#34
――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323
第五日 ( hh ) (社会または《歴史》)
――そこで まず考えられることは
《[β-1]・[γ-1]の単なる身分制・民主制》および《[ββ-1]・[γγ-1]の皇帝制・純一民主制》の 二つの道のいづれにおいても [γ]と[β]つまり《民主化》と《身分化》との経糸と緯糸とを それぞれ情況に応じて織り合わせるということ・そうして 発展過程をただる均衡形式の[α]を回復するのだ。
という解答が 得られると思います。これは ナラシンハさんが指摘されているように お国柄によって 一般的な《形式》が その《余韻》として異なることなどを除けば 情況の形態として表象されうる限りの解答として原則であろうと考えます。
そうして そこで いま除いたところの《形式の余韻》の《内容》をなすものは ぼくたちの観点から言って [β-1・γ-1]》の情況においては おおまかに言えばむしろ [β-2・γ-2]すなわち《武勇ないし軍事の情況化》であり あるいは [β-3・γ-3]すなわち《祈りないし文化の情況化》であり またそれぞれ それらなどの普及し一般化した情況形態であろうと考えます。
そして これらの《形式の余韻》が 形式の核としての《労働》のもとに包摂され しかもそこで たとえば[β/γ-2]の《軍事》については その偶有性が 基本的に言って大きく《労働》行為の中に そのまま 偶有性として保持され制御されているということなります。そしてあるいは [β/γ-3]の《祈り》ないし《思想》については それが 《労働》――すなわち 思惟行為の発現ではあるが しかも祈りなどの徳の《基礎》を構成するところの《労働》――の行為と自由に 接触面を保つかたちで それ自身 自由に発現されうるように 保証されるということです。
このようなことは お国柄のちがいにかかわらず 《形式の余韻》の単なる形式化・《触手》化を 防ぐものとして 考えられます。ほかに《形式の余韻》として それらが習俗となり 言わば微視的な個別の余韻形式として 触手化するなどが 考えられますが これは 個別に 個人の意志にまかせられてよいと思われます。新しい《形式》の議論(実践)をとおして 変革されるべきは変革されていくであろうというふうに見てのことです。
ただ この《形式の余韻》が 行為ないし形式の習慣化によって 形成され またその形式化がなされていくということは 或る特定の情況に限られるという性質のものではないので ぼくたちの間にもやはり見受けられるとしなければならないし また これに対して 認識しておかなければならないと思います。
そこで ナラシンハさんの側の情況も推測しながら ぼくたちの場合との差異について触れるとするなら。――
まず ナラシンハさんの言われるような雰囲気としての――つまり たとえば 何らかの権威が 《形式》にまとわりつくとか 同じことですが 何らかの禁忌が《形式》を規制するとか そういう意味での――《余韻》(つまり余韻形式のことですが)が 現象として現われているということは おそらく これまでの議論から推測しても ナラシンハさんたちの間では 絶対善に帰同するという代わりに 何らかの面における〔人としての〕最高善(複数)を 仰ぐ・つまり 言わば《模範形式》の問題・つまりこの模範形式への帰同が 或る意味で 支配的であるということからではないのか と考えられます。
つまり その場合には すでに 《過去と現在との不連続な関係(そのための《余韻》の概念)》という考え方とも 両立して なお その問題が生じているのではないかというのが 僕たちの憶測です。
従って この考え方からいけば やはりそれは すでに完結し 結果として現われている《形式》が 尊重されるのであろうと思われ そしてそのことは そのまま 結果へ到る過程を無視するというのではなく そうではないが ただその場で即座に その小情況全体の雰囲気として――雰囲気として―― 何らかの形式〔の相互形成〕が 一般に 幸か不幸か 完結を見るのだと 暗黙のうちに 了解されてしまっている。こういうことではないかというのが ぼくの見方です。
それは いつだったか 一度 ナラシンハさんらの側では 個別性が 普遍性の契機をともなって 特殊性を実現するという場合 それをどうやってなすかという時に その特殊性は すでに実現されているのだと思うとぼくが述べたと思いますが そのことと関連しているように思います。
