caguirofie

哲学いろいろ

#39

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第五日 ( mm ) (社会または《歴史》)

――もっとも ここで次に 第三として これらの《心理的な複合(コンプレックス)》は どちらの方式によっている場合でも もともと [α-ω]の《等位形式交通》のためにあった もしくは それにもとづいていたのですから それぞれともに 基本的には その積極視すべき側面を見なければなりません。すなわち その新たな一つの実態としての 消極視すべき側面とは 上に見たように わたしたちの《原始心性(呪術的な・あるいは心理=生理的な 無意識領域として指摘されるべきような 精霊憑依たる信心)》にあって これが 積極視すべきところの《イデア》たる等位形式を 捕らえ測り また 支配するという側面があるからです。イデアとは 精神〔=知性=意志〕であり 心理とは 精神と身体(感性)との接点の領域です。精霊とか心性とか言うのも この心理のことです。
この原始心性とか精霊信心とか言うものは ですから 結局  《心理》という限りで 《形式(イデア)》の発現の《余韻》であるでしょう。つまり この形式の余韻が 形式の余剰たる貨幣所有(貯蔵)=経済力の支配的な状況の出現によって  《心理》というかぎりでは 一応 情況によって認められ 新たな一形式となったものであり その消極視すべき側面としては 《余韻形式》が 一般交通のために《触手》と化したことだと考えるのです。《複合》への心理=生理的な衝動というのが この《余韻形式の触手化》のことにほかなりません。
つまり 両性の関係にかかわっている家族にしろ 一般的な関係にしろ いづれかの三角(三人のひと)の交通関係において 第三角が 他の二角と 等位であろうとするときに 心理的な複合の衝動をとおして それぞれの相手の位をうばって 余韻ないし雰囲気(自我の支配する環界)を一つの主要な《触手》として 交通(価格交渉を含みます)をおこなうという新たな実態。この場合 オイディプス・コンプレックスにあっては 三角のそれぞれの一角が 互いに種へいt系に等位であると考えられることによって 文字どおり 自然=生物学的にも 《複合》すると想像されます。
それに対して アジャータシャトル・コンプレックスにあっては 垂直的な概念としての等位であることによって その垂直性つまり時差が やはり文字どおり《時差》つまり《差位》つまりまた《断絶》となって しかも互いに《複合》――この場合は 心理的な――へと すすんでいくでしょう。《形式の等位交通》ではなく――つまり 形式は  イデアですから 経験的に言えば 《身分制》ないし《民主制》のいづれかの作用によるところの等位交通ではなく―― 心理すなわち《形式(精神)と感性(身体)との接触領域》 これを 形式だと見なしてのように そのまま心理的な等位が わたしたちの交通の基本なのだと考えられ 実行されていくでしょう。心理的な等位とは 衝動的な複合 すなわち 幻想的・呪術的・むしろ生理的な等位のことにほかなりません。
この意味での 心理的=生理的な等位・つまり 単なる複合(コンプレックス)交通というのは このアジャータシャトルの場合においても かれは ひとりの第三角として 他の二角(家族の例では 両親)に対して かれらの位をうばおうとするのですから それなりの 割って入るという一つの想像的な行動を 持ってきます。この垂直的・時差的な等位の考え方のばあいは その遅延を一たん 完全に認めてしまいます。そこで 断絶します。自分は 文字通り 時差をもって 遅れてやってきた者なのだと。時差=差位を完全に見てしまったとき しかもかれは 心理的に・想像裡に 余韻を触手たる形式として その雰囲気を武器として 断絶=差位を 克服しようとします。かれが こうして 三角関係の等位交通を犯すのは――等位のためだと思い込んで それを犯すのは――じつに オイディプスの場合とちがって 断絶の相手を 亡き者にしようとするその衝動的な行動にあります。断絶の相手を亡き者にしようというのは――あのオイディプスの場合も かれは かれの父親を殺したのですから そして アジャータシャトルも 同じように そうしようとしたのですから 両者は 方式の違いにかかわらず 同じだと見られるかも知れませんが そうではなく―― この時点では 言ってみれば この第三角たる当事者にとって その同性の他の二角のうちの一角は その存在がもはや 目に入らなくなります。そして その点では オイディプスアジャータシャトルも 同じだと考えられます。
