caguirofie

哲学いろいろ

#33

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第五日 ( gg ) (社会または《歴史》)

――・・・ただし さらにここでもう一点 ボエティウス君の側の《段違いに変形された形式》という側面から わたしたちのいま述べた情況を あらためて認識しようとするならば(それは できると思うのですが) 次のようになると思います。
まず わたしたちの基本的な主張は 《無駄という形式》ないし《どうでもよい関係》というものだったことを想い起こしてもらいたい。そのような想起が持たれるはずです。そこで その意味するところは 《形式》に内在する《善》は 偶有性としてあるのだから 原則として つねにそのように保ちうる《形式》が 肝要なのだということでした。そしてこのことは ここで 取りも直さず 《形式》のすでに形成された部域ないし形成過程それじたいには 必ずしも参与せず つねにただ そこに控えている部域について見れば むしろこの部域は 《形式の余剰》ないし《あそび》としてあって それをたえず 必然化・日常化させるということはなく・つまり 《あそび》はあそびであって そのように保ちたい ということを意味する。そしてここでは そうである限りで 《形式の余剰》は そのまま《徳の余剰》であり 《あそびという精神》であり またそれは とりもなおさず 《精神の余裕》でもあるということでした。
そしてさらに そのような 《精神》の固有の幅(つまり自由)を制約されずに 保ちうる《形式》にあっては 時に《無形式》という《悪》(その行動)に対しては 粋なはからいが 編み出され得て また そのような《ユーモア》が 一般にも貴ばれる情況が 形成されるものと考えれられるし 考えられたと思われる。また 逆に言えば そこでは 《形式》対《無形式》の対立する情況が 時に見られ そしてそのことが示すように まだこの段階では 《形式の余剰》が さらにそれじたい 《形式》として必然化するということには 到っていないと思われる。そこで 次に ボエティウス君が指摘してくれたように 《形式の余剰》が《形式》化される段階では 従ってつまり すでに見たように《段違いに断続する形式》によって交通するという情況では そこでただちに言えることは 対立ないし関係としては 《形式》対《無形式》というのではなく むしろ《〔変形された〕形式》どうしの・または《変形された善》どうしのそれ(時に闘い)であると思われる。
そして同じく そこでは《形式の余剰》が 一定の《形式》となされたのであるから――これが 《中位情況》の一つの基本形態であるわけですが―― もはや 一般に《あそび》も《精神の余裕》も その《超度量》という一形式そのものとしてあり 《あそび》はあそびとして発現されがたく つまり《労働》化されていき 同じくそのようなユーモアの基盤も 崩れ勝ちである。第二次的な形式としていわゆる《形式化》していくと思われる。
以上が 《段違いの断続交通》という観点から見たわたしたちの言う《中位情況》の客観的な一つの認識ということになります。つまり 《余韻》が 中位集中して 形式化し 《あそび(余剰)》が形式化して 《労働》となる ゆえに むしろ 《段違い》ではなく《〔形式本体と 余韻ないし余剰との〕段位の倒錯》であり 《断続》ではなくむしろ すべての行為の《連続(継続関係化)》すなわち《中位縮小化された日常性および政治の 必然化・固定化》であると考えます。
一点だけ要約して繰り返すならば このようにわたしたちの間では ボエティウス君の認識する理論が そのまま 歴史の推移として一貫性をもったものとして 受け入れられるということに 変わりなく しかも この認識理論じたいには 縁がうすいということになります。
ただし その行為のつど その現時点において やはり全面的にと言ってよいほど 大きな視野をひらいてくれると思われ かつまた その共有される視野としては 認識の推論というよりも 一般にむしろ認識の結果・つまり 《形式の形式》〔としての認識〕が 視点をやや移動させるかたちで そのまま わたしたちの《存在(善)》をつらぬいているように思われるというそのことです。
そのような意味あいにおいて ボエティウス君の論述を受け止めているということを ひとこと 言っておきたかったのです。
それでは ボエティウス君 どうか 今日の本論に入ってくれたまえ。
――ええ。・・・
《中位情況的な情況》とは――なかなか面白いと思ったのですが―― それは ある一定の空間を共有する《〔中位の〕情況》が 《情況》全体の基本的な・そして根強い単位となって 形成されるという観点から 見られている。そして そこでは 個々の《中位情況》ごとに それぞれの《形式の余韻》が あらたに形式化され これが いまひとつ別の余韻ないし《雰囲気》となって 独自に潜在的にも根強くかたち作られているかも知れないという・・・そのように思われる。
このように解釈してよいかと思うのですが もしそうすると それに対して ぼくたちの観点は そうではなくて 《形式の中位情況化》の代わりに 《段違いの断続化》の側面を見るということから その《段位》の差 および《断続性》の間隔の差 これらによるそれぞれの階層別の情況――あるいはそれは《身分》――を 問題にすることになります。
もっとも このような《身分》を問題にするということは それが 《情況》の古い形態の部分を代表するようなかたちで 情況全体が浮き彫りになるという限りで 新しい[α-ω]視点に立つ《形式》の形成ないし闘いの上での――つまり あくまで そのような 《情況》全体ないし《情況のカエサル》に対する関係においての――その対象としてのことですが。
そして 《形式》形成と言えば ここ[β-1]・[γ-1]では 最初に述べたように もはや《変形された類的な存在》への関係・形式の以外にないということで 今 それを仮りに 《中位情況》に置きかえてみれば 問題は 

