caguirofie

哲学いろいろ

#41

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第五日 ( oo ) (社会または《歴史》)

――この風景ないし《風土》が 根強いところの社会に対して そうではないとも考えられるところのボエティウス君たちの社会では 善の余韻ではなく 善(形式)それじたいの関係つまり闘争が 根強いように感じられます。さまざまな風貌のアジャータシャトルに対して そこでは 一個の言ってみれば共通の形式たるオイディプスが したがって 度量形式と余剰(超度量)形式との段違いの層に分かれて たたかっているように見えます。さまざまな風貌のアジャータシャトルの社会では このアジャータシャトルを 現実が追いかけてくるというのに対して オイディプスの場合は かれは 現実を追いかけています。
追いかけられるにしても 追いかけるにしても それが現われたのは 超度量ないし余剰形式が 支配的な位置を占めるようになったからだと思われます。したがって もはや簡略に述べるならば 互いの形式の重複(コンプレックス)を そこでは ひらくと言うよりは むしろ そのまま 閉じてしまう また なぜなら 潜在意識にあっては すでに 閉じ込んで 複合衝動をおさめているということから そのように言うことができると思われます。つまり それは すでに 余韻ないし風土を ひらききって そうして これを閉じ入れ おさめているということから 来るものだと考えられます。
あとは 現実それじしんが 自分を展開していくのだというふうにさえ 思われるのです。つまり 基本水路が 度量という形式の・一種の触手を必要としないほど 成り立っていると思われるときには。
また それゆえに(つまり《触手》――相手の顔色をうかがうためなどの――を必要としないゆえに) そこでは 形式形成が 競争・闘争となります。つまり 自由な形成が 自由な競争であって この自由な競争の結果 徳の余剰が 徳そのものと見做されることから 流れは 形式本体と余剰とに 階段差を生じて来ます。この段違いの形式の形成・競争は 特に闘争となるのは 自明です。そうして 《現実を追いかける》わけですが そう考えると むしろ 《触手》があって基本水路があいまいな方式による場合のほうが 暮らしやすいということにも なるかも知れません。そこでは ともあれ――時差・差位をともないながらも―― 《現実が追いかけてくる》からです。
ただ ここでも 言えることは 《現実が追いかけて来る》にしろ 余韻(徳の余韻)の観念的な模範形式が 支配的であってその雰囲気・風土が 人びとを覆っているならば あの複合衝動が 無意識領域へ追いやられて おさめられていたとしても その複合関係=コンプレックス的な交通は まだ依然として ひらかれていないということになるでしょう。これを開ききった場合 すでに 現実=基本水路は 成り立っているのですから 《現実を追いかける》必要はない。しかも 《段違いの断続的な》形式による交通は それを 余儀なくさせているということにもなるのでしょう。
わたしの発言としては おおかた このようであるのだけれど ボエティウス君のほうからは どうだろうか。
――そうですね。それでは ただいまの議論の中の観点をちょうど受け継がせていただいて・・・なぜなら ぼくたちの方式についても よく 触れておられたからですが・・・次のように これまでのぼくの発言をもう一度 要約しておければと考えます。
それが おそらく ナラシンハさんの議論と重複するだけではないだろうと あらかじめ 考えることには 次の理由などが感じられるからです。
つまり 今のナラシンハさんの発言からは やや誇張していえば たとえば《身分》であるとか あるいは《交通》ないし《価格関係》であるとか その他そういった具体的な個々の情況における 数量的な差異(ないし差位あるいは段違いなど) その社会的に基本的な側面には あまり こだわらないのだというような ある意味で 勇ましい響きさえ 聞こえてきたのですが いまは そんな点なども考慮に入れるとしますと 何らかの・やはり理論づけが 必要かとも 思われたからです。
いづれにしても これまでの議論について いくつかの概念を 全体的に 整理するというかたちで――ですから もはや 新しいテーマには入らないのですが―― まとめてみたいと思うのです。
まず最初に 大きく 次のように 三つの視点が これまでに得られていると考えます。これを振り返ることから 始めてみます。
その第一の視点は 最初からの視点 すなわち 個人の存在の核である《精神》の視点です。かんたんに振り返れば 精神から始まって 《知性》 そして 《意志》という実体(ペルソナ)――《形式》の三つの要素もしくは そのような行為能力――であって 《わたし》は このような実体から成る《人格》として 存在する。
人格は 理念を持ち 形式を形成し 《個人》は 《個体》となる。つまり 《わたし》は 形式形成の過程であるものでもあり 《個体》化の過程であるものでもあります。この精神の視点を わざわざ言う意味は 精神それじたいを説くためではなく いま このように議論をしている――あるいは ぼくたちが生きている・生活している――ことの出発点を いちど 確認しておくためである。《実体》というのも そのためのものであったわけです。
