caguirofie

哲学いろいろ

#30

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第五日 ( dd ) (社会または《歴史》)

――ボエティウス君 しばらくだった。
今日は いよいよ 第五日だね。
――ええ 今日の議論で これまで述べてきた事柄が ひととおり完結できると思うのですが。また 今日は そのつもりで やって来ております。
――それは 頼もしいかぎりだね。ボエティウス君には失礼かも知れないが わたしたちのこの議論は 必ずしもそこに新しい事柄があるというわけのものではない。ないのだが いくらかでも それによって見通しがすっきりすることがあればと 願いたいと思う。いづれにしても 今日もおそらくボエティウス君のほうに おもに論述をおねがいしなければならないかも知れない。そこのところは よろしく頼みます。
――こちらこそ。と言っても これまでも ある意味でナラシンハさんが 誘導役であったように思います。
いづれにしても そのことは措いて それでは ぼくのほうから出発してみたいと思います。――もっとも はじめからの前提であるところの 《精神》すなわち 精神=知性=意志の自由 という領域にもとづくという視点を やはり今日も 最後まで 継ぐ形での議論を超え得ないとは 思います。


いささか唐突になるのですが まず 前回に述べた《経済力の支配する貨幣交通関係》言いかえれば 《貨幣所有の関係が主な交通の様式である経済の支配制》 つまり全体として 《〈労働の身分制[β-1]〉が 歴史的に〈民主化[γ-1]〉されていく第一から第三までの各段階の重層的に錯綜する情況》 ここにおいて もっとも特徴的なことは何かと問うならば その答えは その交通形式の断続的であること ということになると考えます。
そして今日は この形式としての《交通の断続性》ということから 入っていきたいと思うのです。
それ(交通の 形式にとっての 断続性)とは 前回に述べた点から言って 《貨幣の交通とそしてその所有とによる関係・形式》と考えられ

  • つまり これによって おのづから その基調が 《断続的》(《断》にも《続》にも 重点があります)となる。
  • それは 繰り返すなら 垂直的に進んできた歴史過程が 一時代のおそらく全体情況として 平面構造的な一つの統一体(もちろんこれも 過程的なのですが)をかたち作って かんたんに言えば 必要最小限・度量および超度量の三範囲 としての三つの段階を有機的に含むようになり その第三段階たる《超度量》ないし《形式の余剰の形式化》つまり ナラシンハさんの言葉では《あそびの形式化》(これは 《労働》行為としてそうなるというわけですが)が 残りの二つの段階情況を凌駕し 支配的となる このことに 対応しているというのが いまの議論の焦点であったわけですが。

また それは 別の視点から言って 形式的な交通の 遮断を伴なっていて しかも遮断された世界(貯蔵という所有 の世界)においても 独自の形式交通が 形成されていくことのゆえに 《段違い》の交通関係であると見られます。
これらの二つの点からは さらに 従って そもそも 《情況》全体としての《貨幣の流れ》に参加する時点においては 《労働》ないし《経済行為》という徳をその参加行為の基盤としている限りで そのような一つの《善》の行為は すべての個人に共通であって しかもその《善》が自由に発現しうるというところにおいては ぼくたちの《類としての存在([α]の原則)》が 基本的に――静態的に言うならば――均衡したかたちで保たれていたと考えられるのですが
この全体的な《貨幣の流れ》に《断続的》になるという時点では――この時点では―― 明らかに その《善》という《形式》も 現象的(経験的)には その《流れ》の様式と 同じかたち(とりあえず形式)を取らざるを得ないと見られ そしてそのことは 取りも直さず そのまま 《類としての存在》の同じくそのような変形を 物語ると考えざるをえないというそのことを 意味します。
実際には [α]原則の形式 ないし [α-ω]視点が 変形するのではなく この原則ないし基本視点を所有(ないし分有)するぼくたちの 労働をとおしての 一般形式が 変形する。すなわち かんたんに・特徴的に言って これが 《段違い》となり 《断続的》となると思われます。一般に 《類としての存在》の喪失 より経験的には《労働〔の自由〕の喪失》とは このことであり また 同じく簡単に言って この変形(それは 主に [β]方向へのいくつかの方角におけるそれ)は 当然 均衡形式としての[α]のゆがみであると捉えられます。
ここで 以前のいささか古い議論にふたたび触れるならば 《悪》とは 《無形式》であったものですから 《悪》には 《変形》も《ゆがみ》もないことになります。《形式の欠如》そのものですから。そこで 第二次・第三次の[β-1]における問題は 従って [α]という《形式》の・ゆえに基本的な《善》の・だから《自由》の・または《精神》の・だから再び従って《知性》の 《変形》もしくは《ゆがみ》であるというのは このむしろ《悪》の問題だと言えるはずです。
言うところの意味は 《悪の問題》では 実際には なく つまり言いかえると 問題は《善の欠如》たる《悪》のそれであると言うことは 実践的には 《善の変形》のそれであることになります。もう少し言うと 同じく問題は 《わたし》が《類としての存在》であろうとするとき・つまり《わたし》と《あなた》とが互いに交通を結ぼうとするとき 少なくとも《精神》の現象としては この《変形された善》をその形式としてしまうことに あることになります。
このような《段違いに 断続する形式》は とりもなおさず そもそも部分的にしろ全面的にしろ 《形式の流れから切断された余剰》を一つの形式としたことにこそ その原因があると考えられ そのことからは もしこの変形によるぎこちなさを振り切るには 従って何よりもむしろ 一つのまったく別の新しい《善》・新しい《形式》が問い求められなければならない――そして このことは 歴史過程的な[α-ω]の視点に立った ぼくたちの 情況展開としての 形式形成である――という次第です。


