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哲学いろいろ

#44

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§6 ローマへ *** ――事業論―― (44)

第四章《バルカン放浪 *** ――企業論へ向けて――》が ここでの事業関係理論への 直接には 前奏であった。ふたたび参照していただければ さいわいである。
序言の第一は それを 社会科学的な理論と言いつつ 反面で 企業種関係論とも言うべき 種関係つまり現在的な平面またはむしろ個体の事業への主観を 基調としているということになる。これについて あらかじめ 考察しておかなければならない。
われわれは 哲学の遊戯の終焉を 説いていたが これは 哲学の無視ではなかった。また われわれは ここでは まだ 世界を解釈するのだから 彷徨(バルカン放浪)だなどと言っている。
しかるに 《哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきたにすぎない。大切なのは 世界を変えることだ》というマルクスのことばも 意外とよく 引き合いに出されるものだ。さらに しかるに われわれは 一つの文学論(作品)の最後の一字のあと 読者が 行動の放物線をえがきうるような質料論(世界観)が よいなどとも 議論していた。哲学(知の愛)をとおしたカタルシス(浄化)を 排斥するものではなかった。
これらの前提的な諸条件を前にして 《主観的な質料論ないし事業論 の現実を 客観的に社会科学の理論として 考察する》という命題は どういうことを意味するか。
一つ。われわれは 世界(自己)を変えることができない。変えようと努めることはできる。だから 世界を変える(展開する)仕方を 変えることができる。これに対して従来の社会科学は 或る主観(自己)が その種関係現実において 自己の展開の方式を 把握し また より善い新しい方式へ変革するというとき この認識と変革の仕方を 現実の質料関係論の交通整理をつうじて 支援する(政治的あるいは社会科学的に解放する)ものである。われわれの社会科学も これを継承しつつ ――欲張った言い方だが――文学論的な事業論の 理論づけをおこなう。
一つ。哲学とは 《砂浜にきづいた言葉の城である。それは 波が押し寄せれば たちまち打ち崩されてしまう砂の城にすぎない。ただ このときにも 哲学という時間にあっては われわれの城の構想・その構想の力・築城の行為 および それらの記憶は いわばその波に乗っかって 波の一寄せひと寄せのあいだに 生きている》。もしこのとき 仮りに哲学が 波を起こす(世界を変革する)などということを 目的とするならば それは 政治(ないし政策)であって――つまり 実際には 波を起こすことなどは出来ず それは あるとすれば 波の流れを誘導するといったことであろうが そうであるにすぎず―― しかも これに われわれが 哲学という名をつけることを 譲歩しつつ認めたとしても それは 《時間の哲学》であるにすぎない。
つまり 世には 《哲学の時間(哲学という労働)》と 《時間(労働)の哲学》とが ある。よく考えてみると おかしなことだが 一般に 前者が 《世界の解釈》で 後者が《世界の変革》であるとされている。この後者を 《時間の社会科学(その政策および実施)》と言いかえてみれば 納得のいかないことではないのだが 実際には 社会科学は 第二次的な時間(労働)なのであって すべては 前者の《哲学(或る質料論の展開)の時間》に立っている。哲学をみとめなければならない限りで これが われわれの問答過程 ないしその場 つまり その底流が市民社会であるところのわれわれの時間(生)であることなのであろう。
《世界を〔も 変えうれば〕変える》のは 政治家であり――つまり われわれ都市民( politiques )の内の たしかに公民の部分であり―― これを排除しないことと 市民社会の日常生活としての自己の事業論を展開することとは 二つの別のことである。市民生活は 一般に 世界の波にもまれること そこを泳ぎゆくことにすぎないとさえ 言っていい。なぜなら この市民の弱さが 公民的な政治=社会科学を要請しているものにすぎないのだから。この要請を受けて 社会科学を理論し実践するのは ほかならぬ市民である。つまり 独立的な政治家・社会科学者は じっさいには 市民の内の――内的な階層構造の内の――公民の側面であるにすぎない。
