caguirofie

哲学いろいろ

#42

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第五日 ( pp ) (社会または《歴史》)

――最後に 第三の視点とは 従って残された《情況》にかんするものであり それは 次のような視点となるはずです。まず一般に ぼくたちの存在は 種としての個は有限であり 同時に 類としての個は無限(永続的)であると考えられていますが いま仮りに――ただちに 記号化の作業をおこなうとすれば―― 《類としての個》を それは第一の視点である個体のことですから Ι(イオタ)で示すとするならば 《種としての個》は 第二の視点であるところの個体 つまり潜在意識λ-αでこれを受けるとして 《個の存在》の観点から 特に《個体Ι(イオタ)》に対応させる意味で Λ(ラムダ)で示すことができます。
《個体Ι》は そのまま イデアであり 《個体Λ》は イデアとしての個体Ιを所有して 過程するところのぼくたちであります。個体Ιが 意識・無意識の心理と関係するとき 潜在意識の観点から それを 個体Λと表示することにします。個体Ιを中心にして 個体Λが その前方に・あるいは外部に その《類としての存在》の場・したがって《種としての存在》の場である情況を持って 生きるということができます。情況を 仮りに �堯淵轡哀沺砲納┐垢海箸砲靴燭い隼廚い泙后◀修靴董‖荵阿了訶世箸蓮,海痢埔雍鍬堯佞里海箸任后�
したがって 第一の視点である《類としての個体Ι》は 第二の視点における《種としての個体Λ》が 第三の視点である《情況�堯佞涼罎如Δ修譴紡个靴董\犬④襪箸いΔ里❶〜澗里了訶世箸いΔ海箸砲覆蠅泙后�
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そこで すでに 精神Ιおよび具体的な個体Λを見てきたのであるから この情況�瑤鬚澆襪海箸蓮^廚靴ぁ◀弔泙蝓 圻堯佞蓮,箸蠅發覆Ľ気此 圖€佞了訶世鬚發辰拭圖ʔ佞梁減澆ǂ蘋丨襪發里任△蝓,海梁μ未泙燭牢囘世ǂ蕁,修譴鯤ⅻ賄Ľ貿Ъ韻靴茲Δ隼廚┐弌ー,里茲Δ砲覆襪隼廚錣譴泙后�
まず 類として個体Ιの視点から見て ある任意の歴史的な立体たる(四次元の)情況�瑤鮴效任靴涜Ľ┐襪覆蕕弌,修海妨修錣譴襪修瞭睛討蓮|噂磴法,修譴召譟〃措愛未犬燭い藩松螟�2と余韻ν またそれらの集合です。これを記号で表わせば �熙漫´熙�2 �熙諭,任△蝓,い沺,海譴蕕鬚気蕕法・❶・�2 Ν とそれぞれ表わすことにしたいと思います。これは 結局 第二の視点 《種としての個体Λ》に通じているものでもあります。
そこで 形式μの集合Μは すでに見たように 情況�瑤凌縅€粉靄椰縅€砲任△蝓〕松螟�2から成る集合Μ2は やはり情況の《あそび》・ないし水路の《余裕幅》・つまりその流れの縁に出来る砂洲であり両岸であり堤防であり 言わばその《縁側》ないし《縁堤》です。そして最後の余韻νの集まりであるΝは 従って 情況�瑤領丨譴陵庄ぁΔ垢覆錣繊塢濇福奸Α塢炅據佞任后7措愛¤箸修慮鯆巳ǂ蓮‐雍鍬瑤涼罎砲△辰董,④錣瓩栃ⅻ話蠑歸Ľ妨ǂ襪覆蕕弌ヾ靄椰縅©❹魴狙丨靴董 ̄鐵薤�2を持ち 風景Νを見ているということが出来ます。これが 静態的に見た三つの視点の全体です。
ただし 縁堤Μ2は 基本水路Μとともに さらに別様の水路を持ってのように 一つの流域を形成するが 風景Νは 一応 流れΜないし《流域Μ・Μ2》から一般に 切り離されている。または 余韻νが 形式の触手と化して 観念的な一個の模範形式となったばあい この集合である《風景・風土Ν》も 流域Μ・Μ2に――あのアジャータシャトル・コンプレックスにおいて 重複するようにして――かかわりを持つというのが ナラシンハさんの見解でした。
基本水路Μと縁堤Μ2との重なり合った流域Μ・Μ2を 意識λ-βないし無意識λ-γによって捉えていこうとするとき その心理的な複合をもって 《現実を追いかけていく》ところのオイディプス・コンプレックスが 生じているだろうというのも そうでした。
あるいは これまで討議してきたところから言って 水路Μ・μとは 個体Ιにとって 等位形式交通[α-ω]であり 労働の徳の時代において特に 総合的ないし個別的な等価交換またそのような生産をめぐる関係でした。その縁堤Μ2・μ2とは 生産関係の余裕幅であり これに対応するところの精神Λの余裕幅であると言えるかも知れません。風景・風土Ν・νとは そのまま 習慣・風俗・慣習であると言えます。文化・芸術・科学は 過程的には 個体Λに属し――その意味で 基本水路Μに対応し―― 結果・成果(その意味で 身分制としてあるもの)としては 縁堤たる余裕幅Μ2・μ2または 慣習たる風景Ν・νに属します。
以上の分析は 情況�瑤髻[爐箸靴討慮賃陸¤了訶世ǂ藺Ľ┐神殿崚Ľ頁Ъ韻任△蝓,靴燭❸瑤辰董,海寮效婆未蓮,靴ǂ靴覆❹蕁,い鼎譴了魦紊伴匆颪箸両雍靴砲盡修錣譴襪任△蹐Δ箸いε世任蓮〃仍紊砲ǂ鵑垢詢鮖砲痢Δ靴ǂ皺C婆未任△襪塙佑┐蕕譴泙后◀海里茲Δ蔽蠑歸Ľ併夕仝偽昰屬❶[鮖謀Ľ法_當琛靴討④討い襪塙佑┐蕕譴泙后◀靴燭❹辰董ー,砲呂気蕕法,修痢垳什漾媚類砲Ľ韻襪箸海蹐僚鎮婆漫覆靴ǂ癲,爐靴躇淹紊砲ǂ鵑垢襪箸海蹐痢砲鮓ǂ討澆覆韻譴个覆蠅泙擦鵝◀海譴呂修里泙沺ー錣箸靴討慮賃陸ǂ了訶世ǂ蕁‐雍鍬瑤鬚箸蕕┐討い唎海箸砲覆襪發里隼廚錣譴泙后�
これは したがって 水路・縁堤・風景から成る情況�瑤痢/畔ⅻ¤凌陛検,弔泙蝓ー尊櫃砲蓮〃仍紊箸靴討量閏臉¤虜醉僂砲茲辰董/畔ⅻ¤ⅺ陛犬靴討い唎箸海蹐僚鎮婆未里海箸任△襪ǂ隼廚い泙后�

