caguirofie

哲学いろいろ

#40

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第五日 ( nn ) (社会または《歴史》)

――《中位情況》という観点にも触れるならば 日常生活たる中位上昇的な縮小 および 政治たる《疎外》(これは 疎外=表現の形態として 身分制とも考えられるし 疎外の中の帰同をそこに見て〔なぜなら これが 善の交通整理をおこなう〕 民主化とも考えられます)の中位への下降的な縮小 これらの両契機の中位縮小化の集中が それであったのですから おそらく この両契機の・従ってそれらの構成している形式の 縮小という点が 度量の縮小ということであり それは 超度量と度量とが 逆転・倒立しているからだと考えられます。
ところが この新しい情況制は はじめ 《労働の徳の支配制》から 起こって来たものであり あまねく 《徳の・または形式形成の 基礎》たる労働が その意味で 歴史的な一系譜として 自由となったことを 意味しているはずです。このことは 同じことで従って 日常性および政治の両極においても 労働が・つまり《交通の 基礎たる経済行為》が あまねく その固有の位置(つまり基礎であること)を 展開しだしたということであろうと考えられます。
おそらく ここで 形式の 《帰同および疎外》という両要因は――それらによって わたしたちは 形式の度量の 基本原則的な発展を 勝ち取ることができるのだと思うのですが―― 日常性とか政治(ないし国家)とかの極の領域に もはや 限定されないで 一般に《情況(その全体的な概念)》または市民生活という全体領域に 固有にかつあまねく 自由にはたらく素地が出来上がったことを 意味するというように 考えるのです。
こう考えるなら また 帰同は 一般抽象的に民主化 疎外は一般抽象的に身分制として あてはめられないでもありませんし あるいは これら帰同および疎外は わたしたちの所有する作用ないし能力であって この能力を所有する主体であるわたしたち自身が 人格的に形式的に 互いに等位である。従って この等位の誤解――それは 超度量〔による段違いないし断絶=差位〕からもたらされる――に促されて 経験行動的にしろ(それは 段違いの徹底の場合) 心理想像的にしろ(それは 差位の徹底の場合) 心理=生理的な《複合》の衝動を持つようになるということは 原始心性的な帰同(アニミスム・シャマニスムによる一体感)のことだと考えられます。
それが 基本的に 中位情況のもとで 起こっているのであり またそれは 形式の余剰(段違い)を形式とした・ないし 形式のあそび(精神の余裕)を労働そのものとした結果であり こうして 《家族の三角関係》および《生産をめぐる 価格交渉的な 三角関係》において 等位交通ないし等価交換に代えて 余韻=雰囲気的な・ないしこの余韻雰囲気はいっさい認めないようなそれぞれ方式のもとに 不安衝動による心理=生理的な複合関係を えがき 夢見たということになります。
意識において この衝動・不安が 触手としての形式(これによって交通をおこなう)としているということは 無意識において これを 解放している だから 等位形式交通が 十全な度量の発展過程として 展開されているのだと 夢見たことになります。なぜなら あまねく [α-ω]の等位形式交通の時代=社会が やって来たと 人びとは 無意識のうちにも 感じ取っているからだと思うのです。
ここで 等位形式交通の基本水路は 成り立ったと言うこともできるし それは 《夢》の中で・つまり幻想の観念としてであるとも見なければならないのだと思うのです。
ここからは この情況の・社会の 歴史的な 基本軌道の展開を 問題にしなければならないように思います。つまり どちらの方式によるにせよ オイディプスコンプレックスも亜ジャータシャトルコンプレックスも その心理的な複合の構造として描かれた交通関係は その基本軌道に 等位形式交通の基本水路を まちがいなく 宿していると言わなければならないからです。
ここで 《他者の発見》は 形式的な交通において いづれかの方式のもとに 段違いの形式をもって他者の発見から または 時差をもった形式の他者の発見から それぞれの方式の違いをもった他者の発見として 捉えなければならないでしょうし 発見された他者どうしの交通が 心理的な複合によって等位であるのではなく もともと・そして歴史経験的にも すでに 互いに等位である者どうしが そのこと(つまり《人間が生きている》ということ)自体によって この心理的なコンプレックスならこれを 歴史的な基本軌道の上で 社会的な基本水路の中に 展開・発展させていくということ これが 単純な一つの帰結であるように思うのです。
つまり オイディプスアジャータシャトルとの互いの他者の発見 そしてそのとき それぞれコンプレックスの自覚とその積極的な活用 これらが 基本軌道の上の一つの出発点であっても いいような気がしています。他者の発見とは 疎外の問題であると同時に 帰同の問題であるような気がします。