これが 《もっぱらの公民》となって 市民から分離・分立し 果ては その独自の社会階層までをつくるに至っても そうしたなら これは 市民の自己疎外である。このように よそよそしくなった人間が 社会を だから 市民を 包摂・支配するなら それは 無効である。狂気である。人間の人間による管理。われわれは この意味で基本的には 《世界を解釈する――つまり問答していく――》学を あの底流にもとづいて 構築しなければならない。
世界を解釈する《哲学の時間》も 世界について新しい波を――《世界を変える》ためにではないが――思って あらかじめ推測しあい 論議しうるものである。したがって この《哲学という時間》とそれの 事業論への導入が 市民を 単なる日常的な市民であるばかりではなく 同時に 政治的な都市民(公民)である人間に もっていこうとしている。
それに対して 《世界を変え》ようという《時間の哲学(たとえば ポスト産業化社会のデザイン)》をおこなう市民は ひとえに 政治的な都市民であるしかなく(あるいは いわゆる職業的な革命家であるしかなく) かれの日常的な市民の部分は つねに このもっぱらの公民の部分に(つまり 類関係論の先行する質料論者に) 従属することにならざるを得ない。これは 内的な階層構造と それの類推としての外的な社会階層構造との 転倒である。または 内的な階層構造内の 倒錯である。これは 人間の不幸である。
このように言うことが 卑近な言葉でいえば 停滞的で保守的な歴史観に立つということになるとの反論が 出されるなら 反論に ここでお付き合いはしないが 次の側面をさらに指摘しておこう。
この《世界の解釈》的な事業論 の前提としての哲学という時間にも 例外的な時間は あるのであって それは 次のようなわれわれ市民の行動・事業の 逸脱的・時に たわむれ的な一領域のことである。つまり 市民も 政治への参画において 単に哲学という時間をもつ(持って間接的に政治する)というだけに満足することなく 言わば 世界の波が 潮となって この潮の流れに要請されざるを得ないかのように ある時間においては もっぱら政治的な時間の哲学者となることも 回避されるべきではない ということである。
ふたたび繰り返して述べるならば ただそのときにも かれは みづからの固有の《哲学という時間・その記憶》によって そのように 一過性の《時間の哲学》者であるにすぎないということ。これは はじめから 全《時間》を哲学していた者のように 継続して そうあるのではない。なぜなら そのような《市民》としてのわれわれは はじめの《政治》ないし《国家》を――時に そのような《超現実=幻想》を―― 歴史において現代において 基本的に中立的な人間の行為領域とすることに 〔あの第二の局面にあって〕同意したからである。これについては 長くは論議するまい。
たとえば《明治維新》を思うべきである。すなわち これを 市民の 日常的な種関係現実からの 逸脱・たわむれという時間として 思うというふうにである。市民社会が 底流であって 事業論の市民的自由が すでに 有効に 質料関係(資本)の基盤であるとしたなら。この後に たとえば《国家》が 揚げて棄てられていくかは 市民社会によって止められ揚げられていくかは 別の問題である。これは 後の楽しみに とっておかれるのである。
あらゆる解放が 人間の解放であって 人間の自己への復帰であるなら 国家的人間・政治的市民つまりもっぱらの公民は かれらが 市民社会の中へ入って 自己到来することを俟って はじめて解放されるのだからである。
《意識(外的な社会階層関係の)が 存在(内的な階層構造・また生活)を 規定するのではなく 存在が意識を規定する》(われわれは 存在を変え得ないが 意識は 変革しうる)のだから。このマルクスの文章は 《無効の現実の実効性が 現実に有効なのだ》《いわゆる 現実はきびしいのだ》というふうに 倒錯して 解釈されている。これは 気が違っている。もしくは ほんとうには そう思っていないのだとするなら それでも 現実はきびしいと言うとするなら その人の自由事業論は 奴隷の(つまり不法の・無効の)自由である。
種関係現実の先行とは 一過性的に自由に 類関係移行論を それへ逸脱してしまってのようにさえ 表現し 発揮しうることでなければならない。
かかる意味あいにおいて 社会科学的に 事業論を たとえば企業種関係論として 考察していこう。われわれは 勝利しても 心うごかされないであろう。

