caguirofie

哲学いろいろ

#23

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第四日( w ) (情況または《社会》)

――この議論に沿って もう少し進めるならば あるいは正確に言って 《労働の第一人者》の形式は その労働ないし生産の場(そのような一情況)を ちょうど《皇帝》がその領土を拡張するように また《祈りの皇帝》がその世界を拡大するように それなりの情況を拡大し それなりの《労働の皇帝制》を敷くというふうに 考えたほうが よいかも知れません。
ただ しかし 国家のように地理的にもまとまった一定の情況の中において 《武勇の皇帝》などのように 一人の《労働の皇帝》が立つということには なじまない。《形式》すなわち社会生活たるぼくたちの精神(存在)の 基礎領域 つまり労働行為のことですが ここでは 固有の意味で 分業=協業が 基本なのです。
言いかえれば 少なくとも 同等者の中の《労働の第一人者》は つねに複数において存在するものと思われ 従って簡単に言って 労働という徳あるいは生産という行為には 《武勇》や《祈り》とちがって 言うならばそれ自身の中に本来 《身分化[β]》とともに 《非身分化[γ]》の契機が 同時に そなわっているもののように思われる。つまり言いかえれば思惟行為の精神的・身体的な発現としての《労働》においては 労働行為によって形成される形式がもたらす《情況》あるいはその《カエサル(第一人者)》への 帰同[β》と同時に 言ってみれば 労働行為あるいはその成果の 神聖という 《自己》の行為または いま 《神》への 帰同[γ]の契機も ともに 内在していると考えられます。このことは 次のように 質において 別の事柄を意味することになると思います。
つまり ここでは あくまで[β]の形式である《貴族制》の分化として [β‐1]《労働の支配制》を 取り出していたのでしたが 《労働》という行為には 本来それじたいに [γ]の形式も そなわっているということが わかり そこから したがって [β-γ]としての《労働の支配制》 だから あるいはむしろ [β]と[γ]との両者を広く含むものとしての[α]の形式 つまり《労働の身分制=民主制》とも言うべき情況として はじめから基本的に とらえなければならないということになると思います。
これは 単純に [α]形式から 説き起こしてくれば よかったということになるかとは 思われますが 言いかえるなら 基本的な[α]の形式に立って 歴史の経・緯としての《民主化[γ]》《身分化[β]》の織り合わされた一つの基本的な形態として 取り上げるべき情況が この《労働の〔身分制=〕民主制》であるとは 考えられます。つまり もちろん これまでの議論の問題は その経糸緯糸の織り合わせ方(生産の様式)について やはり 歴史的に 具体的に 議論(実践)していかなければならないということに あるし そのようになる。
ただし もう一つ前提として 言っておかなければならないと思うことは 純粋なかたちでの[β-1]つまり《労働の支配制》ないし《労働の皇帝制》[ββ-1]が 今度は逆に 考えられないではないと思われることです。つまり簡単に言って 労働を第一の徳とする一つの情況(その限りでの全体)において 一人の労働の第一人者が 立つ場合です。ここで そのことが 問題となる。
それは ちょうど《祈りの皇帝制》において 《祈りの世界》を保守するためには 無条件にたとえば《武力》をも辞さないとするのと同じように そこでは 《労働の神聖(あるいは その成果の自己帰属の原則 つまり 労働の自由)》の世界を 獲得・維持するためには 手段をえらばないという形式が 支配的となるばあいです。これは 《労働》が [β]と[γ]との両者を――経験的に―含むことから 純粋に[β-1](つまり《労働の皇帝》への帰同)として あるいは観点を変えれば 同時に [γ-1](つまり《労働の神聖(市民主権の意)》への帰同として の形式であり情況形態であると見られます。
もし この[β-1]=[γ-1]としての《労働の支配制・皇帝制》に対して 《形式》上 批判をなすべきとするならば やはりそれは 基本的な形式の核としての[α]――《民主主義[γ]》の根拠たる神のものと 《身分化[β]》の最高善(最高身分)としてのカエサル(皇帝)とは 明確に正確に 識別すべきという形式――を 通貨していないということだと考えられます。逆に言うと [β-1]=[γー1]の形式は [α]形式を 通過したかどうかによって それじたい・またその情況全体の形態が 善悪判断(有効か無効か。有効性が現実的か あるいは 無効がただ実効を持っているにすぎないか)されるものだと考えます。