考えられますが 両者のちがいは オイディプスは――と言っても これらは 心理的な想像の世界においてと言うことが 基本なのですが―― 現実に 異性の相手と 複合していこうとしており アジャータシャトルは 同じく現実に 異性の相手をも 亡き者にしていこう(そうすることによって 複合できるのだ)とするのです。
交通・流れ・〔価格〕関係は いわば《形式》形成の《水路》です。オイディプスは この水路(すなわち一般に《社会〔的な関係〕》のことですが)が あの貨幣所有という経済力の介入によって 切れていると見ます。この切断を 等位に回復するには さらに――やはり 経済力という人間の超度量が 介在してきているのだから この超度量という観念(想像)に促されてのように―― 心理的=生理的にも 複合しなければならないと 夢見ます。アジャータシャトルは この水路が 垂直的な等位のもとにあると見ているから そのように時差=差位をもっていても かまわないわけです。
かまわないのですが その超度量的な経済力(またそれによる情況のカエサルたる力)によって この差位が 完全なものになってしまっていると見ます。かれも 等位形式で交通することを 目指しているのですから この完全な差位たる断絶に対して やはりそれを克服し したがって 心理的=生理的に 複合しなければならないと 夢見ます。――同じ夢が オイディプスでは 文字通り現実経験的な複合へ アジャータシャトルでは 文字どおり心理想像的な複合へ それぞれ分かれて すすんでいきます。
オイディプスの夢では 家族の三角関係または政治〔としての情況のカエサル〕を 文字どおり 犯します。アジャータシャトルの 夢においては 家族も政治(国家)も それぞれ同じようにともに 文字通り心理想像の世界で 犯します。後者では 時差=差位=断絶(それは 余韻から来たものです)を 想像心理において 徹底させます。前者では 無時差=等位=継続(それは 形式から また その余韻=雰囲気をみるのではなく ただ ほかに見るとしたなら 形式の余剰をのみ見ることから 来たものです)を 徹底させます。
もともと 等位ということが大きくは 想像(イデア)のものであるからです。つまり と言っても この場合の想像は やはり心理的な想像 つまり イデアそのものではなく イデアと感性との接触ないし複合したものであります。
もしここで 《身分化[β]》《民主化[γ]》の契機も やはり作用しているのだと見なければならないとすれば それは もはやここでは 《超度量》すなわち 《度量》たる経済行為とその流れから 切断された段違いの一領域をもってきて 精神の形式については 意識を超えた無意識の領域 これを言うことによっている。すなわち その意味で 無意識的な《身分化》や《民主化》をも前提として 考えなければならないのですが
それは この前提に立つならば やはり オイディプスの複合衝動というのは 無意識的な・その意味のもとで心理=生理的な《[γ]民主化》すなわち水平的な等位交通 の徹底であろうと考えられます。アジャータシャトルの複合衝動は 図式的に言うならば 同じく《[β]身分化》すなわち新たな身分化として垂直的 つまり 心理想像の上で 先行と後発との逆転=逆立的な 等位交通 の徹底であろうと考えられます。言ってみれば 社会=政治的には どちらも それぞれの方式・それぞれの夢のかたちにおける 革命です。
《[β]身分化》――新しい身分制――の徹底とは 形式に《余韻》があって これが 《雰囲気》をかたち作ると考えられる限りで そのような《触手としての形式》が 一個の模範形式となり それが 心理想像的に 存在するとされる限りで この何らかの《模範形式(ブッダあるいは カミとなった英雄など)》の 心理想像的な・つまり観念的な 支配であるかとも 考えられます。
これによって 形式の余剰あるいは それの再形式化としての《超度量》――それは 度量たる等位形式交通に ひびを入らせたり 断絶をおこさせたりすると考えられました――を のり超えていこうという一つの方式のことであります。おそらく ボエティウス君の側では この《模範》を見ないかも知れません。《余韻》を重視しないのですから。形式じたいが イデアとして 精神の想像のものであるからです。それの模範は要らない と言うか 逆に 形式と言えば そのままが 誰にも共通のただ一つの模範であるからです。そのことは 等位形式が 水平的な像として かつ 経験的な交通においても 水平的な流れ(関係)として 見られるのですから それが 《[γ]民主化》の徹底ということと ただちに つながっているものと考えられます。そういう一つの方式だと思います。