  ***
さて 本論である。

ここでわれわれは 《企業種関係》を論じるに際して 新たに 《等位交通》《種関係交錯の平面現実において 交通(種関係交錯のことである)の等位形式》という概念を 導入したいと考える。《交換》とは 《交通》を経済的な活動の面にしぼってみた概念である。交通とは 種関係が 人格的に 交錯する(むろん 発展・展開する)ことである。

《等位(交通しあう人格の――具体個別的な場面で 位格どうしの――対等・平等)》とは 《種と種 ないし 個と個との 形式的な等位 したがって 種関係の動態的安定》といったほどの意である。《形式》とは 内的な階層構造(すなわち人格)の内容のことである。《内容》を 関係的に言い表わすなら その同じものが《形式》である。内容を離れて よそよそしい内容関係となったことを 形式的という場合もあるが それは 言うところは 形骸的といった意味である。

この《等位交通》は われわれの企業種関係論の――その新しい方式は 事業の自由である――全体にわたる大前提をなすと言ってもよいであろう。大前提は 目的でもある。交換における種差関係を――当事者双方のそれぞれ主観的な 交換値をめぐっての 乖離感を―― この等位交通が含んでいる。なぜなら 人格的な交通の等位が 市民社会の有効性の基準であるから。現実に あるいは超現実に そこに 無効がない と言おうとするのではない。動態(発展・展開)的な安定 における等位ということが そのことを 含んでいる。つまり 揚げて棄てようとしている。

つまり この社会学にあっては なお文学論が とことんまで 有効である。その方向は 市民社会の現実的な展開のことにほかならない。

《交通の形式的な等位》は 〔非〕孤独の外なる展開として 事業という《時間(労働)化》の過程を 哲学という時間において 対象化し 認識してみたものである。また それにすぎないと言えるし 市民社会が現実であるなら すべては これに尽きる。

これは 一個の類関係論(類としての個の像のはじめにおける想定)であるように見えると思う。わざわざ 否定しようとは思わないが もし 資本一元論においてさえ 《自由競争(自由交通)》とか《等価交換》という類関係論(理念)が説かれ それなりにすでに有効であるとするなら そこで 実際には 《人格(経済主体)の等位交通》ということは 前提なのである。

《時間の哲学》は これを だから さらになお 政治的に 従来の社会科学にのっとって 勝ち取ろう・実現させようとするかも知れない。それは ありうることであろう。われわれは これを排除することなく 哲学という時間にあって まず 解釈する。その社会科学であるにすぎない。しかし ここで きみは 人間として 自己へ復帰しているはずである。それ以外に 人間の本質も現実存在も ありえないから。したがって 等位交通は 類関係移行論であっても 類関係論の先行ではありえない。いまおこなわれる交通 殊に財の交換において つまり 具体的な人間と人間との種関係現実において これを その対象化したものとして 認識している。つまり そのように解釈している にすぎない。この自同律は 動態である。規範先行はありえない場合の自由であるしかない。

われわれは これまで 哲学という時間において 次のような砂の城をきづいていた。

第一に 事業の種関係へ展開する愛欲・所有欲の そしてその十全な形態としての家族の 主体性(あらたな地下水に根ざしたその主体的な展開性)を 重ねて強調していた。家族という種関係基地の 形式的な独立を言うことにほかならなかった。家族論は 事業論を介して 非家族の種関係論であるから 家族の一員たる新しい愛欲主体の独立性とは ここに言うわれわれ相互の等位種関係(等位交通)として 展開されるという道筋である。