ぼくたちの側では 確かに 最高善への帰同がないわけではありませんが――つまり そのようにして 《カエサル制》が起こったのですが―― しかしそこでは 結果としてのそのような模範的な形式への帰同であるよりも 或る意味でむしろ 過程としての形式ないし形式の内容・あるいは 形式の形式・つまり 認識に際しての基本となる推論じたいが 一般に貴ばれるという傾向が あります。従って そこでの形式の習慣化は その結果としての雰囲気よりも その推論――そしてそれに 何らかの余韻をなす表象が まとわりついていても この推論――の形式じたいが 貴重だとして 一般に迎えられることになります、だから そこでの《余韻》は 《模範形式》が一般に迎えられる場合の《中位情況ごとの 雰囲気の共有》であるとか 相互の《形式余韻の 触手化》であるとかの側面は 概して少ないものと思われる。――その反面で ぼくたちの側では この過程としての推論の形式をめぐって 《形式》一般の獲得への角ばった闘争が 展開されるのを見ることができるのですが。
ただ 少し脱線するかも知れませんが 《形式》が 倫理の問題であるとすれば 《倫理的 maralis; 'ηθικοσ 》という言葉は moralis は mos(意向)が習慣化したものを示し そして ’ηθικοσ( ethikos )は ’εθω( etho )つまり性癖(ただし動詞)がやはり習慣化したもの〔つまり ’εθοσ ないし ’ηθοσ( ethos = 慣習・風俗)〕といった事柄を示すのですから ともに 習慣・習俗つまり単に雰囲気ないし余韻としての形式をしか もともと表わしていないことは おもしろいことです。
たとえば《くせ》であるとか《たち》であるとか あるいは《ならい・ならわし》という言葉が そのまま 《理念としての倫理形式》を意味する場合を 思い合わせるときにです。
――なるほど。そう言えば 少し感じがしがうけれど わたしたちの用いるアートマン( atman = 息・《わたし》) それの環界( σφαιρα・sphere )のことを こちらでは atmosphere(大気圏)とつなげて 《雰囲気》のことを言ったりするようですね。
――なるほど そうですね。或る意味で 《形式》が《形式》として はたらくところには そういった《自我》の直接性が ある程度かならず衣のように ついて纏っているのでしょうか。形式の《余韻》や《余剰》も そうなんでしょうか。
いづれにしましても 《形式の余韻》と一言で言っても 国柄によって その《余韻》の中の 過程に重きをおく場合も あるいは その結果に重きをおく場合も あるだろうというそんな異同なども踏まえて これから 述べていきたいと思うのですが。
ここで [β-1]としての《労働の身分制》の系譜が [β-2]としての《武勇》や あるいは 徳の基体としての[β-3》すなわち《祈り》などを それぞれ拘束しないかたちで [γ]《民主化》という経糸をとおすかたちで ともに包摂していく場合 その系譜に立つ情況の基調としては そこに あくまで [α]としての均衡発展形式・従って 《精神》の《自由》・だから 《〈わたし〉が 〈類として存在〉する》という契機が 流れているという側面を あらためて捉えておきたいと思います。
この情況をさらに超えて 《経済力をまじえての 経済の〈流れ〉が そのまま 支配的な形態となった情況》において たとえば次のような日常における一側面を 指摘することができます。
たとえば ごく卑近な例として ぼくたちは 街に出て 曲馬団を見物する。そこで まず(ということは とっかかりとして) ぼくたちと曲馬団〔の人たち〕との それぞれの形式を 無意識的にであれ 媒介するもの〔の一つ〕は 入場料金(これの支払い)であり これを通じての交通である。まず このことの意味するものは 当然のことながら それが 双方の直接的な《労働》の交換〔による交通〕ではないということです、
つまり 具体的に言い直せば 曲馬団員のそれぞれは 芸という労働行為を提供する一方 m見物人としてのぼくたちは それに対して ぼくたちの直接的な労働行為によって応対して交通するのではない。言うまでもなく そこでは ぼくたちの側の労働行為の象徴物つまり貨幣をもって
- つまりそれ・貨幣は つねに《労働行為〔としての徳〕の余剰》ともなりうるものである。
- なぜなら まずぼくたちは たえず日常生活にとっての必要最小限よりいくらか大きな量を目標にして労働をおこなうものであり そしてそのことは この労働を《類としての存在(仲間)》であろうとしておこなうとすれば その行為および成果を 相互に 包摂ないし交換しあうようにしても なされ また 別の視点から言って それは 垂直的にも《類》であろうとして・つまりあの永続する三角関係としての《家族》のため・つまりさらに具体的には ある二角関係の自然的な余剰(つまり第三角たる子ども=次の世代)を想定して そのためにも行なわれるものであるからだ。
