caguirofie

哲学いろいろ

#26

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第四日 ( z ) (情況または《社会》)

――そうかも知れない。
それでは もう一つ わたしのほうから提出してみたいと思うのだが たとえば いつか少し触れたことのある《個別性》の中の《血筋》という点なのだけれど 《労働》という徳においても やはりその徳の獲得した〔《形式》にそなわる〕《身分》が 相続されるだろうか。多分 そうなのだろうね?
――おそらく ナラシンハさんは その《身分》の中味のことを 問題になさっているものと思います。つまりその《労働》 の身分が相続されるというときには 《祈り》や《武勇》〔のそれぞれ支配する情況下で〕のそれぞれの徳によって得られた《身分》の内容とは 本質的に違った意味で 《貨幣》をめぐる《身分》(貨幣の価額を内容とする身分つまり富)が 登場しているということを おっしゃっているのではないかと・・・。
――確かに。
――そこで それでは続けますと
まず 《武勇》にそなわる《身分》は 一般に有形無形の《栄誉》です。《祈り》にそなわる《身分》は そこに経済的やら政治的やらの地位などを含めても やはり一般に《栄誉》です。もちろん それらが 《血筋》において 相続されるとするならば やはり権益やら地位やらであろうと思われますが 基本的にこのように言っていいかと思います。つまり これらの場合は あとで見る《労働の支配制》の場合とちがって それらの栄誉ある身分が
貨幣を集めることはあっても まだ基本的には 貨幣が 栄誉ある身分を獲得する段階には 到っていない。
ただし 《労働》にそなわる身分についても 同じく基本的にはまず 《栄誉》であって 事は同じであろうと言っておいたほうがよいと思います。《労働の支配制[β-1]ないし[γ-1]》の出現する情況の初めは 有形無形の《栄誉》という点で 同じではないかと思われるのです。この初めの出発以後の段階 つまり《労働の身分制=民主制》一色となった情況においては この《労働》という徳にかんしては 事情は一変すると思われます。
この事情の一変について 具体的にいかなる事態において現われてくるのか それは おそらく なぜ 《労働》の栄誉そしてその《地位》という身分の場合は 事態が一変するのか と問うことから見ていけばよいのではないか。これは ある意味で すでに触れております。
つまり 労働においては そこから第一人者が出現し それによって《身分化》が敷かれようとしても なお一人ひとりのその労働という行為じたいには その《身分化》をゆるさず つねに一人ひとりの固有の《形式》に属するという側面があるのだということです。あるいは 逆な立ち場から言って 労働の行為じたいは 主体的な・そして民主的な行為そのものではあるのだが 現実的に《情況》における行為としては やはり つねに その労働の勤勉という《徳》の多寡に応じて 《身分化》がなされることは 不可避であり またある意味で 不可欠であるだろうということ。このように述べていました。
さらに付け加えれば 他の徳・つまり《武勇》にしても《祈り》にしても 当然《労働》と同じように 基本的には 《身分化》をゆるさない主体的な側面も そしてしかも《身分化》を促すことによって その主体的な徳の面を 《情況》全体として広く発現させようとする側面も やはりともに そなわっていることに変わりはないのであって ないのだけれど ただこれら二つの徳においては ある意味で 現象的に 各個人のあいだのその徳の多寡はあまりにも大きいと言わざるを得ない。それが これまで見てきたように 《祈り》あるいは《武勇》の身分制においては [β]の方向あるいは[γ]の方向というふうに 情況〔の均衡形成〕から見るときわめて振幅が大きく広がることの原因であると思われます。
従ってそれらの栄誉ある身分の相続があるとしたら あるとしても そのような血筋の関係も [β]の方向にしろ[γ]の方向にしろ その振幅は大きいと考えられるし また逆に それが安定して相続されるとしたなら それら形式形成の基礎としての《労働》ないしその貨幣的な価値の相続によるところが大きい。
もっとも 《労働》の身分制にしても 基本出発としては [β]ないし[γ]のそれぞれの方向への振幅は 同じように大きい――つまり 一代限りであっていいとか そうでなく相続されてよいとか あるいは 一代の中で 別の人の労働という徳の成果も 貨幣で買えるものなら そのように相続してもよいとか あるいは 労働の成果は その人を超えて社会に・つまり 血筋を超えて他の人びとに 還元されるべきとかの議論 その振幅の開きは 大きい――と思われるかも知れません。ただ この場合は この労働じたいに その振幅を 基本の[α]形式に戻す作用が もともとあるのではないかとも考えます。
この点を もう少し具体的に捉えるならば まず 《労働》は 《武勇》のように 単に一回限りのものではなく またその発現が 限られた場面においてしか為されえないというわけものでもなく まさに 《日常》的であります。言いかえれば 偶有性としての善つまり力が 何らかの対象(一般に素材)さえ持つならば いつ・どこででも 発現しえて それによって労働の徳を得て その結果 《形式》形成が展開されていきます。
それに対して 《勇気》は 日常化されがたいと言わざるをえません。もっとも 《形式》形成つまり生活は そのまま日常的であり 労働以上に そうである ただし 労働がそうであるようには 日常必然化されがたいし されてはならない。
