caguirofie

哲学いろいろ

#32

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第五日 ( ff ) (社会または《歴史》)

――第二点について もう少し詳しく発言させてもらいたいと思うのですが・・・
つまり 初めに ことわっておかなければならないことは わたしたちは この《変形された善》とそしてそれが支配的であるところの情況(つまり第二点)を 問題しますが それは 決して 《労働の身分制》の一連の歴史的な系譜の中で そのように認識していることを 意味しない。また その歴史的な系譜 の認識を ないがしろにすることをも 意味しない。非常にあいまいに しかも 《現時点》およびそこにおける《形式》に 事は 集中しているといった意味です。現在時の背後に 連続して受け継がれている歴史の系譜 これを 見る そして認識しながら その認識を忘れ去っているのです。
忘れさっているというのは 認識じたいの中におさめているということです。一般的に言うならば わたしたちの《因果関係への関係》としては 《行為(業)》として そこで 完結しきっていると思います。
この場合 仮りに《過去》と必ずしも弱くない絆で結ばれているとするならば それは 《現在》におけるその《過去》時の認識としてではなく――変な言い方ですが 断続的にしろ連続的にしろの《認識》としてではなく―― 《過去》時そのものと つながっていると言ったほうがよい。つまり その過去時における――そしてそれは それ自体として 一度 完結したものなわけですが その――直接的な経験が 直接的に いまの自己の《形式》に だからその《余剰》としてではなく(《余剰》として 断続的にではなく) 言わば《余韻》として残ってつながっているそのものにおいて 過去を背負っている。過去とその意味で 結ばれている。
《余韻》とは ある《善の発現》が 《形式》として形成されるとき その発現の占める位置が 肝要であればあるほど その形式の色合いを深めるようにして 自然なかたちでまとわりついてくる雰囲気といったものであり また それは ある一定の《善の発現》が《習慣》化されることによっても そのような色合いが 色合いとして まとわりついてくるものでありますが そのことによって 《過去》は 《形式》形成という行為においては その因も果も すっかり 経験し終わっているのであるけれども この《余韻》が したがって《形式の感性》としての《雰囲気》が この過去時を わたしたちの現在に 歴史事実(もしくは真実)をもたらしている。しかし ここには 決して 所謂イデアまたは推論のようなものを通しての認識・あるいはこの認識として連続してつながっているといった要素は どちらかと言えば ないと考えています。
また この《余韻》は余韻であって 《雰囲気》と言ったとしても 或る《善の発現》の結果の 余韻である雰囲気であるのだから――その意味で わたしたちの現在が 過去時にも つらなるのですから―― 善の発現の以前の 雰囲気とか空気とかというものでは ありません。言いかえると この形式の余韻は 現在と過去との断続性を むしろ 振り切るものなのであって――つまり 両者の不連続を つねに 現在時の形式形成上 基調とするためのものであって―― 所謂その場の雰囲気などといったことは むしろこの断続性を 存在せしめるための〔善の発現の以前の〕或る推論・憶測というものだと考えます。
いや それにもかかわらず この《余韻》こそが わたしたちの《形式》としては――なぜなら 断続的な交通(交通じたいは 類的な存在のものである)を振り切り 過去との不連続を明らかにするためのものであるのだから―― あとで触れることがあると思うのですが 少なからず重要な要因として 作用しているようでもあるのです。
そのばあい この《余韻》そのものが 《行為(業)》そのものとして見られることがあります。矛盾した言い方ですが それゆえに 現在時の形式にとって その形式の余剰・これによる断続的な交通を 乗り越えていく。これには ある見方によると 例の《輪廻》の観念が 覆いかぶさっているとも考えられますが むしろこの輪廻は 過去の一定の形式つまり《行為(業=ごうとか 性=さがとか)》を 現在時に見させることによって そしてそれは  《余韻》として見させることによって 《形式》上 つながりつつも 《時間》としては 過去は過去として振り切りつつ見るための観念であるような気がしています。これによって 《断〈続〉的》なのではなく むしろ《断絶的》なのであって そうして《現在》時では 自由な形式形成つまり交通をおこなっていこうということだと思います。
