caguirofie

哲学いろいろ

#29

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第四日 ( cc ) (情況または《社会》)

――・・・《労働》という徳から 《貨幣》というその徳の《象徴》が出現した情況 そこにおいて形成されていく諸形式について 述べることができたと思うのですが ナラシンハさんから見て いかがでしょうか。
――全体として よく述べてくれたのだと思います。
しかし 正直に言って ここまで述べてくれば もう後へは引けないようになったのではないか そのようにも思うのですが。
これからは 《貨幣関係》の中の《貨幣所有の関係》あるいは 《経済行為の支配制》の中の 《経済力の支配制》について あるいはさらに言いかえて 《労働》の徳は その《形式》として 《貨幣交通》において表わされるようになったが しかし そこからは 《貨幣所有》という余剰が生まれ出て しかもこの《形式の余剰》までが 独自の形式(?)をかたどって そのまま独自の情況形態となったというその情況について さらに具体的に見なければならないということになった。が今夜は もうこれで 措くことにしようじゃないか。
今日のところで 何か補足すべき点はないだろうか。
――そうですね。次回に譲りたいと思うのですが もう一言 述べさせてもらえれば 次のような点です。
ちょうど 《労働の身分制=民主制》において 《労働行為》そのものに 《普遍性》と《個別性》とがあって 前者は 《情況》としての《労働》の側面[γ]であり 言いかえれば 《社会化・非身分化》の 契機をあらわし そして 後者は 《個体》としての《労働》の側面[β]であり 言いかえれば 《個別化・身分化》の契機をあらわすというようにして
広義の《経済の支配制》[β-1=γ-1]においても 《貨幣関係》の中の《労働行為》すなわち《普遍性[γ]》と《個別性[β]》とがあるというふうにも 見ることができ ここから見直してみるべきだと思う点です。
そこで 前者の《普遍的》な面とは 各個人の《経済行為》が それぞれ全体的な《〔貨幣〕経済交通》の一部位をになって 情況全体の《流れ》を 潤わせて・しかも なだらかに流れるようにさせるという個々の役割であるのですが

  • 従って 情況の支配者としては そのような立ち場を 高次の観点から つねに保って いわば交通の整理(これによる《民主化》)をするべきなのですが

ただ それとまったく同時に 後者・つまり経済行為の《個別的》な側面も はたらいていると言うべきです。つまり まったく当然のこととして 個人が 自己の形式における自身の〔まわりの〕《流れ》を 太いものにし しかも その一部は 《流れ》から遮断して《貯蔵》にまわし この貯蔵そのものの世界においてのやはり第二次の《流れ》を作り出し そしてこの〔つまり金融の〕世界が 《経済力》として 初めの《流れ》をも統御するようにして 《情況》を 《身分制[ββ-1]》へと編成していく といった側面です。
要約すれば 《貨幣〔経済〕の関係》は 経済行為〔という《労働》〕の《普遍性》もしくは《民主化》の側面を表わし それに対して 《貨幣所有(経済力)の関係》は その《個別性》もしくは《身分化》の契機を表わしているということになります。あるいは それらは それぞれ  《労働》という《形式》の 革新的な必然化と そしてその日常化(固定的な必然化)とです。《革新》とは 偶有性の形式を 固定化させずに そのつど新たに発現させることにほかならない。そして繰り返すならば この場合の《日常化》ないし《身分化》というものは 《経済力》という《〈形式の余剰〉の〈形式〉化》――すなわち それは 幻想化・神話化とも言うべき――ではないかと思われます。
《所有》がもともと 自己による自己の存在の所有(自己到来)であったものが 《労働の成果》の所有ないし《貨幣》的な所有へと 概念を変えていったように 《経済力》という言葉も 労働ないしその総合的な力として 《自己所有》の基礎であったものが そうであることを この場合も当然 基調に保ちつつ かつ 《労働の成果の所有》と力・その《身分》の力 ないし 《貨幣所有》の力へと 形式の余剰を作り出し それ自身を転化再生産していった。これは 必要最小限・度量・超度量という《徳の三つの範囲――〈形式〉上のカテゴリ分類――》を言っていると見ることができるのかも知れません。つまり [α]の基本原則たる《度量》形式が [α-ω]の歴史過程的な視点にもとづき 向上・発展することと それが 《幻想》的に《超度量[ββないしγγ]》へ膨れ上がることとは まったく別ですから。この意味では ぼくたちの《形式》=《市民生活》の 《前後・左右》の間隙――それは 《自由》であるからには つねに ありうる――が 問題である というふうに ここでは 抽象的に論議を 結論づける所以です。
――ええ なるほど。
そうすると わたしが理解するところによると あの遅れてやってきた[α-ω]の形式 のもとにある《労働の身分制[β-1]=民主制[γ-1]》を 完成させるためには 《情況》の問題として 二つの道があって まず一つは 《労働の身分制[β-1]・民主制[γ-1]》の系譜に立って 《経済の支配制[第二のβ-1ないしγ-1]》を そのままさらに 完成させていくこと・つまり 具体的には その中の《経済力の支配制[第二のββ-1]》という側面を 節制するという――なぜなら 《形式の余剰》は 一種の《あそび》であって それじたいは 何ごとについても一般に楽しいと考えられるかも知れない ことであるのだから それを廃絶するというのではなく 制御する――という道であると思われます。
もう一つは 逆に 《労働の身分制・民主制》じたいの発展を待たずに 初めから 《経済力の支配制》の発現する契機を 社会情況的に 根絶する――従って 《あそび》を極力 廃止する(それは 腐敗に到る道でしかないと 見なす)――ような力(権力)を持った《情況主義(情況のカエサル制)》 これを敷き その中で 相応の《民主制=身分制([α-ω]を目指す[ββ-1]=[γγ-1])》を 完成させていこうとする道であると思われます。

  • つまり 《情況のカエサル制》については さらに言いかえて 《労働の皇帝制[第二次のββ-1]ないし神聖制[第二次のγγ-1]》とも言える。それは 《労働の神聖》という一つの祈りを標榜する《民主制[γγ-1]》のもとで さらにこの民主制を その形態の保守のためには 武勇をも辞さぬ・つまりあるいは《祈り》の他のさまざまな様式を許さぬところの《皇帝制[ββ-1]》のことである。

そして いづれの道にしても [α-ω]の視点に立って 自己の形式を完成(過程的な完成)させるためには [β]・[γ]の双方の織り合わせ方 いや むしろ その織り合わせの拠って立つ所を――つまり[α-ω]視点にほかならないのだが これを―― さらに詳しく見る必要があるということになるのだろうね。
その中でわたしとしては 特に 今の《形式の余剰 の形式化》が 《神話化》であり《幻想化》であると述べられていたことについて・つまり それは わたしの言葉では 《あそび》の《労働》化・その《情況》化とでもなると思うのだけれど そんな点に 注目してみたいと思います。それらすべて いづれにしても 特にこの《経済力の支配制》のもとでの《形式》形成について 次回では ボエティウス君の見解を聞いてみたいものだね。
(第四日 了)(つづく→2006-04-21 - caguirofie060421)