caguirofie

哲学いろいろ

#25

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第四日 ( y ) (情況または《社会》)

――以上に述べた条件のうち その第五の 条件でもあり目標でもある事柄は 《[α]形式の形式》であり 情況形態として[A]であり この《全体的な徳の度量制》は きみの言う《名誉制》とつながってくるかも知れません。
[α-ω]の視点は [A]情況の基礎である《労働の身分制=民主制 [β=γ]》を含み入れ それら基礎領域での情況形態である《労働の身分制[B]=民主制[Γ]》を捉えつつ描きつつ 情況を[A]の形態へ 歴史的に 推進していくと考えられるかも知れません。
ボエティウス君に言わせれば この一つの認識の出発点に立って 新たな善の形式としての《名誉》――たとえば [X]――が さらにこの《労働》などすべての徳を綜合するものとして考えられ そしてそれが その綜合する視点に立って《[α]形式》またはその《[A]情況》をさらに新しく誕生させるのであるということだろうと思いますが・・・言いかえると そのような条件の確立および目標の推進のために 新しい《善の形式》が いわば導きの糸として 不可欠であると主張するだろうと思うのですが・・・こうなると 逆に わたしが挙げた第一から第四の条件に対して やはり議論をつづける必要がある。
つまり やはり《労働の身分制=民主制》をさらにその内実に入って 検討していくということだと思います。したがって ここで明らかな点は この歴史経験的な[β-1=γ-1]の作用ないし情況が 同時に そのままその地点で [α-ω]の視点を 領域全体を重ねつつ 持っているということだろうと思うのです。
――ええ ナラシンハさんに従います。ここで 従わないと 《形式》の固定的な必然化だなどと言われそうですから。
――いや わたしも少し 先を急ぎすぎたかも知れない。
一つの焦点としては 先ほどわたしが[α-ω]の視点に立つべき《労働の身分制=民主制》の第四の条件として 次のことを言いました。つまり 《労働における善意の必然化・日常化が余儀なくされていても もしそれが――実際にはそのとき〈自由〉は固定化されてはいるであろうが―― なお 自己の自由な意志の発現を 残して それによっておこなわれているのであるなら 〔かんたんに言えば〕やむを得ない》ということ この点から入っていってはどうかと思うのですが。
そして このことは ある意味で すでに述べた《中間情況》のことであり また これをそのまま認めるようなことにつながる発言であるかと わたし自身 おもうのだけれど。
そこで この第四の条件の中の一つの事柄が 次のような事態を言うのではないか。つまり それは 必ずしも 《悪の必然》ではないのであって 言ってみれば わたしの立ち場から見れば 家族・国家という両極への方向性が 縮小し重なったかたちという意味で 客観分析的な概念として 《偽善 または 擬善》――その必然――ではないかと考えるわけです。これは 労働を貶めるためではなく 労働が 全行為・形式全体の基礎であるということを さらに強調するための一つの発言なのですが。それについてボエティウス君は どう思うだろうか。
――そうですね。結論として同じかも知れませんが ぼくたちの議論においては このように考えられるでしょうね。
つまり まず ぼくたちが《情況》を認識するに際して 《中間情況》というものを一応みとめることがあっても それが《中間情況》であるなら つねに そこではまだ 非個別性としての《情況》が 全域にわたってその顔かたちを現わしていないのだと考えます。従って 《個体》という形式は そこではまだ 獲得されていないというふうにです。従って その形式・善は 偽善といえば偽善だというふうにです
。別に表現するならば その《中間情況》は つねに いづれかの情況全体の形態(たとえば労働の支配制・それの行きわたって全体の形態)の 単なる一部分・一領域であると考える習慣(そのような一形式)をぼくたちが持っていることからそう見るのだと思います。ですから そうであれば もし仮りに 《中間情況》つまり労働ないし生産の一つの場において そこにおいてのみ 《形式》の完成を説くものがあるならば それは 《偽善》だということになるのだと思います。
あるいは もう一つ別に 《個人》対《情況》の闘いにおいて 《[α]の形式》の関門を超え得ない場合・つまり [β]や[γ]や あるいはそれらのさらに変形した形式などに帰同してしまった場合 それのみでは この《偽善》という規定があてはまるようにも思われます。
そうですねぇ。この[β]や[γ]ですが たとえば[β-1]《労働の身分制》という情況に対する個人の関係において すでに触れたことのある[ββ-γ]の形式・すなわち《労働のカエサル》が 《情況のカエサル》となり それによって《労働の身分制を身分化(すなわち強化)した上で その枠内での〔経糸としての〕民主制》にしても あるいは[γγ-β]の形式・すなわち《労働の神聖視》にもとづいて《労働の身分制を非身分化(つまり撤廃)した上で その形態の枠内での〔緯糸としての〕身分制》というものにしても つまりおそらくこの[ββ-γ]と[γγ-β]とは互いに重なるところがあるものと考えられますが このような形態は 理論的にも 擬似的な[α]であり また歴史過程的な視点としての[α-ω]にとってみれば 偽善的であると言うべきだと思います。
この点について もう少し触れておくならば [β-γ]の系譜としては その[ββ-γγ]の情況において 《労働》という徳の多寡によって いわゆる人の全形式を判断すべきではないという自他の関係が 支配的になり立っていると言ってよい・つまり そのように一つの善が発現すると思うのですが しかし このことの意味は まったく逆(つまり 不法)であって 実際にはこの非身分的な関係を 情況の頂点において代表する者は この関係つまり形式つまり善を 何ものにも増して保守しようとし またそのために その情況の内外に対して 絶対的な最高善として(すなわち そのように《偽善》となって) 行動することが 一般である。
そしてこのとき ナラシンハさんの思惟形式においては その《頂点》の行動は 一面ではそれが 《情況》の中の国家ないし政治の領域をになう者である限りで そもそもそのように〔少なくとも対内的に〕絶対疎外として作用することも ある意味では 了解できるとし 反面では ただしそこでは 《家族》の契機が欠けてしまっている・つまり家族も何もかもが 国家の方向へなびいていってしまっているから それは 取りも直さず 《家族》の中の《自由》ないし《帰同》が 《労働の神聖》という唯だ一つの神(思想)だけを その対象とすることによって 国家化し不自由なものとなっているということを意味する というようにおっしゃるだろうと思うのですが