次に この第一の視点は やはり《イデア》であったものですから――また このイデアは 上にも言ったとおり イデア論を体系づけるためのものではなかったわけですから―― 《個体》となるところの形式の形成過程 これを 経験的にも(社会的・歴史的にも) 議論していかなければならない。はじめの出発点は この経験的な議論という実践において すでに出発をしているものであるというのが 《わたし》の現実でもあったわけです。したがって 第二の視点は 第一の視点によって《自己到来》した《わたし》が あゆみゆく過程です。
第一の視点が 精神を言うからといって その基体である《身体》を 排除していたのではない。だから この第二の視点で ことさら《身体》を言い また 身体と精神との接触領域である《こころ》を言おうとするのは 《イデア》を捉えることと イデアを用いて議論(実践)していくこととが 微妙に 異なるという理由によっています。
《善》の系列なるイデアを認識することと したがって 《善》と《悪》・または《変形された善》どうしの 現実的な関係をとらえていくこととは 微妙に 異なっています。なぜなら 第一の視点において自己到来するとき それは 《イデア論》で事足れりとするのではなかったのですから。イデア論が目的ではなかったのですから。つまり 第一の視点は 必然的に この第二の視点を 用意していると言わなければならないでしょう。
《わたし》の個体化としての《形式=内容》の形成では 形式本体に 《形式の余剰》と《形式の余韻》とが 付着しているところの《過程》が 焦点となります。形式本体は 人格であり これを認識して 主義や思想として 表現するとき 《余剰》や《余韻》と関係している。第二の視点は むしろ第一の視点と同じものであると言うためには 依然ここでも 形式本体つまり人格・《わたし》が 問題なのですから 言いかえると 余剰や余韻を 取り除くとさえ言うべき形成過程が その同じ内容となってきます。すなわち それらが必然的なものなら 余剰や余韻に そのしかるべき位置を得さしめるという問題(解決の展開過程)が それです。
理論的に――つまり 経験的な科学として―― 《形式の余剰》は 形式形成の結果・成果にかんれんしており 《余裕》とか《あそび》とかの概念によっても とらえられるのでした。《形式の余韻》は 形式(或る善)の発現の余韻であり その成果にはむしろ関係なく 形式本体にまつわりついてくるものであり 《くせ》とか《雰囲気》 あるいは 情況について見れば《風景》《風土》にまで進展しうるものでありました。
いま仮りに 記号化して 《形式》じたいを μ(ミュー) 《余剰》をμ2 《余韻》をν(ニュー)でそれぞれ表わすことにしておきます。そしてまた 余剰が 《精神の余裕・あそび》であって 余韻が《くせ・雰囲気》であってみれば これらは 《心理》にかかわっているとも考えられました。すなわち 精神と身体との接触領域 そこにおける〔心の〕動きです。
したがって この第二の視点は もう少し その外延的な内容の含みがあると考えられ 《余剰μ2》や《余韻ν》にかかわる《心理》には 《意識》と《無意識》との両領域があると考えられました。ここでも 第一の視点とのかんれんと言えば その精神は おそらく 《意識および無意識》の《心理》に対して 《潜在意識》を形成しているのではないかということだったと思います。《意識ないし無意識》は 《心》の領域としては 《感性》を含みますから たとえば《余剰μ2》がいま一つ別の形式となるとか あるいは《余韻ν》が形式形成のための強固な要因としての《触手》化するとか このような場合には この《意識・無意識》が 心理=生理的に はたらいていることだと了解することができます。《潜在意識》は これらの心理を 見守っています。
さらに この意味から 潜在意識を 意識と無意識との接点ないし それらの奥にある均衡〔発展〕の領域であると見るなら それは やはり 精神ないし形式本体の 均衡発展の原則的な視点たる[α]または[α-ω]につらなっていると考えます。意識は 《[β]身分制》を意識することもあれば 《[γ]民主制》を意識することもあります。そしてこれは 無意識についても 同じであるでしょう。つまり 何か一定の形式をとるものではありません。が いま仮りに 現行の身分制[β]という現実は 意識された現実なのだとしますと 便宜上 この意識を《[β]身分制》の契機にあてはめることにしたいと思います。
したがって この緯糸に対する歴史の経糸としての《[γ]民主化》は 無意識領域に対応するのだとなります。両者は 当然 固定的ではなく 言わば この両契機について見ても 互換性があるでしょうが 意識も無意識も どちらが どちらに先行するものでもなく それれらには 潜在意識[α]が 先行しているのだと見るぶんには 便宜上 そのように あてはめてみておきます。
そこで これらを記号化するためには もし 《精神=身体》の形式を λ(ラムダ)で表わせば 潜在意識は λの均衡発展原則の領域でありますから すなわち λ-αであり それに対して 意識は λの個別性領域――身分制のなかの――であるから すなわち λ-βであり また無意識は この議論の前提に限っての意味で λの普遍性領域――民主化への――であるから すなわち λ-γであると言い表わすことができる。以上が 第二の視点――その前提――であります。
最後に 第三の視点とは・・・

(つづく→2006-05-03 - caguirofie060503)