あるいは 《祈り》という思惟行為は これは 《勇気》とちがって つねに どこにおいても そして 対象が限定されることなく ほぼまったく自由自在になすことができると言えるかも知れません。ただし そうであっても やはりこれは 必然化され日常化されるということは ありません。なぜなら 《祈り》は 何者か(たとえば 自己の根源的な思考点)への帰同を目指しているわけですから 実は それは たとえ連続的な行為としてなされても その内実から言って 必然化され日常化されるという性質のものではない。つまり 同一のことを繰り返したりしないのであって 思惟は必然化するというものではない。労働もそうであるという場合には 労働の基体としてのこの思惟行為つまり《祈り》によって そうであると言ったほうがよい。また 祈りの徳は この祈りないし思惟じたいが 蓄積されることを基本としており 労働は 労働行為(その熟練など)が蓄積されると同時に その労働の成果の貨幣的な価値の蓄積を目指すことがありうる。これは 停滞することだと言うべきか 発展すると言うべきであるのか・・・。
また 労働においては 一般に ひとりの人の力よりも 二人・三人の力を合わせたほうが 量的に。また質的にも より大きな労働〔量〕を達成することができるのに対して 祈りにおいては 必ずしもふたりの人の祈りが ひとりの人のそれを凌ぐということにならない場合があるとも言えます。
このようなことから まさに《労働》においては 対象さえ存在するならば 誰においても 時と場所を問わず またひとりの人によると複数の人によるとを問わず 行為が自由にんされうるものであり そしてさらには その力が発現されれば 一般的に言って 必ずその成果が 目に見える・見えないは別として その力の発現に応じて 何らかのものとして――不首尾は不首尾として――出現するものであると言うことができます。ここにおいて 労働の行為ないしその情況としての《労働の身分制》は 労働が対象を見出す限り 一情況の内外にわたっての〔内実をともなった〕その発展の度合いにおいて その範囲において その規模において その形態の種類において そしてその無限性において まさに比類なき状況・形態を示すものと考えられます。
そしてそのとき もし 先にナラシンハさんが述べてくださった《徳》としての労働の《度量》じたいが 同じく発展・向上してゆくものとするならば それにともなって ある意味で(つまり 心理的な意味も手伝って) 経済的な必要最小限の水準も 同じく 上昇していくのであるかも知れません。そして この《度量》の向上とそして必要最小限の水準の上昇を中心として 《労働の身分制》を捉えるならば ――事実この徳の《度量》の向上ということによって ぼくたちが 誘導される面は 大きい――その情況は そのまま 《経済〔的な行為の側面〕の支配する情況》であると考えられる。
従ってまずここで 《[β-1]労働の身分制》における 事態の一変は このような意味で 《経済の支配制》(いわば 〔第二次のβ-1〕)というかたちで 現われると言ってよい。形式形成の基礎である・徳の一つの労働が 支配的となるなら この《労働という基礎の支配制・身分制(民主化の契機を含む)》は 労働という徳の度量じたいが 情況全般にわたって一様に その向上・発展が目指されることもなり それは《経済の支配制》となる。
これはそして 《貨幣が主要な位置を占める(なぜなら 度量の発展が その成果を貨幣価値で評定されるとしたなら その場合としての)》労働の身分制=民主制[β-1]=[γ-1]ということになると考えられます。
つまり これまでの議論との関連で述べるならば 《労働の第一人者》は 必ずしも《労働の皇帝(カエサル)制[ββ-1]》へと導かれるのではなく 《経済〔関係〕の中のカエサルたち》へと変身していくものと思われます。
《経済のカエサル》という名称には この情況を捉えるための重要な契機が 含まれているように思われます。つまり それは 単に 出発点であったところの・労働の行為における雄としての有徳者であるにとどまらず そのような労働の行為が 情況全体として 集合されて形成される総体的な《関係》あるいは《形式(形態)》あるいは《制度》を 支配(ないし推進)する者というように 範疇が変質するものと思われるからです。
言いかえれば――この段階からは 哲学は 精神の哲学ないし社会(情況)の哲学を 意志(行為)の中軸として 基本としつつも それらと それらの基礎である労働との関係を ただ 見すえている・捉えているというのではなく そうではなく 意志(行為)の基礎である《労働》の領域が まず基礎として 社会(情況)いっぱいに 有機的に結び合わさって ひろがっていく この事態を 議論し対処・実践していかなければならないと思われるのですが。
そしてさらには 先ほど触れていたこととしては 基礎領域たる労働ないし経済行為の形式が 中軸領域たる意志ないし精神の形式を 凌駕し 自己のもとに従わせていく(この事態について 一つの認識として やむを得ないと言っていたのですが) この新たな経済の支配制としての情況を 論議していかなければならないと思いますが――
総体的な経済の関係・形式・制度の中の有徳者が とりもなおさず 《経済のカエサル》であり 《情況のカエサル(これは 本質的に言って 基礎領域においてだけれども)》であるということになります。しかし このカエサルの《徳》あるいはその《身分》とは 何であるのか また その経済の関係・形式とは いかなるものであるのか これを次に問わなければならないと考えます。
(つづく→2006-04-18 - caguirofie060418)