caguirofie

哲学いろいろ

#36

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第五日 ( jj ) (社会または《歴史》)

――ただし――ここからが 難しいところだと思いますが―― 第一の方面の方法論ともかかわって この第二の方面の問題において 後者の諸価格関係に何らかの変革が起きることによって 前者の人格関係が 規定され 相応にそこに新たな交通様式が生まれる場合も 大いに考えられます。
そして実際は むしろ 人格の形式形成の関係を 正面切って論じるなどという愚は 措いておいて 生産をめぐる関係の中の 具象的な側面・つまりそれは 《〈人格関係という形式〉の〈形式〉》としての具体的な生産関係として 考えていくのがよいと思うのですが それのような側面としての諸価格関係において 初めの[β]身分制と[γ]民主制との織り合わせの全体的な交通整理の方法論とからめて そこにおける《交通》に 議論が集中し またその議論は具体的に 分野ごと・段階ごとに いくつか分かれるであろうという見通しです。
つまり 給付価格関係に対して個別的にであり 同じく個別的に 販売(=消費)価格関係に対してであり 第一の方面つまり情況全体の政策としては たとえばさらに そのような諸生産関係が 一たん 交通(交渉・合意決定)されたあとで 総合的な《形式》としては 合法的にしかも強制的に 別のものとして再交通(再分配など)されるということなどが 考えられるのですが これらすべての交通について言われるべきことは あくまでの その交通ないしこれを取り巻くところの《話し合い》という交通整理において 次のような一定の《形式》が 敷かれていなければならないということであろうと考えます。
その《形式》というのは 二つの方式がそこにあると考えられるのですが 第一は 言わばナラシンハさんの側の方式・つまり その《話し合い》が 全体《形式》的な合意に重きを置くような――言いかえると あの《余韻》の問題として 一定の《模範形式》の一般了解にもとづいて 行為の《結果》に重きを置くような――ひとつの《交通形式》であり 第二は ぼくたちの側のそれ・つまり どちらかと言えば むしろ その《話し合い》の推論――形式形成の過程――のほうに重きをおくような《交通形式》のことです。
これら二つの方式は いまこうやって ナラシンハさんと議論していること自体 そこに明らかになるであろうような異同に 現れているものと思われ 時にあるいは あの初めの基本原則[α-ω]が どちらにも共通であるとするなら ともに同一の方式・同一の形式を互いに形成していき 互いに交通をおこなっていくことができるかも知れません。
いま つまり その個々の価格関係において・そしてその《話し合い》において 第一の方式としては 《無駄という形式・どうでもよいという関係》が 一つの害だとするならば 妥協への推論は 別にしても その結果としての価格の具体的な数値が 交渉しあう双方の側の 善(存在・生活)の偶有性・自由を妨げないようなところに――つまり この意味で[α]の均衡発展の形式に―― 落ち着くことが 肝要であると思われ あるいはまた 第二の方式としては まったくの《無形式》が悪だとするならば 価格の決定には その推論の過程(根拠)が 一定の自由な形式を保持しているということが 肝要なことであると思われます。
これら二つの方式のいづれもが ともに満足されるに越したことはないでしょうけれど いづれの方式において 単に いわゆる習俗的な交通の中にあいまいにされることこそは 《無形式化》ないし《形式の固定化・触手化》であるとして 避けるべきことであると思われます。また 価格関係において この二つの方式のいづれかが満たされれば それは 《等価交換》ないし 言わば[α-ω]形式の元素としての《等位形式交通》であると言うべきだと思われます。
そして しかし今度は この二つの方式のいづれかにおける《等位形式交通》が ほんとうの意味で 出発点となり あるいは[β]あるいは[γ]の方向への振幅をともなって 現実の交通がなされるそのことが 問題となるでしょうが。そして そこでは・そこでこそ [α-ω]の《基本的な形式》というよりは むしろ その《余韻》ないし《触手》であるとかの側面が――そして もし《愛》という概念が 実体をもつもの(《人格・ペルソナ・形式》にかかわるもの)であるとするなら 逆に これらの側面においてであるかも知れないと思われるのですが つまり 《形式》本体よりも いわばその周辺(周縁)的な領域をとおして 《愛》が 核反応としてのように はたらき 等価交換という諸価格関係を 生きた等位形式交通とするなどと思うのですが これらの周縁的な側面が――ふたたび新たな重要な意味を持つものと思われます。
ここまで述べてきて あまり明瞭な結論ではないのですが ぼくなりに 今回の対論の分担を果たしえたのではないか――つまり ぼくの分担すべき役割は この議論を 展開していくことにあるのではないか――と 考えます。
もしこの議論が とりあえず 話題として出たならば あとは 自由なかたちで 話をつづけたいと思っているのですが これまでの論議に沿って ぼくのほうから もうひとつ添えるとするならば 次のことです。
これは 少し論の展開としては 邪道であるかも知れませんが――従ってむしろ ひとつの添景として 聞いていただきたいと思うのですが―― 先ほどの等価交換ということに関連して 一般に次のような推論がなされることがあります。それは 特に 生産品すなわち販売品の価格関係においては そこにおける交通(ないし競争)が 完全に自由におこなわれるとするならば――言いかえると その交通形式において・および それに対して 情況の側が ナラシンハさんのおっしゃるように 《無駄》ないし《どうでもよい関係》( indifference )を取るならば―― そのときは 一つの種類の生産品については ただ一つの定まった価格が成立するだろうという一つの原則的な考え方( law of indifference )のことです。
これは もちろん いわゆるイデアの領域における理論上の原則であるわけですが――また このとき 《 indifference 》とは つまり《無差別》のことであって 《余剰の形式化》による《段違い》も・従って これによる《流れ(時間過程)の切断された断絶性》も ないことを言うわけですから それと《どうでもよい・無駄の関係》といま イコールであると言っているわけで その言うところは 《余剰》を《形式化》してしまったあと この《貨幣力》と《貨幣の流れ》とを切断し 《段違い》を生じさせ 従って 《形式》の形成が・つまり諸価格関係における交通が 《断続的》となるという意味で これにもとづいて 《無関心 indifference 》が 支配するということと まったく別だということを 確認しておかなければならないのですが――
その同じひとつの推論・形式として そこにそのような一定の価格関係(自然価格)に連動するかたちで 先ほどの《等位形式交通》が 成立していると考えられなくはなく そのことを 指摘してのよいと思われることです。つまり 原則は原則として どこまでも尊重されるべきであるという一つの立ち場に立って ぼくたちの出発点として そう考えられるのではないかと思います。従って とりあえず 《貨幣の流れ・経済関係(度量)》と 《貨幣所有たる余剰の形式化・経済力の支配制(超度量)》とは そのように 流れ=交通=形式を 切断し 切断した二つの領域を《段違い》に《断続》させるようになっているという一認識 これを ぼくたちは 主張するわけです。ぼくたちの方式では そういうことになると考えるわけです。

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(つづく→2006-04-28 - caguirofie060428)