つまり 種差関係が そのまま 交通の等位形式(等位関係)だということになる。これに 論証は 要らないであろう。等位交通でないなら 種差(時間差・時間の剰余としての第三角価値の相互介在)関係ではないということだから。差異(差別)交通であるなら 種差という時間差・労働差は その有効性の基準をなくすわけであるから 起こり得ない。すべてが無効の世界 世界の出来事のすべてが無効であるということになる。そのときには われわれは 飲めや歌えやといって まぼろしの中に 生活している。それでよいと言うのは 《γ》思想群の――つまり あたかもγ線を自由勝手に恣意的に放って 遊び過ごす――判断停止派の考え方である。そのときには 遊びという概念も ありえないであろう。すべてが そうなのだから。

ところが ここで 企業種関係の場合は それなりに独自な〔小〕内容(質料論) つまり 〔小〕形式的に質料関係というものを もっている。総括的にモノとしての資本(生産物 情報・サーヴィスなどの物)が 内容=形式となりうると考えられている。大内容たる人格の交通は 一般に モノという小内容の交換をとおして おこなわれる。等位交通は 等価交換という小概念をもちうるし すでに もっている。この大概念と従属概念との関係が――構造過程的な関係が―― ここでの焦点となるであろう。




一般に種関係における等位とは やはり愛欲を基軸とし 家族を基盤として 男女両性の交通にあらわれる。両性の自由な合意による婚姻(つまり 種=類関係)が それである。種差関係〔の交錯〕が 過程的に一体となる〔ことに同意する〕という結婚が 等位交通である。非家族の非結婚においても 同じく等位交通であるというのが 有効な種差関係である。これは 哲学という時間として そうである。

家族内にあっても それぞれ成員どうしの間で 所有欲・生産共同への意志において 種差があることは 当然である。それぞれ一個の孤独(独立主体)の内的な階層構造を見るというほどに 家族内でも 階層(発展)的にして構造(欲求の複岸性)的である。

この意味で 等位交通は そのまま種差関係であるというほどに 一般に 《差位》が存在していないとは 今度は言えない。大内容(人格)の差位さえ 前提されていると言える。言いかえれば 家族内においても モノとしての資本具体物を それなりに 介在させており ここには 大(上位・全体)概念としての等位交通(結婚・家庭)と 小(下位・部分)概念としての差位関係(家庭が過程であるということ)との構造的一体が 見られるという 簡単なことでもある。

そこで 一人格の・または 三人格の三角関係一体なる家族の 〔内的な〕階層構造が――それは 基本的に 等位交通であるが―― その対内的にも対外(事業)的にも 部分概念として差位をもっているとするなら この意味での差位交通の関係を 階層的には 《断層》 構造的には《差別(差別構造)》と言おうとおもう。種差関係が 断層・差別構造の関係過程になっているということである。

これは 事業論としての等位交通において 交換では 取り決められた一個の交換値をめぐって 当事者双方に 主観的な乖離が生じているということと 似ている。これは 類推であるだろうか。家族内の種差関係が 過程的に断層・差別構造的であることから 事業関係における交換での 双方の主観的な乖離という種差関係へ 類推するのは 有効でないであろうか。

おそらく 類推することは 有効でないであろう。無効でないためには 次のように 言うべきと思われる。もともと 等位交通においても モノの交換では 小概念として 差位が生じており それは 等価交換が成立したあとでも 交換値をめぐる主観的な乖離(損得)が 過程的に起こっている。これが 一般のすがたであり――市民社会の実現ののちにも 一般にふつうのありかたであろう――そこへ 中でも 人格的な等位交通を 交錯から さらに婚姻へと展開する(し得た)家族内では この差位を 断層・差別構造として保持しつつも 内的な階層構造の三角関係的な一体にあって より文学的に(カタルシスを通過しつつ)この主観的な乖離の関係を 高めつつ(揚げて)棄てているのだと。こう解釈される。自由な事業論 いま企業種関係論は このような前提から 出発するものと思われる。なぜなら 異なる二種の平面の交錯関係よ 永遠なれとさえ 叫んでいたのだから。つまりいまの意味の限りで 矛盾よ 永遠なれと。