  • なお ちなみに 情況のカエサルが 絶対疎外として作用することも了解できる・やむを得ないと見るというのは そのことを肯定するという意味ではなく 過程的な観点から・つまり [α-ω]の視点から まずそのことを見止めることから出発しなければならないということでしたが

それに対して ぼくたちの側からは この同じことを そうではなくて逆に 次のように見ます。つまり ここでは 第一に 《情況のカエサル》が実は 真の形式としては 無である・従って 《わたし》対《情況》の関係も 喪失してしまっておる。――なぜなら 個人一人ひとりが その《頂点》の者も含めて 《労働》という《わたしの神》に仕えていることになる(そのように一方的・一面的に帰同している)と思われるからです。
しかし これを《偽善》とは言わないまでも――ちなみに 《偽善 hypocrite 》とは 《ひそかに( hypo- )批評家( crite = critic )となる》・すなわち 自他の形式を判断( krino )し これを隠している者を言うのですが―― 先ほどのナラシンハさんの問いかけにあったように いわば一つの均衡形式としての[α]を基本として その前後あるいは上下または左右を [β]ないし[γ]が さまざまな形態をとって 覆っているということは ある意味で必然であり 避けられないもののように思われます。
また 次の二つの理由から 避ける必要はない(言いかえると ぼくたちは 必然を避けてはならない)ものと考えられます。理由のひとつは [α]は実際には[α-ω]視点として 単に均衡形式であるのではなく 歴史過程的(発展的)であるしかないからであり もう一つの理由は [β]ないし[γ]の変形形式が もし偽善だとすれば しかしこれも 善を標榜しているのであって これを避けることなく おつきあいし おつきあいしていけば 上の第一の理由によって 過程発展的に それが《偽りの》善だということは わかってくるはずだからです。ナラシンハさんが 《やむを得ない》と言った意味は ぼくの理論では こうなると思います。
――そうかも知れない。
(つづく→2006-04-17 - caguirofie060417)