caguirofie

哲学いろいろ

#38

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第五日 ( ll ) (社会または《歴史》)

――この方式において 意識ないし無意識が 外へ開かれずに 内に向かって閉じられているというときには つまり 等位形式交通[α-ω]の誤った解釈のばあいには 内閉的に 形式を 互いに 等位ないし同位に置こうというのですから もしそれが 一つの小情況(これについて いま 《家族》を思っているのですが)のうちに閉ざされ固定されるようであるなら それは つねに このように 両性の二角関係にかかわるかたちで・あるいは さらに 一般に必ずしも性関係にかかわらないかたちででも 従ってそのように広義の消極的な意味での《オイディプス・コンプレックス》と呼ぶべきものが 或る意味で 必然的に起きる余地が 大きい。一般に 《ある任意の三角関係があって その中の任意の二角が 残りの一角に対して まず互いに等位であろうとし しかもまた そればかりではなく その第三角である相手の位を奪おうとして 自己たちの形式をもって 他者の形式に 重ねあわそうとする動き》 これが 生じてくるものと思われます。そして ただ ここで重要なことは わたしたちの方式では 今度は 言うところの消極的なオイディプス・コンプレックスではなく――なぜなら 水平的な等位形式交通をではなく 過程的な幅をもった垂直的・時差的なそれを 基本とするのであるから――別のコンプレックス(心理的な複合関係)また 等価ないし非等価の諸価格関係を 持って来うるというように考えます。
一般に 家族関係として言えば 遅れてやって来た第三角たる《子》が 先行の二角に対して 水平的に 形式等位として見られる分が 少ないのですから かれ《子》が 《親》の二角関係のあいだに 割って入るというよりも 《形式の余韻》としての関係を持つ。つまり 余韻は 基本的に 過去と現在との不連続な・しかも関係(交通)を言うのであったのですが 時に 意識ないし無意識が 内閉的である場合には 不連続としての不連続(断絶)ととってしまう。つまり この断絶において 子は 親と 《形式=人格》的に 等位・同位であると考えていく。そして これが 心理的なコンプレックス(この場合 断絶的な複合)をもって来うるし また 一般に 経済的な価格関係の交通においても この断絶的な等価(?)による交換が 支配的になりえます。この断絶というのは 必ずしも 段違いではなく(なぜなら 段違いの場合は さまざまな分化した形式が その内部で 経済的な余剰の力としての段階をとるのですが 余韻としての断絶の場合は 人格つまり形式全体が その外部で いわば段階をとってくるものです) また 断続的というのではない(なぜなら 上の内部的な段階による流れの切断のあと 段違いに継続するという意味ではなく 外部的な断層による関係の切断のあと この断絶のまま 流れが 継続するということになると思われるから)と考えられます。
わたしたちの方式におけるこのような心理的な複合の関係は 《アジャータシャトル(阿闍世)・コンプレックス》と呼ばれています。いまは その消極的な場合から これを導いたのですが もちろん オイディプス・コンプレックスの例と同じく その積極的な場合にも この交通関係の心理的な側面が 構成されると思います。さらに これは やはり [α-ω]《等位形式交通》の視点にのっとって 構成されると思うのですが ただし その視点の形式形成の方式の違いにより いまひとつ別の構成をとると思うのです。
わたしたちの議論は 経済学などの専門的な理論づけに その焦点があるのではなかったから このような新しい形式形成に際しての対処の仕方がそれであり これが ボエティウス君らの場合と どう違うかについても 議論していこうということだったと思うのです。
《交通形式(関係)》の《等位》ということで わたしの立ち場としては 《家族》・その単位的な《三角関係》を一つの起点として 《中位情況》を呈するような《労働・生産》の場――したがって 全体としてまとめて《市民の生活》――においても その〔《等位形式》の〕《身分制》[β]的な作用と《民主制》[γ]的な作用とのありかを つきとめようということになるのですが
第一に この《等位形式》には その形成にかんして 二つの《方式》が 考えられました。《等位》という《類関係》を 水平的に捉える方式と 垂直的に捉える方式とです。《水平的》といっても この水平的な視点じたいが 《過程》の中にあるか もしくは