無効にもとづくもの・つまり たとえば 労働が神聖だからと言って 直接に自己が労働して得たものは すべて 自分のものだという(そういう所有の形式の)場合には そのままむしろ[ββ-1]=[γγ-1]とも言うべき《労働の皇帝 の自由(労働の自由ではなく それ)》の形式および情況形態をとって おそらく――抽象的に言うのですが―― [α]すなわち《〔わたしの〕神のものは神へ カエサルのものはカエサルへ》という基本形式が 軌道として欠けている。
すなわち《わたしの神》から形成される《民主制》を その逆において 思っており(つまり自己の神格化) 他方で 《カエサル》もしくは社会の政治(労働の成果の再分配)というその意味での《身分制》を 忘却している。
以上のように考えてくれば ぼくたちの目指す問題の焦点は この[ββ-γγ]としての《労働の皇帝制》の場合で述べるならば やはりそこにおいて 基本的な[α]の原則にもとづいた《労働の身分制=民主制[β=γ]》という形態が たとえば政治的に完成された場合は その完成段階でのことであると考えられます。
もちろん この《完成段階(それを[ω]とするならば)が 問題である》ということは この[ω]を 歴史経験的に目指してきた(目指していった)ところのぼくたちの《形式》の具体的な発現(闘い――いま たとえば [α-ω]――)が 問題であることは 言うまでもありません。
《労働の身分制・したがって民主制》を問題にして議論するならば 骨格として このような展開の見通しが 成り立つものと考えます。《情況のカエサル》への帰同によって そのように政治的に(古い皇帝から新しい皇帝へ移行することによって) 《労働の身分制=民主制》が 完成された場合では 単純に言うと そこから あらためて 類型的にはやはり 《労働の〔個人的な一人ひとりの〕皇帝制》が 推進されていくと見ることができるかも知れません。
あえて これに対して 言うとしますと この問題については ある意味でぼくなりの結論を 基本的には すでに 第三日の終わりに出していると思います。が その点にかんして 具体的に 何を意味するのかを考える意味でも この《基本的に[α]の原則にもとづいた 労働の身分制=民主制[β-γ]》の情況形態を ――善悪判断の有効な基準としては [α-ω]という形式形成の観点から―― 一層くわしく見てみなければならないと思うのです。
前置きがずいぶん長くなりましたが 前もって言っておくべきことを 一通り述べることができたと考えるのです。
この辺で 一度 ナラシンハさんのほうから この情況への視点などを述べていただくとよいと思いますが。
――このまま ボエティウス君のほうが 進めていってもらってもよいと思うのだけれど それでは 二・三 わたしのほうからも 前置きを述べて その後で 本論に入ることになるかと思います。
――あっ ぼくなりの結論というのは むしろ主観的な――[α-ω]を容れたところの――《名誉》という観点でした。《名誉の支配制[α-1]》ということになると その場合は 上の言ってみれば歴史過程的な[α-ω]の観点を 軽視するか それとも 固定・停滞させたものになる(そしてそのときには この[α-1]の形式は [β-1]=[γ-1]ならそれとしてその情況形態へいわば埋没してしまう)と考えるのです。
――その場合は [α]形式は 基本原則であり [ω]というのは 言ってみれば[β-1]=[γー1]すなわち《労働の身分制=民主制》が 歴史過程的だということを言うための助詞であるように わたしは 理解するのだが。
――ええ。《祈り》は ただ《神》というイデア(観念としての)であり 《労働》は《情況のカエサル》を無視した(無視しうる)《わたしの神》であり それらに対して 《名誉》は 《情況のカエサル》を見すえたところの《わたしの神》であるというように。
《労働》が 《わたし》の形式形成つまり社会生活の基礎であるということは [α-ω]の歴史視点を容れたところの《名誉》にもとづいて言っているか それとも 殊更 言わないとしたなら それと一体であることを 前提としているはずだという・・・。《労働》が《わたし》を生きる つまり言うなれば《わたし》するのではなく 《わたし》が《労働》する・そして全体として 生活という形式形成をおこなっていく・つまり 《わたし》が《わたしする》という・・・。