さて この《交通の断続性》もしくは《段違いに断続する形式》は それじたいにおいては そのような交通もしくは形式を通じてやはり ぼくたちが互いに《類としての存在》であろうとする(労働を通じて 各自が自由な度量を自由に展開していこうとする)ことを 意味していたと言わなければならず

  • そうでなければ それは 《善の欠如》たる《悪》の問題であり これはむしろ 議論になじまない(悪は悪じしんによって 滅びるとしか 言いようがない)のだから

従って ここで未来へ目を向けるならば そのような《変形された類としての存在》を対象化し それへの関係・形式を あらためて 模索するということが ぼくたちの当面する実践であります。言いかえると この模索をぼくたちは――情況から つまり その情況を一たんは新しいものとして形成しようとした 過去のぼくたちの形式から―― 余儀なくされていると まずは 考えられます。
《変形された類的な存在 への関係》と言ったのは 少し奇異かも知れませんが それは 一つには 《貨幣交通をともなった労働の身分制・民主制》における その固有の徳を・そのあり方を 認識していくことにほかならず それは――循環論法ではあるのですが―― 基本原則としての[α]形式との つながり具合を 検討していくといったことを 議論の出発点とします。ただこれに対して もう一つ言えることは いやしくも《善》が発現され そして《形式》が形成されるとき――つまり ぼくたちが 日常生活をおこなうとき―― たとえ断続的であろうと それは 個体として 統一的なものであり だから そこでは その中から実際に そのいわば基本的な正常部分とそして変形部分とを取り出して 取捨するというわけには行かないであろうものであるということ。
まれに たとえば信仰の高次の立ち場から いわば余剰としての過去の徳の成果を みづから自己に疎遠なものとして 無償で他に譲渡するという場合(慈善事業が 社会的な還元であると言われる場合など)が見られますが しかしこの場合は 逆に――残念ながら―― 情況に対する関係としては 原則的に言って 《善》の《度量》たる正常部分(類的な存在の形式)をも ある意味で 消極視するという結果になるかねないとも考えられます。それは あってもよいのだとかと言った議論を別にするなら 原則上は むしろこの原則形式(《度量》の自由な発現)に絶望したことを 意味しかねない。《神〔が単なる個人的・個別的なそれではなく 普遍的なそれであるとされるとき その神〕ののは その〈わたし〔の神〕〉へ そして カエサル〔が一般に最高善であるなら すなわち〈情況〉〕のものは その〈情況〔のカエサル〕〉へ 還す》というのが ぼくたちの基本形式[α-ω]であったのですから。
つまり 簡単に言って 慈善的な寄付は この《貨幣所有〔の力〕の関係》情況では そのような《形式の余剰の形式化》たる《経済力》を是認するだけではなく 基本形式[α]の変形をも二重に 是認することになるでしょう。《度量の余剰》たる《超度量》から さらにそれ自身の《余剰》を [α]形式に還る・すなわち社会的に還元するのだと言いつつ またまた独自の形式としてしまう。この点は これで措くとして。
それでは この一般に《変形された善 の対象化》としての新たな形式を どのように獲得していくべきか こうあらためて問うならば それは 一般的には 当然のごとく まず《情況》の側から その《流れ》の中で特にその《消極視》すべき部域――流れを切断している部域――に対して 《政治》的に介入し 《流れ》全体を過不足のないものにするという基本的な《関係(闘い)》が考えられるのですが ただ ここでは その点をも考慮に入れるようにして 特に ぼくたちの拠るところの均衡発展形式としての[α‐ω]の視点から いかなることが言えるか いかなることを為しうるか また 言えないかを 考えてみたいと思います。
ここで問題は もう一度繰り返すならば 《善の変形》ということであり・・・
(つづく→2006-04-22 - caguirofie060422)