ぼくたちの《類としての存在》が 貨幣交通的な経済関係としての《中位情況》では―― 一般に指摘されることですが―― 境位(段位)を 言わば仮想された中位へと上げて(従って 第二次の《形式》として) 機能すること

であり 同じことですが

その《中位情況》の外では 元の境位に戻って(第一次の基本形式として) 存続すること

であります。もっとも このような見方は あまりにも図式化したものであるかも知れません。つまり ここで《中位情況》の内外に二分したからと言って 《中位情況》じたいが その《形式》として 《類としての存在》の本来の境位[α]を 基盤にしていることには 変わりなく そのことを見逃してはならないとは思います。
それではここで 変則的に集中・形成されたこの《中位情況》のなかの本来の境位を発現させるためには どうすればよいかという問いが 考えられます。そしてこれが ぼくたちのこの討論でずっと 問い続けてきた当のものでもあります。
まずは このように受け止めて――ということは 前からの議論の基調を継ぐということになりますが―― ぼくたちの側の理論を いくらか展開してみたいと思うのです。つまり もう一度 ここで あらたな共通の立ち場を確認しておくなら 視点に違いはあるけれども 言いかえると 《中位情況》の視点をとるか取らないかに違いはあるけれども 共通の問題は いまのあらたな労働の身分制・民主制の情況にどう対処していくかということにある。このような出発点(再出発点)かと思います。
次には ぼくたちなりの考え方をまず述べて それによって ナラシンハさんたちとの異同を確認し そうして 共通の問題点への対処の仕方を 議論していくというふうな恰好で・・・。
――ええ。わたしの先ほどの本論は 先を越したところがあると思うのだから。
――はい。次のようであります。
そこで まず考えられることは 

《[β-1]・[γ-1]の単なる身分制・民主制》および《[ββ-1]・[γγ-1]の皇帝制・純一民主制》の 二つの道のいづれにおいても [γ]と[β]つまり《民主化》と《身分化》との経糸緯糸とを それぞれ情況に応じて織り合わせるということ・そうして 発展過程をただる均衡形式の[α]を回復するのだ。

という解答が 得られると思います。これは ナラシンハさんが指摘されているように お国柄によって 一般的な《形式》が その《余韻》として異なることなどを除けば 情況の形態として表象されうる限りの解答として原則であろうと考えます。
(つづく→2006-04-25 - caguirofie060425)