- そのように 《徳の余剰》となりうるところの《貨幣》をもって
曲芸という直接的な労働行為との交換に 代えております。
そしてこのことを 曲馬団員の側から見れば 取りも直さず その労働行為は 一つの最終目標としての・たとえば小麦であるとかチョッキであるとかの生活の品の獲得へと 直接には つながっていないことになる。それは 《貨幣》を媒介してであり また《曲芸》というサーヴィスの労働行為じたいに すでにそのような介入(労働の発現と最終目標とのあいだにいくらかの局面過程を設けての)をゆるすという性質があるというべきか
も知れません。
ここで 《形式》とは 労働の発現じたいに関するものを指すこともあれば それにかかわるいくつかの局面をつらねた全過程(つまりその労働行為者じしん=《わたし》)にかんするものを指すものであったことは 言うまでもありません。
そして・従って 当然のことながら かれらは ぼくたちとの交通で得た《貨幣》を同じく媒介にして 今度は 小麦やチョッキ〔というそれぞれ労働の成果をもって 一般に交通(商い)をおこなう他の労働する人びとと関係をむすび そこで小麦やチョッキ〕を購い それによって 労働を継続しえて 類としての生活をいとなむ。
言いかえれば 見物人も 曲馬団員も 小麦ないしチョッキの交通(商い)人も すべて 情況全体の経済的な《流れ》の中に それぞれ 位置を占めて さまざまな局面においてそれぞれの《形式》を相互に形成しつつ結ぶ。しかしその《形式》の発現じたいは すべて 情況全体の《流れ》から離れては 一般に ありえない。すなわち たとえば労働という第一次的な力の発現は もはや その対象(小麦の生産なら 自然という対象)およびその手段(道具)あるいは その様式(協働作業の など)をそれじたいに伴ないながらも あたかも その《情況という流れ》に向かって・対して おこなわれているかのようである。
従って次に その発現の成果は すでに譲渡していたかのように その《流れ》の中に投じられ そしてそこで 最終目標の獲得を媒介するものとしての相応の反対給付(つまり 貨幣であり またこのとき むしろすでに 貨幣という一つの最終目標というべきもの)を やはりその《流れ》の中から受け取る。また その給付としての貨幣は あくまで ふたたび《流れ》の中に投じられ その流れの中から 他の最終目標としての消費物を獲得する。その給付の一部が もし 流れ自体に何らかの制度があって 貯蔵(すなわち 未来の消費)にまわされうるとしても である。すなわち
このことは この《情況という流れ》の中における個々の交通をとおして 人はもはやそのまま 総体的な観点からは 《類としての存在》また[α-ω]の情況過程そのものであるかのごとくである。また実際に この限りで [β-1]としての《労働》という徳に内在する普遍性が [γ-1]の民主化の作用を介して そこで《類としての存在》があらたに確かに 獲得されたと言ってよかのごとくであります。これによって 仲間として 社会は営まれ また 次の世代も この仲間の生活が受け継がれていくのですから。
すなわち そこでは ぼくたちの広義の《形式》が そこに起きた総体的な《労働》行為の分化・つまり その第一次的な力の発現(生産)・その発現のしるしとしての貨幣の受け取り(反対給付)・そのしるしによる交通(交換 そして消費)・あるいは そのしるしによる余剰の獲得(貯蔵。生活のどうでもよい部分という徳の余剰)などというような分化――従って 情況の側から見れば 《流れ》としての分業・協業化が 必然的に 形成されている――にともなって それに対応するかたちで〔《形式》が〕あるいは分化をなしていて また その全体過程として綜合されているという面が 考えられるのですが ですがそこで この形式全体としての分化・総合化をとおしても 一般に 交通の《自由》が 敷かれたことになるものと思われます。従って
この自由な交通に向けての その流れの――従って《交通》の――整理の様態が どうであるかについて 問題は残るとしても 労働という行為において 基調としては 《わたし》と《情況》との均衡発展形式[α-ω]は 回復され―あるいは少なくとも 個人個人の形式が 互いに等位に置かれたと見られ―― その限りで 精神は《自由》に触れうるのだと思われ だからまた 《あなた》と《わたし》とのあいだにも ともに 《類としての関係》が 成り立っているかのように 考えられます。基調としての・一般論としての この側面は 重要であると思われます。
つまり もう一度繰り返せば そこで《あなた》も《わたし》も
(つづく→2006-04-26 - caguirofie060426)