アジャータシャトルは あのゴータマ・ブッダによって その消極視すべきコンプレックスを 解放したのですが このゴータマ・ブッダという一人の実在の模範形式は 余韻となって その後 まさにイデア論において一種の《イデアとしての模範形式(ブッダフッド)》の遍在というふうに 説かれるようになり 人びとは この遍在する模範形式によって 等位交通をおこなうことができる。また 少なくとも 人間精神の相互承認をなしうるのだと 考えていきました。
これは あの《水路》つまりわたしたちの生活が このような共同の観念を かぶったことだと考えます。アジャータシャトルも ブッダに服したのですから 国家(政治)も したがって 情況の全体が 共同の観念(心理想像的な世界の夢)を おおいかぶることになりました。すなわち もともと 《アジャータシャトル・コンプレックス》というものは それじたいで――そこに 消極視すべき心理=生理的な複合(それが断絶の徹底によって 複合し これをもって等位交通であると信心するところの身分制支配にいたるのですから)が あるとは言うものの それじたいで―― 一つの方式のもとにおける《等位形式交通》を 構成していました。これが 《形式の形式(形式の自乗)》へ到るのではなく 《形式の余韻化・雰囲気化・また観念化》へ移り これが 共同性をもって 水路をおおうようになったと考えられます。
つまり そのようにして コンプレックスの原始心性的な衝動を 解放したということです。つまり まだ 解放していないということです。ブッダが アジャータシャトルを解放したということと ブッダの余韻が 人びとを解放することとは 別のことですから。なぜなら 《余韻》とは 本来 過去と現在との不連続を見るための概念であり それによって 現在時の形式形成が 生きた等位であることを目指すためのものであったのであり 過去の《余韻》が現在の人びとをもし 解放しうるとするなら それは 現在と過去との連続を言っていなければなりません。連続であると言うには 等位形式交通を水平的に見るという方式でなければなりません。その現在時ごとに 水平的であることによって 水平という類の関係が 過去からずっと 連続している つまり 《形式》のみがあって あるいは 高々 その余剰がほかにあるのみであって 余韻とか雰囲気はもはや 何の意味もなさないということでなくては なりませんから。
おそらく 抽象的なイデアたるブッダという模範形式の遍在 これによって 超度量たる経済力の支配制――だから そこにおける度量の遮断 水路のひずみ――から 人びとが解放されると説くことは 実在のブッダの現在時にあっては アジャータシャトルを かれの無意識領域における複合衝動から 解放したのだということを示しているとしても いまにもこれをもって 水路の共同的な観念の基本とすることは おそらく 意識的な複合衝動を 無意識の領域において 解放しているのだと 別のかたちで 夢見ていることにほかならないと思うのです。
かつては 無意識領域の意識的な解放であったのが いまでは 意識領域の無意識的(余韻=雰囲気的)な解放〔という共同の観念〕になっています。実際の《価格関係》が そのようであって そこでは 《等価交換》は 《余韻としての雰囲気としての 無意識領域における だから観念抽象的な 等価》となっています。つまり 《等位交通》が 形式形成的=人格的にではなく 《余韻的・・・》に おこなわれています。
余韻が 共同の観念である《触手》になり 形式にもなっているということは 超度量が 支配しているということです。しかも 人びとは ブッダの模範形式の余韻=雰囲気によって この経済力の支配する情況のもとで余儀なくされる度量(等位形式)のひずみである超度量――それに促されて 心理的=生理的な複合衝動が起こると考えられているのです。無意識の領域で 解放されているのだと 意識しています。もしくは そう 意識していなければならないというのが 互いの等位形式にもとづく交通=生活=現実であるというわけなのです。
《中位情況》という観点にも触れるならば 日常生活たる中位上昇的な縮小 および・・・
(つづく→2006-05-01 - caguirofie060501)