caguirofie

哲学いろいろ

#35

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第五日 ( ii ) (社会または《歴史》)

――つまり もう一度繰り返せば そこで《あなた》も《わたし》も その労働行為を 等しく 単に《情況という流れ》の中に投じればよいというのではなく そうでは決してなく このような流れを基調にして ともに等しく労働行為をそこに投じうることを基盤にして まず その《日常性》が安定することを得 そして この日常性の安定が保たれることによって 一般に思惟行為の発現としての《形式》が つまり《類としての存在》が そしてあるいは そのような《交通》が やはり自由で奥行きの深いものとなる土壌がつちかわれたものと思われることです。
ここでは 一方で このような労働行為の分化(従って 情況全体としての分業・協業) つまり《形式》の分化と綜合という側面と 他方で そのような側面の中の一断面の中へ 《形式の余剰 の形式》が 優勢なかたちで 介入していき 一般に 《形式》が 《段階の差を持ち 断続的になる》という別の側面とを 混同すべきではないことは 指摘されなければなりませんが。
ここでさらに 《形式》の分化・ないし《交通》の分化・あるいは《労働行為》の分化とは――それらすべての分化した局面が 当然 思惟行為によって 労働という力の発現として 綜合されるという前提に立って―― 具体的に 
まず 思惟行為の第一次的な力の発現・つまり 狭義の労働ないし生産じたいにおける交通であり 
次に その生産行為およびその成果と それらが獲得すべき消費行為の物品とを媒介する象徴物の受け取りにかんする交通であり 
そして最後に その象徴物による現在の・および延期されたところの消費行為における交通であり 
同じこととして これらを生産者の側から言って 生産における内外の関係であり 

  • つまり その生産の内における関係とは 生産の参加者のあいだの仕事・協働関係と報酬給付関係とであり そしてその外的な関係とは 生産品すなわち販売品の値段などをめぐっての 消費行為者との関係であり

さらにその中の生産内の協働関係における交通は それじたい 分化・重層化した関係であるなどなどとして 大雑把に指摘できるような事柄です。
そこで このように分化し綜合された《形式》が 《段違いに断続する》あらたな側面に いま一度 触れてみたいと考えます。それは 

《交通》ないし《労働行為》としてみれば いま述べたようなかたちで分化し総合化される《交通》ないし総体的な《生産の関係》が そのまま――あの情況全体の流れと対応して・つまりそれらが この流れを全体的に形成して―― それら交通の当事者双方のあいだに 《段階の差を持ち その差があるいは介入してくることによって 現象の面では なおもその介入の優勢による継続的な支配のもとに交通がつづけられるとしても 真の関係すなわち[α-ω]が あるいは均衡を失してしまい 発展が阻まれ 言わばほんとうの形成としては 断続的にならざるを得ないというとき すでに 先ほど見たように この[α-ω]形式は 基調(度量)として 確立している。》

ということであります。これが いまの出発点であるということになります。この出発点に立って それ《生産をめぐる関係》としては その内外の個々の狭義の生産関係において 段階の差が前提されるかぎりで 交通は 断続的もしくは変則的にならざるを得ないということであろうと思われます。
この面は 重要です。おそらく ナラシンハさんが言われたところの事柄 つまり《断続的》ではなく 《余韻》の介在によって不連続であるだけであり 《段違い》ではなく 《あそび》という違った段階の部分的な形式が 労働化しただけなのだという・両者まとめて《形式の形式》形成は この面にかかわっているものと思われます。
そして ここから 事は かなり重大でもあるはずです。なぜなら 一般に《交通》の同じ場としての《生産をめぐる関係》において 一方では 《類としての存在》でありうると思われるのに対して 他方では それが均衡および発展を失せざるを得ないと言われているのであるのですから。
この意味で 《形式》の《段違い》《断続性》ということを言って これらの言葉を用いていってもよいと思うのです。
まず 先ほど《類としての関係》の可能性の側面については ある条件をつけておいたのですが つまり それは 《流れ》全体の・従って《交通》の 整理がどうおこなわれるかにかかわっているということでしたが この点から入っていきたいと思います。
まず考えられることは 一般に言われている点・つまり この《流れ》の整理については 大まかに言って 二つの方面があると思われることです。すなわち それは 第一に 《流れ》全体ないし総体的な《交通》体系として その方向を決定するといったことであるとか あるいはその構造的な編成・再編成をなすといったことであるとかの方面であり 第二の方面としては いくつかの《生産をめぐる関係》のその具体的な個々の関係における交通の総合的な整理ということであろうと思われます。
言いかえれば 後者は それぞれ具体的に 生産の協働関係における・特に人格・形式の交通と そして次の二つのいわゆる価格関係における交通があげられます。つまり 労働の力の発現に対する給付価格関係および 消費者に対する生産物の価格関係が