一般抽象的に言えば 《すでに初めにおいて 〈自己〉の中のそのような〈他者〉を 〈等位〉において発見するところの自己の〈特殊性〉ないし〈個体〉が 獲得されていた》という現実が わたしたちを 追いかけてくるものと思われます。これは 交通(また価格交渉)が 関係であるなら 心理的に(意識的および無意識的に)《コンプレックス》でないことはなく しかも この心理を わたしたちを追いかけて来たわたしたちの現実が 捉え さらに 活用していくならば コンプレックスであってコンプレックスではない。
すなわち この複合(また 度量と超度量との倒錯)を 外に開いて 解放し 労働の行為過程として 展開していくことができるように思うのです。これによって 《中位情況》が 情況全体へ開かれていく また わたしたちの生活のもとに 戻ってくる。・・・
またおそらく そのときには 政治情況は その国家という形態を変えていき 生活は 家族が基盤となっていくものと思われます。労働が 基礎であることに変わりはないわけです。精神ないし意志つまり 等位形式の形成力が その中軸であることは 依然として 真理であるでしょう。心理が むろん そこで なくなるわけではなく 開かれ用いられていく要素 つまり 一つの場としての開かれた複合(コンプレックス)の情況であるでしょう。
人間という主体にとって 精神は 身体をその基体とするところの核(等位形式)であって 心(心理)は 外の情況にひらかれた場であるでしょう。労働が それらの基礎であるでしょう。度量が それじた過程発展的な これがむしろ 形式の触手であって 基本水路を構成しているでしょう。ですから 基本水路の基盤はこれを 家庭に求めても おかしくはないでしょう。この基盤に立った社会。
ですから わたしたちの側に立って発現するとすれば あの無意識領域の心理=生理的な複合衝動を むしろ意識によって 解放したブッダの――かれの――余韻が 形式化して 意識のうちに複合衝動に追いやられている人びとを 今度は 無意識領域へ追いこんでいる のですから このブッダの余韻形式を ひらく ということ――模範形式の遍在という観念的な信心(意識)を 開放するということ――。
なぜなら 余韻とは もともと そのような不連続(不連続な関係)を見るためのものであったからです。このような過程的な等位形式の視点は 言うとすれば 潜在意識であるかも知れません。交通の等位形式において 潜在意識が 無意識または意識に 勝つということです。度量が超度量に勝つというよりも 度量の潜在意識が 無意識の衝動より来る超度量の意識(それは 貨幣所有という経済力の再生産であり また 心理=生理的な複合関係によって相手の位をうばい 相手を支配するところの 時差への無関心であったわけですが)に勝って その基本軌道の上に 度量を基本水路として 展開していく・・・。
これは 善悪の判断の基準の問題であり または 変形された善どうしの 基本原則の視点に立った 交通関係――そして時に たたかい――の問題であったものです。
あるいは ここで 余韻ないし雰囲気は なくなるものではないでしょうから それを 《風景》――情況の風景――というように 言いかえて捉えておくと よいかも知れません。潜在意識が この風景に対しており 風景は 意識であったり無意識であったりします。交通関係において風景は したがって 過去の余韻であり そういう家族関係ないし価格関係として 一般に 身分制であり また 過度に意識した民主制としての・意識的(心理=生理的)な複合にもとづく等価交換であったりするものと思われます。
意識的な民主制としての等価交換 による複合(またこれによる支配としての民主制)というのは それが 形式(つまり善)の余韻が形式化したもので 発動されることを 言うと思われます。或る善を発現させて 等価交換という結果を得ることと 善の余韻である等価交換の制度によって 等位形式交通を実現させる(つまり そのときには 心理複合が実現されている)とは 別だと思われるのです。風景の活用と 風景の支配とは ちがうと思うのです。
等位形式交通の潜在意識は 意識のまたは無意識の等価交換に・だからそのような風景に 先行すると思うのです。その意味では 家族の三角関係が 中位情況ないし労働の徳の支配制(経済関係)に 先行していると思われます。先行しているから 支配されたり ひずみを受けたりするのであって そうでなければ そうはなりません。ですから 余韻は 風景へとしりぞくし この退いた風景をひらき 水路をとおしていくというのが――いま ただちに 実現不可能でも―― 潜在意識であるように思われます。
この風景ないし《風土》が 根強いところの社会に対して そうではないとも考えられるところのボエティウス君たちの社会では・・・
(つづく→2006-05-02 - caguirofie060502)