言いかえると 《変形された――断続的な――善》の認識は これを持ったとき わたしたちは 何かその認識によって ただちにつねに 或る行動へ促されるというのではなく この認識を まず 認識する。言いかえると 全体として 《形式》の《形式》を つまり自己の形式に自己の形式を掛けて その連乗積をつくっていく。
それでは 《行為》にかんして 認識が何らなされないかと言えば 必ずしも そうではなく 《形式》上 わたしたちなりにおこなう認識があります。あるいは 認識によって 或る行動へ促されることが あります。それは 次のようであり これが 今日のテーマの本論に入ることになると思われる議論です。
つまり わたしたちも 行為を認識しないわけではなく また この認識から或る種の行動を起こさないわけではない。そして それは すでに触れたあの《中間情況》の問題であり これは ボエティウス君の言う《段違いとなって変形された善の その形式の断続的な交通》といった問題とそのまま かかわり また これに対しては わたしたちも 行為として認識し 認識によって行動を たしかに取っていくという そう思われる現実です。
いま 議論の便宜から ボエティウス君の先を越して わたしなりの認識と考えを 述べてみたいと思うのです。ちょっと ボエティウス君のお株を奪った恰好になるのですが 積極的に きみの先ほどの序論を用いさせてもらうなら こうです。
《中間情況》とは ここで 《中位情況》です。または 以前にボエティウス君が引用してくれたプラトンの《民主制》に沿って言うならば 《中庸情況》とも言ってよいかと思うのだけれど それは まず《形式》としては ある《善(善意)》が必然化され しかもその必然化されたまま固定化されることによって形作られる《継続関係 going concern 》のことであり また《情況》としては 《日常性》という基盤がそのように固定化された《善》を求め続けるようになるという意味で その《政治化》した形態であったわけですが 従って そこでは そのまま 《日常性》ないし《帰同》と 《政治》ないし《疎外》との両契機が その〔必ずしも量的なだけではないところの〕《中位》に ともに一点集中・縮小されたかたちで定着した《情況》ということを 意味しておりました。
そこで 今の 《形式》にまとわる《余韻》ないし《雰囲気》というものを取り上げるなら この《中位の情況》ときわめて密接につながっていると考えられます。そのつながり方は 次に宣べるような様式においてなのですが それは 一言で言っておくと 一方で 《形式の余韻》は 過去時と現在時との関係(その不連続という関係)を明らかに見る上での一つの要因であります――《余韻》として・その意味で《形式》として 時間(歴史)の連続性が或る意味で確認され 《形式》の発現じたいとしては 不連続である―― こうであるのに 他方で 実はしばしばこの《余韻》じたいが再び《形式》化されることがある。《栄誉》として・その《身分制》化として であるでしょう。この後者が《中間情況ないし中位情況》の形成とかかわっているのではないかというのが 骨子です。
まず 《中位の情況》というのは 特に《労働の身分制・民主制》の情況について具体的に見れば それは当然 《労働》ないし《経済行為》を中心として形成されて 独立した一単位をなす人びとの集団というものが その代表であるわけですが――そして一言で言って この集団・集合体ないし《中位の情況》が  《労働》という日常行為を 必然化させ政治化させるという形態をとるということでしたが―― この点について わたしたちの認識は 或る意味で 《形式の余剰(《流れ》から私的に貯蔵されたもの)》としての側面においてよりも この《形式の余韻》としての側面において 観察したほうが 事態が明確になると思われるのです。
つまり ボエティウス君の指摘した《段違いに断続する形式》という側面は わたしたちの側から見れば 上に述べたように 《中位の情況へ 縮小化された形式》という意味あいを持つように捉えられるからです。つまり 一言で言って――労働という徳の身分制においては 労働の一組織体としての《中位情況》が 《情況》全体にとって代表的な形態であるということから―― その《中位情況》が そのまま 《政治化》し むしろ 《国家》は もろもろの《中位情況》の連合制( United going-concerns of X )をとるというかたちで 〔作用として〕縮小化され