  • 少し奇妙に見えるかも知れませんが 経糸たる民主制によって 情況を切断すると 静態的な横断面図となり 緯糸たる身分制によって切断すると 動態的な縦断面図となると思います。
  • [γ]民主制というものを 《わたしの神のものも情況のカエサルのものも 神へ》というように 《イデアとしての個体Ι》に全面的に傾いた一契機として 考えていたからですが。また それでよいと思います。
  • イデアとしての個体Ιじたい [γ]でもなく[β]でもなく [α-ω]の基本視点であったわけですが これを 表現として確認するためには 《種としての有限具体的な個体Λ》の視点が 別様にではなく そなわっているものであると考えますから。

すなわち 問題は 《水路Μ・縁堤Μ2・風景Ν》から成る情況�瑤痢ゞ饌療Ľ平畔ⅻ�[β]もしくは[Β(ベータ)]のことであり もっとも そう言うときには 具体的にこれを[γ]民主化するその個体Λの形式形成の過程であるものだということになります。[γ]民主化の情況形態を言おうと思えば 同じことが 《民主制[Γ]》の問題として かかげられます。
あるいは 精神Ιが 具体的な個体Λにおいて 経験的な《潜在意識Λ-α》として捉えられるというときには 精神Ιの形式[α-ω]も 経験的であるということより 情況�瑤侶疎屬蓮/畔ⅻ�[Β]ないし民主制[Γ]としてだけ見られるのではなく 等位形式交通の形態[Α(アルファ)-Ω(オメガ)]としても 表象していくことができるかも知れません。
そしてまだ ここで 情況�瑤了訶世砲弔い董/畔ⅻ�[Β]や民主制[Γ]あるいは等位交通形式制[Α]という形態を見るだけではなく 正当に 個体Λの視点から いまの問題をとらえるのならば 水路Μ・縁堤Μ2・風景Νとかかわって 意識λ-β・無意識λ-γの作用によるところの心理的な複合関係という交通(コンプレックス)が それであり 従って 潜在意識λ-αの視点から この意識λ-β・無意識λ-γの作用にかかわって その心理的な複合交通――Μ2による・あるいはΝによる Μの支配――を 等位形式交通[α]ないし等価交換[α-ω]の過程へ 戻していくことが その焦点になると考えます。
これが ここでの最後の議論 すなわち 今後の議論の出発点であるかと思うそれです。すなわち 精神Ιによる横断面と 個体Λによる縦断面との 交錯する《現在》または《ここ》ということになり この《いま》または《ここ》が 《特殊性としての個体Λ》の消極的および積極的なコンプレックス――消極的な心理複合と 積極的な等位交通――の展開 の過程であり場です。
それは 抽象的には 《普遍性としての個体Ι》と《情況�堯平縅©❶Ρ鐵薤�2・風景Νより成る)》との 関係・闘い(何もしない闘い)というのと おなじです。
――なるほど。
――ええ ですから これで 議論は 出尽くしたというように思えるのです。
――そうすると ボエティウス君 いま 忘れないうちに言っておきますが いつか ボエティウス君の故郷のローマへ来ないかと誘ってくださった件ですが これは ヴァサンタセーナも承諾してくれて 是非 こころよくお受けしたい ローマへ行ってみたいと思うのです・・・。
――ああ それはよかった。・・・
――ありがとう。で それで そうすると・・・いつぞやも 後へは引けないことになったと 発言していたのですが そうなると・・・今度は 人を集めるということになるんだろうか?
――というのは 何もしない闘いの連帯ということでしょうか。
――つまり ひとつには・・・《家庭》が大事だというときには・・・《政治》が問題でしょうから 言いかえると ボエティウス君にとって 新しい異族の皇帝であるテオドリックが いったい どう出るかということになっていくのだろうか?
――気が早いのですね。でも ふつうに交通し生活し 何もしない闘い(形式形成)が 原則だということですから・・・。