――わたしとしては むしろそのことを 《形式》の《形式》 そのまた《形式》というように はじめの自己の連乗積の形成という言い方で 述べていたのだけれども・・・。《わたし(自我)》は無であり 無として存在する つまり 《名誉》も何も言わないという・・・。
で もし これらの異同を いくらかもっとはっきりしたものとして捉えようとするならば まず ふたたび元に戻って わたしの述べた《家族》という《情況》の一領域(方向性)について 定義らしいものを 補足することから 始めたいとも思う。
確か ボエティウス君の要約の中で 《家族》は 《両親と子という永続する三角関係(それじたいとして 経験的に唯一であり また 単位的な一個の三角関係が 相続されて 永続していくところの)》であり そして 《個人は 〈家族〉をとおして 自然的な最小の形態としての類的な本質を 持っている》と述べられていたと思うのだが。
ここで 強調しておくべきことは このような《三角関係》としての基本的な《家族》の核(骨格)が 意志の《自由》あるいは精神の《帰同》という契機の かぎりなく無規定的に・つまり自由に 発現しうる領域であるということだと思います。個人という単なる一個の個別性において その《自由》ないし《帰同》(言いかえれば《信仰》)が 外界から何ら規定を受けないというのではなく むしろ家族という《三角》としての最小の類的な存在・このような核において そうであるということは――抽象的なイデア論かも知れないけれど―― 重要だと思います。
そして 個人におけるこのような契機ないし作用が 今度は ちょうど反対のものとして・つまり究極的な意志の《制約》ないし精神の《疎外》として 人為的な《自己否定》的存在として最高の類的存在の形態である《国家》(政治的な社会形態)において 発現するということも 同じく重要であることは 言うまでもないでしょうが。
もう一度繰り返しておくならば 《家族》においては いかに自由が いかに帰同が 根底的に発現されるとしても その存続は 危ぶまれるべきものではないということです。ただし そこから 《自己じてい(もしくは 外界・他者から 欺かれるという一つの否定)》が 喪失していれば 別の話ではあるのですが。
さらに ここで付け添えるとするならば そのような自由と制約 あるいは帰同と疎外との契機が ともに調和し統一されるということは 具体的に 何はそうでないかと言えば たとえば すでに《中間情況》として指摘した・他の小情況に対して これらの契機が むやみに縮小されたようにしか はたらかないとなれば それが そうではないと言えるということです。
中間情況とは 単純に言うと 国家と家族との中間であるから それは 大いに いまの《労働の〔身分制=民主制の〕場》に 重なっていると思います。これを 自由でもなければ制約でもない・つまりいづれの契機も縮小されている情況だとあえて言うのは 形式形成の普遍的な基礎である労働を 貶めるとか無視するとかしてそう言うのではなく 図式的に言ってみれば 労働の自由・そのような形式の発現が その場を中間情況だと言っておくことによって 保たれると思ったからです。
さらに図式的に言うと――きわめて機械的な類型でいうと―― わたしの考え(または 表現の仕方)では 《家族》が基本原則としての[α]形式であり 《国家》は 歴史過程(またはその段階形態)としての[ω]視点であるように考えられます。[β]の《身分制》とか [γ]の意味での《民主制》とかは したがって この《中間情況》〔における作用・形態〕であるように思います。
その意味で あらためて触れるなら このわたしたちの側からの主張は ボエティウス君から紹介のあった[α]の形式・つまり《神のものは神へ カエサルのものはカエサルへ》という原則に わたしたちの考える情況の形容として きわめて近いと言うか 同じもののように考えられます。ボエティウス君じしんの《名誉》の問題も よくわかるような気がします。
ただし なお わたしたちの情況においては そうは言わない・または そう言ってはならないというようにも 感じられます。
今度は ここで 表現の問題(歴史的に慣習などとして いわば培われたコミュニケーションの様式の問題として)ということにもなると思うのですが このことを 吟味していくと同時に いまの問題の焦点をさらに問い求め わたしたちなりに展開できるところまで 展開させておきたいというのが いまの共通の場ではないだろうか。いつも 次に本論 これからが本論 というかっこうになってしまうのだけれど。・・・
(つづく→2006-04-15 - caguirofie060415)