  • なぜなら 《国家》は いづれの国民に対しても 《疎外》関係を保ち  《第三者》として いわゆる《正義》(権威・権力をもっての 《中位情況》のそれぞれの善の調整)をおこなうことが 基本であったのに そうでなく むしろ 《中位情況》のほうからの介入によって その《疎外》の契機は 中位へ 引き摺り下ろされ 縮小される。それは 《[β-2]武勇の身分制(国家)》から 《[β-1]労働の身分制(社会)》への移行の側面としても 見られるべきであるわけでしょうけれど

しかも その反面 《中位情況》は もともと 《労働》行為という《日常生活》をその基盤としているものであったのであるから もし仮りに今度は 《家族》〔という《帰同》の契機〕が ちょうど《国家》の場合とは逆の方向に・かつ同じ意味で この《中位情況》に主導権をみぎられ 巻き込まれるとするなら それは 《帰同》という契機の 中位上昇・その意味での縮小化にほかならないわけです。
要約すれば 《中位情況》は 或る意味で 《国家(政治)》や《家族》のそれぞれの境位を奪うかたちで それぞれつまり《政治化》および《日常化》をともに 自己のもとに包摂して 《形式》の中位集中をおこなうということができます。
集中の対象となるその《中位》における焦点は 言うまでもなく ボエティウス君の述べてくれたごとく 《労働》であり《労働の成果》であり ないし《経済行為(貨幣交通・その流れ)》であり さらに《経済力の獲得行為(貨幣所有)》です。
そして わたしたちの観点からいけば 或る意味で この《中位情況化》の側面が ――《[β-1]労働の身分制》の《[γ-1]民主化》をともないながらの――《段違いに断続する形式》に対応するものと思われます。
これは ある意味で 《時間》観においても 《中位情況》が出現することによっているのではないか。すなわち 《形式》形成という《善の発現》は その一つの行為じたいとして 完結するはずであって 過去と現在とは その忌みで不連続である なのに あいまいとなって その中位に集中し縮小化される。過去と現在との不連続の関係 すなわち 《関係》があって しかも《不連続》であるということを見るのに 《いちど発現した形式 の余韻》という概念が生じる なずなのに 今度は この《余韻》じたいが 過去と現在との 《中間》地点となってのように いまひとつの形式とされてしまう このことによって 労働の身分制も 《中位情況化》するのだと。
さらに具体的には この《形式の中位情況化》は 《段違い》であるとか《断続的》であるとかとは別に むしろ それが 帰同・疎外の両契機の縮小化をともなているとする限りで 《形式》の門戸の狭隘化〔とそれによる 非身分化 または 非身分化したものの身分制〕を示しており そして 時にそこに 《ぎこちなさ》が生じているとするならば その面は 《形式の狭隘化》への《なれあい》という精神の現象――したがって 本来の《形式》の幅は その閉ざされた分だけ きわめて秘密化ないし《わたし化》したかたちで 温存されることになる――を 呈するようになると考えられます。
そして この精神の現象は――そういう形式形成のパタンは―― それが《習慣化》である限りで 形式の《余韻》が 普遍化して これをさらに もう一つの形式としてしまうという機能を 果たしていると考えられる。その意味では 従って《中位情況化》は いわば 《余韻としての形式》の触手化です。あるいは《余韻》という《形式の触手》によって 一般に《交通》がおこなわれることだと見られます。
以上は やや消極視すべき視点に重きをおいて述べたかと思いますが いづれにしても ボエティウス君の理論を借りて わたしたちにとって馴染みやすいように 認識をおこなうならば 以上のような側面におけるそれだと考えられる。ただし さらにここでもう一点 ボエティウス君の側の《段違いに変形された形式》という側面から わたしたちのいま述べた情況を あらためて認識しようとするならば(それは できると思うのですが) 次のようになると思います。
(つづく→2006-04-24 - caguirofie060424)