言いかえると 市民社会の――その後史での――実現した段階では 〔ということは 何も将来を展望して言っているのではなく いまの種関係現実のことを言っているのだが〕 矛盾(種差の等位の中の差位)が ほんとうのと言うか ふつうの矛盾(時間差)になるということだ。歴史的に これまで 或る種の(つまり政治的な時間の哲学の)季節には 政治家というもっぱらの公民に頼らなければならなかった弱い市民が この自由事業論において 強くなるというよりは ふつうに弱い市民となるということだ。全体概念=現実において 市民のふつうの弱さを 自由に 保ちえているということだ。等位交通の中で 損得(差位)を 自由に 過程させている。そのような問答過程が――井戸端会議また これを基盤とした市場関係過程が―― 実際であるということだ。
ゴーイング・コンサーン(企業ないし会社 いづれも永続する種関係として)》も 《インタレスト(二角種関係の第三角価値)》も この市民社会過程のなかで 営まれ その所を得ている。
つまり 事業種関係の差位(損得)が そのままゴーイング・コンサーン(人格どうしの関心過程)のなかで 時間〔差〕的に経験的に 第三角価値という差位として――だから 等位交通の中の互いにとってのインタレストとして―― 問答されていく。主観的な乖離(差位)が 時間(労働)を持ったのである。家庭内の断層・差別構造〔という差位〕は 同じく そしてさらに いわば文学的に表現することがゆるされるなら 愛の中に融解されてのように(なぜなら その第三角は 子であって 人格である) 展開されていく。
これが なお バラ色の青写真であると――つまり幻想の超現実であると――いう向きには それでは きみは この場を離れてみたまえ という問いが その第一の関心過程である。わかった しかし そのように言うことは 類関係論の先行ではないか という向きには そうだ そのとおりだ とこたえなければならない。これは 哲学という時間の――世界の解釈という作業の――欠陥である。そして われわれの方式は ここから 時間の哲学(政治的な解放)方式へは すすまない。すすむことが出来ないのが 基本であった。
それは そのあとに 社会科学的な(政治による)交通整理が 必要であるがと言って 消極的に主張するからではなく 交通整理の第一の仕事は この文学的な事業論にしかないと見るゆえの積極的な主張によっていることでなければならない。
しかし 類関係論(理想)の先行に入ってしまったことは 一つの問題である。そして議論の焦点は 等位交通の基本(原則――市民社会的な――)と 同じく市民社会的な具体的差位の介在との 相互関連ということにあった。
言えることは この類関係論(青写真)は もはや 外的となって 自己から疎外されないということである。それは 種関係現実の類関係概念による認識というにすぎない。それは 種関係平面としての 類関係移行論である。この移行論が 先行し 人間を 規制しうるであろうか。規制しえない。規制しうるのは それが 時間の哲学(政治的な解放)方式へと 移りすすむときである。
しからば われわれは われわれの哲学の時間も ときに一過性としてだが 時間の哲学(世界を変えるために変える)へ移行しうるとも言っていたのであるから この点を吟味してみなければならない。けれども 市民社会のなかのゴーイング・コンサーンが 相互にインタレストを生みつつ 継続的な関心過程つまり事業種関係となるというとき そのための問答は いま言う政治的なではあるまい。つまり 市民社会に固有の(その中での)政治的な交通整理の過程でしかあるまい。