そうですね・・・。水路Μに対して 水路の余剰Μ2が また 風景Νが その形式形成を 疎外し つまり 断層をつくって阻害し また 雰囲気として覆っていることによって阻害しているのでしょうから これは ひとりの人の心がまえだけでは らちの開かない問題ですから 《何もしない闘い》には 情況の政治への・つまり政治的な議論と実践が 大いに必要であるとも考えます。
おそらく ぼくたちにとって すでに機が熟していて 好都合だと思えることには 情況�瑤侶仍紊Ľ茲唹淹紊砲茲訖縅©❹悗了拉曚箸いΔ箸海蹐泙如/陛犬靴討④燭海箸砲茲辰董,海痢塒鏽愛€佞亮仝気任両雍靴稜聴丨❶,修里茲Δ肪韻覆訝蠑歸Ľ瞥閟世砲Ľい討里澆任呂覆咩 塒鏽阿龍饌療Ľ雰狙倂圓任△覦貎佑劼箸螟ʔ佞了訶世ǂ藐世辰董仝充妥Ľ憤譴弔龍δ未旅柔�――すなわち 方式の違いからは オイディプス・コンプレックスもしくはアジャータシャトル・コンプレックスという二つの図式があるものの それらが 《心理=生理的な複合》として それによって等位形式交通を問い求めるという共通の一つの構成ないし構造――を もってきているということに 注目することが出来ます。
《精神の理念Ι[またはαないしλ]》が それとしてのみ先行するのではなく これが 潜在意識λ-αとして捉えられるということの先行の点では 変わらないけれども そのときには 現実の直接経験的な接触領域であるところの《意識λ-βまたはλ-γ》あるいは《無意識λ-γまたはλ-β》が そのまま 《心理複合(コンプレックス)という構造》を構成していて このように 人びとの意識ないし無意識という心理じたいが 潜在意識を中軸として 《理念Ι》と 情況の全体をとおしても かかわっています。
つまり これらの実態の全体として ぼくたちの特殊性としての《個体Λ》が そこで 交通しあって 生きている。すなわち具体的な個体Λをとおして 理念としての《等位形式Ι・λ・α》と 現実としての《等価交換λ-αすなわち 意識λ-βと無意識λ-γとの構造によって構成される価格関係》とが 交通しあっているというふうにも なっていると思うのです。そうであるなら 個体Λとしても 情況�瑤箸靴討癲 埒縅©❹藩松螟�2と風景Ν》との構成・構造に対して ぼくたちの一挙手一投足が 善悪判断の基準とかかわっている。つまり生活の具体的な問題となっているということが できますから。何もしない闘いは 自由に 交通しあって 生活を展開していけるということではないでしょうか。
おそらく ぼくたちは ここでは 必然性を恐れてはならないのだと思います。おそらくここでは 《イデア》が現在しており ぼくたちは 《人間の言葉すなわち理性的動物のことば》に到達しているのだし 到達していることができるのだお思っていい。これが 政治を排除する必要は ないと思うのです。
《水路Μと余剰Μ2(金融の世界)と風景Ν(模範形式の宗教の世界)》とから成る情況�瑤砲ǂ鵑靴董,修痢埓源困鬚瓩阿覺愀検畄从僂寮こΑ佞砲弔い討癲,修痢垠措暗Ľ文鯆未隆愀検畧嚩◀寮こΑ佞砲弔い討癲,泙燭修痢垠措阿隆愀厳疎屐文鯆迷侶蓮法疔,寮こΑ佞砲弔い討癲,修譴召貔賁臈Ľ乏慳篥Ľ法〃亳害奮愿Ľ頁Ъ韻鬚ǂ燭塑遒辰討い唎海箸❹任④襪任靴腓Α﹆佝圳世箸靴董,海Ω世辰討茲い隼廚Δ里任后�
――水路形成のすじみちとして そうだというわけだね。《人間のことば》に到達するというのは その終えられたところから始めるというわけなのだね。それにしても あのゴート人・テオドリックは ローマ人ボエティウス君に対して どう出るのだろうかねぇ。わたしは インドから ここまで 足を運んできてしまったのだけれど。
――ナラシンハさんの故郷 インドのソパーラというまちは 暑いところなのですか。・・・
(第五日 了=アテナイのナラシンハの終わり。)