  • つまり あるいはさらに 未来の消費に対する生産の資力(貨幣ないし信用)の価格関係が

全体としての人格的・形式的な協働関係の中で それらの交通整理が 総合的にどうおこなわれるべきかの一方面であります。
そして第一の方面としては 《経・緯》すなわち《民主化・身分化》の両契機が 必要であって それらの織り合わせとしての・その情況に応じた具体的な政策(やはり交通整理)が考えられますが そして実際 それであるのですが 今ここでは 《形式》上かんがえられるこの第一の方面としての方法論として 議論していこうということでした。繰り返すなら 《総体的な交通の体系》つまり《流れ》の中に すでに譲渡してしまった《分化された労働・形式》のその部分・部分を あらためて 方法論として 綜合するという視点からのそれであります。
この整理方法論としては その中で たとえば その総合化の視点が 現実にたとえば 国家による何らかの絶対的な権力の行使のもとに 一たんは譲渡されたそれぞれ労働の疎外(譲渡)の部分を ふたたび回復するのだというような様式 これをともなうべきだとする議論の例については すでに 《形式》上は――それは もはや 交通の整理ではなく 当然 交通体系の総合的な計画ないし統制であるのですが―― それは [ββ-1]つまり 《労働の皇帝制》あるいは ほぼ同じことで [γγ-1]つまり《労働の神聖制》として 述べております。
以上は 言われていることですが その第二の方面・すなわち個々の交通関係における整理という点で もう少し触れるとするならば それは具体的に 生産におけるそれぞれ人格的な関係と二つ〔ないし三つ〕の価格関係とであるということから 《形式》上 考えられることは まず 最初の《生産における人格関係〔という形式形成〕》は もしそれが 《形式》の総合化を前提すべきとするなら――すべきだが―― つねに 他の 生産における諸価格関係それぞれの交通において それらと相即的に かかわっているものでなければならないということが出来ます。
これは たとえば 形式形成=人格関係としての生産の関係が 単に習俗的な交通において行為されているか あるいは逆に 反習俗的な形式によって新たな交通を目指しておこなわれているか 〔あるいは 何らかの形で超(非)習俗的な交通(たとえば 抽象的に言って 《労働の身分制》において それであるのに 《非労働》を自己の労働行為だとするような場合)を前提にして保たれているか〕など そのいづれであるかによって 諸価格関係としての生産の関係が それぞれ影響を受けなくはない また むしろ正当にそのように 影響を受けていくであろうというふうにです。
《習俗》というのは 《余韻〔とその形式化〕》および《余剰〔とその形式化〕》に そのまま かかわっていたものでしたから。《段違い》とか《断続的》とかの問題は この第二の方面では そのように かかわり 進展していくものと見られます。
ただし――ここからが 難しいところだと思いますが―― 第一の方面の方法論ともかかわって この第二の方面の問題において 後者の諸価格関係に何らかの変革が起きることによって 前者の人格関係が 規定され 相応にそこに新たな交通様式が生まれる場合も 大いに考えられます。
そして実際は むしろ 人格の形式形成の関係を 正面切って論じるなどという愚は 措いておいて 生産をめぐる関係の中の 具象的な側面・つまりそれは 《〈人格関係という形式〉の〈形式〉》としての具体的な生産関係として 考えていくのがよいと思うのですが それのような側面としての諸価格関係において 初めの[β]身分制と[γ]民主制との織り合わせの全体的な交通整理の方法論とからめて そこにおける《交通》に 議論が集中し またその議論は具体的に 分野ごと・段階ごとに いくつか分かれるであろうという見通しです。
(つづく→2006-04-27 - caguirofie060427)