわゆるオイディプス・コンプレックス)も 言いかえれば 一般に 他者の《形式》に自己の《形式》無理やり 重複させようとする無意識的な衝動も それが 内へ向かって閉じられるか あるいは 外に向かって開かれるかの違いの もって来うるように思われます。これは 家族という単位三角関係の形式形成の問題であり これによって 等価交換を一つの原則とする価格関係も 決定されてくるというような気がしています。
つまり 《無意識》が 自己のうちに向いて閉じられているか 外に向かって開かれているか このいづれの場合にも 逆に言うと その心理的な複合作用つまりコンプレックスは そこで 構成されているのであった その構成の成立要因は 《等位形式交通》という[α-ω]視点であるだろう。内閉か 外開かは この概念の誤解か正解かの違いにあるのではないだろうか。つまり 経済行為としての価格関係一般も その交通は 《家族》関係に発しているといえるし 基本的に《家族》の問題であると言ってもよいのではないだろうか。
もっとも これがただしい認識であるとしても だから わたしたちの社会では 《家族》の形式形成の方式が 内閉的であって 等位形式交通に反していると言おうとしてのではありません。水平的な人格交通としての三角関係という方式とは異なったわたしたちの方式は 別のところにあると言おうとするためのものであることに まちがいはありません。
すなわち 《意識》は一般に 外に開かれてもいるとしますと 特に《無意識》の領域が これも外開的であるようなものが わたしたちの社会に考えられると言うのではなく 家族における三角相互の交通関係が水平的にではなく 垂直的・時差過程的

  • 《どうでもよい》ところの indifferenceではなく 《どうでもよくない》ところの無時差。つまり 《どうでもよい indifference 》が どうでもよい。つまり 《無時差= indifference 》ではなく 《無時差への無関心》。これによって 《時差過程的》

であるのが わたしたちの一方式であるように思われます。この方式のもとに 同じように 無意識が 外開的な内閉的かのちがいが 生じているように思います。かんたんに言いかえると わたしたちの方式では 《等位形式交通》が・従って《等価交換》が 時差・遅延すなわち或る過程的な時間の幅をもって――そしてそれが 《家族》においてそうだからだと言おうとしているのですが―― 成り立つと見られている。《余剰による形式の段違い》とか それによる《形式の断続性》とか このような分析視角によるのではなく つまり 《段違い》も《断続性》も このいまの 《時差》の幅の中に組み込まれて その遅延の過程間隔の中では 自己の《形式》の中に取り込まれており したがって 《等価交換》というときの《等価》も 《段違い》というか《非等価》 つまり 一定の過程的な幅をもっての《等価》だというのが ともかく基本的な方式(形式形成への)であると考えられるのです。
言いかえると 未来へ向けては そのような垂直的・歴史過程的であり 過去へ向けては 《等価》という価格関係の面では やはり同じようであり そして 《人格(形式)》という面では その過去の《形式の余韻》が ともあれ 支配的であるというふうに見ることができます。
この方式において 意識ないし無意識が 外へ開かれずに 内に向かって閉じられているというときには つまり 等位形式交通[α-ω]の誤った解釈のばあいには 
(つづく→2006-04-29 - caguirofie060429)