市民社会の場における労働(時間)は (1)狭義の労働=生産(知性)と (2)経営(意志)と (3)社会組織(精神〔精神の秩序。法の有効性〕)とであって 上の《政治》は この《経営》とよばれるべきである。社会科学的な交通整理としての《政治》が これももっと広義なものであるとしたなら やはり 上の三概念と同じように (1)経済(知性)〔その立法〕と (2)狭義の政治=行政(意志)とそして (3)社会組織=司法(精神・記憶)とから成る。これは 今の社会形態における 市民政府を中心とする広義の政治に 概念的に ひとしい。ひとしくないところは 国家という社会階層の社会においては 市民政府が 市民社会から分立してしまった もっぱらの公民政府である点にある。(実質的にそうなっていると思われる)。言いかえると 新しい事業種関係論も この国家という社会形態の 再編成という時間の哲学を もたなければならないかも知れぬということだ。
そのために われわれは 明治維新を想起せよと言っていた。これは 一過性であって そうであってよいと考えた。底流は 継続的な底流は 保守停滞的な〔と見える〕哲学の時間である。これは これが 事業論の問題であると思われる。
すなわち これが 等位交通における 差位の差位化・時間化 言いかえると 底流たる市民社会が 雲の上の公民政府を 自己の中に復帰させる――なぜなら 公民政府のもとでは 差位・種差が 一元的な類関係論の先行によって 幻想的な等位となっているからであるが つまりさらに繰り返せば 経済活動の等価交換だけでよいと考えられがちであり 種差への無関心(つまりなぜなら 一義的な等価だけでよいとするのだから)が優勢であるゆえ 政府を自己の中へ復帰させる――ことだと 総合的に 考えられる。
つまりこれは 時間の哲学(政治的解放)によって はじめて成就するのだと見るのではなく 哲学の時間(井戸端会議の波また潮流)の問答過程をとおして はじめて 一過性的な時間の哲学にも及ぶというものだと思われるからである。逆ではない。
すなわち 《差位》は――事業関係における主観的な乖離感(損得) あるいは 家族関係における断層・差別構造は―― もはや その存在を否定するわけではなく むしろそれは 市民社会においては 或る超現実として 成り立っている。それゆえ その存在を否定することは出来ないのだが。なぜなら 差位はむしろ いわば宗教的な次元においてのみ捉えられるような概念であるとしか思われず――それは 自然人としての愛欲(有私)が 関与するのである―― これを 《現実》においてなお捉えるとするならば そのときには 《〈類関係移行論を宿した種関係〉のあるところ必ず そこには〈差位〉が存在するのだ》としか言い得ないような概念現実でしかない。
偽りの等位交通 詐欺による等価交換のばあいは 別である。そこには 差位は 存在する。つまり 無効として 存在する。しかし いまの企業種関係の通常の交通・交換において 差位は――損得感は―― もはや宗教的な次元に固執したところの(つまり 平等とか等位・等価とかということを 損得の 貨幣数量的な無だ これのみだと信じ込んでいるところの)考え方でしか ないと言ってよい。この数量的・機械的な等位への宗教的思い込みは これが 家族関係においても 産を基準とした家柄を持ち出したり 産の所有をめぐっての機械的な平等の考え方を持ち出したりして 宗教幻想的なあの断層・差別構造を作り出しているのだとしか 思えない。これは 無効な法が実効的である現実の 資本一元論によって――この企業種関係を 公民政府が 主導するその影響によって―― 人びとが 市民社会の底流を離れたことによっている。
言いかえると ここで人びとは まぼろし市民社会をみている。会社主義が それである。その反対であるマイホーム主義が これも そうである。まぼろしが いたるところで 跋扈している。しかし まぼろしにおいて 底流に帰っている。魚が 扈(竹やな)を跋(ふ)んで 外で踊りはねているのだから これを とりおさえれば よい。むしろ 何か新しいものを(たとえば 別種の類関係論=理想像を) 自己に付け加えるなかれ。
(つづく→2006-06-23 - caguirofie060623)