 それじたい [α-ω]の《過程的》な視点にもとづいている。《垂直的》というのは カゾk三角関係の中で 遅れてやって来た第三角(子)を 文字通り 時差・遅延をもって 垂直過程的にとらえる。これらいづれかの方式で 三角関係は 互いに《等位》だということです。
遅れてやって来た第三角が 先行していた二角関係に対して 非時差的に いわばその中へ割って入るというとき――そういう互いの《等位形式》を形成していくというとき―― 単純にみれば それは 先行の《身分制》を《民主化》するということです。ですが 別の方式すなわち むしろ 先行の二角関係と後発の第三角との関係を そのまま時差的・遅延的にみるというときにも これも同じく 等位形式の形成のための方式であるのであって 一種の世代間(ないし 過去と現在とのあいだ)の身分制を観念することによって 互いの民主制を 生きたものにしようとつとめていることにほかならない。時差的な世代間の一種の身分制は――それは 非常に 単なる観念(したがってこの場合は イデア)であるにすぎないと言ってよいと思いますが これは―― 《民主制》による民主制のための手続き つまり 民主制としての順序にしかすぎない。第一目標は 同様に 《等位形式交通》であることに 変わりはありませんから。
そこで 第二に 今度は 《民主化》《身分化》の契機とは やや異なって 《等位形式》形成のための《交通》という概念――そして それに いづれかの方式が からんでいることになると思われますが――を 誤解するという動きを 指摘できました。これは むしろ 一つに 《民主制ないし身分制》以前の時代・つまり[α-ω]の基本形式の出現の以前の時代に 見られたであろう所謂る原始心性(アニミスムだとか シャーマ二スムだとかの)によっていると思われます。もう一つに 推測するに 《民主制・身分制》以後の時代にあって すなわち[α-ω]の基本原則たる《等位形式》の以後の時代にあって この《形式等位》という《度量》による《交通》 これが 《労働の徳の支配制》また《経済の支配制》の出現してくるにつれて その中から 《貨幣所有》という《経済力》の支配制の現われようとすることによって その《流れ》は遮断されたり 《形式》は切断されたり 《形式》の断層(段違い)はもたらされたりすることとしての《超度量》を 含むようになったと思われます。
これによって 《等位形式》は その誤解を生むようになった。すなわち 上に第一に述べたところの原始心性が ふたたび はたらいてのように 《等位》は 意識的にしろ無意識的にしろの 心理的な《複合》であると あやまって捉えられるようになりました。流れは遮断され 形式には断層ができたことより その流れにしろ形式にしろの主体たる人格の全体的な統一(すなわち [α-ω]視点)を保つためには 《等位》であるためには 単に《身分制》のもとにあったり単に《民主化》を作用されたりしたのでは だめであって むしろ 原始心性にうったえなくては いけないと考えられた。考えられたというよりは 
非常に 無意識のうちに その或る種のいま一つ別の方式が はたらくことになり 《等位》であるためには 心理的に――心理的というのは 精神(イデア)と身体(感性)の接点というほどの意味ですが―― 互いの《形式》が 《複合(コンプレックス)》しなければならないのだと。したがって これは 《複合への衝動》として もし《形式(イデア)》の《等位交通》が 《心理的な複合》による交通のようなものに 取って代わられたとする限りで これは 形式形成の方式の違いによって それぞれの実態をもつことになるでしょう。第一の方式すなわち ボエティウス君たちの社会のそれと考えられる水平的な等位の概念形成による方式では 《オイディプス・コンプレックス》というもの そして わたしたちの社会のそれと考えられる垂直的な等位の考え方による第二の方式では 《アジャータシャトル・コンプレックス》とよぶべきもの これらでした。
もっとも ここで次に 第三として これらの《心理的な複合(コンプレックス)》は どちらの方式によっている場合でも もともと [α-ω]の《等位形式交通》のため もしくは それにもとづいていたのですから それぞれともに 基本的には その積極視すべき側面を見なければなりません。
(つづく→2006-04-30 - caguirofie060430)