caguirofie

哲学いろいろ

#28

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第四日 ( bb ) (情況または《社会》)

――しかし もしそうだとすると この貨幣の所有も 《情況》の形態の一要素であるなら そのことによって 《形式》すなわち《善》に属するのではないか。
おそらく 次のような意味で 《貨幣の所有》は 一般に《形式》の固有の領域からは離れているもんと思われます。つまり まず《貨幣の所有》とは 毎年の貨幣流出入の結果 その残余として 蓄積されたものであって ここでは さらにそれが 純然たる《貯蔵》として占有されるものを言うことから出発しており しかもそれが《情況》によって承認されて一つの形態となったものです。そうであるとするなら この所有が 貨幣の流れから切り離され ただそのまま貯めておかれるものである限り それは 《流れ》という関係もしくは形式から こぼれ落ちた余剰のことにほかならない。
たとえば 一般に《所有》は 言いかえれば《所有》一般は 特に労働行為によって獲得されたもの・つまり労働の成果を所有するというときは 当然のこととして 労働がそもそも形式の形成と密接にして不可分のものであることから それは本来 形式に属するものです。また 同時に それ(所有という形式)が そのまま 主体的に 労働の身分制という情況を みづから形成してきたときのそれであると言えます。そうであるにもかかわらず
そうであるにもかわらず しかし 事を 《貨幣の所有》に限れば それは 第一に 《貨幣関係》という交通形式の中から生まれ出たものであるものの 第二に ただしそれは その《貨幣交通》を一たん遮断することによって新しく生まれるもの(概念)であるということから言って 《貨幣の所有》は 《形式の余剰》であると考えます。
そして この《形式の余剰》としての《貨幣の所有》に 特有の情況・形態(貨幣そのものだけの交通)については 先ほども少し触れましたが それについても 歴史の《経緯》として それぞれ 《民主化(平等化)》および《身分化(固定的な相続)》の作用が ともに はたらいて それじしんの社会的な形態が 織られていくであろうと考えられます。その間の経・緯としては おそらく 最初は 《貨幣の所有》の第一人者が その《形式の余剰》の《形式》(?)を 情況全体にも波及させるかたちで 《身分化》を形成していき その《身分制》が徹底されれば 次に 逆に 《非身分化》が作用して その中での《民主制》が形成されていくであろう。まずこう思われ そしてさらに もしこの《形式の余剰》の《形式》が その作用のさまざまな方向への発現を終えるならば ふたたびまったく新しい《形式》が 《情況》の中に芽生えてくるものと思われます。
ここでの《形式の余剰》が 仮りに《形式》を取りうるとするなら それは 《貨幣所有の関係》として 《労働の身分制[第一次のβ-1]》から数えて 第二段階である《貨幣関係》を経たあとの 第三段階であるということになります。
いづれにしても ここで こられをひとまず 要約するならば。
まず 《所有》一般は 本来 特に《労働の身分制=民主制[第一次のβ-1=γ-1]》が形成されることによって 経済的な概念としても 出現するものであり それは 《労働の成果》の獲得――その支配(帰同)および処分(疎外=譲渡) の力の発現――として 《情況》をそれ自身として覆うに到った《形式》です。《労働の成果の所有関係》としての《労働の身分制=民主制》。
次に第二の段階として  《労働の身分制》の情況において 《労働の成果の流通》が そのまま 《貨幣による交通》として転化・形成されるならば 《労働》は 最初は第一次的に自然的なものなどを対象としていたのに対して むしろここでは その労働の媒介としての《貨幣交通》が その対象として大きな位置を占め 時に その《貨幣交通》じたいが 労働の対象となることさえあるということになり それは 全体として 《身分制的な貨幣関係》ないし《経済の支配制》という情況である。
第三の段階としては 《貨幣》が 《所有》として(所有のために)所有されることによって それが仮りに 情況における新しい善として・力として 発現するというように 一般化し そして 《情況》じたいも それを承認し そのように転化・形成された場合というものが 挙げられます。これは 第二次の《経済の支配制》に立脚したものとして 《貨幣所有の関係》と言うべきものであるだろう。第二次の《貨幣関係[第二次のβ-1]》では 労働は・従って貨幣は この情況全体の経済的な流れの中に そのまま つねに 対応しつつ 《形式》形成的に おこなわれていた。その《形式》の余剰が あらためて今ひとつの形式となってきた。ここでの 《交通関係》は 一方で それが 基本的な労働の形式[βー=γ-1]》を目指す限り 単に一方的(一面的)な[ββ]あるいは[γγ]の形態ではなく また これらを経ずして そのまま均衡形式[α]を基本としている(つまり過程的に[α-ω])と言うことができ 他方で それは単に 《形式の余剰》を《形式》形成の基盤としている――つまり言ってみれば 一つの幻想性である――とも言わなければならないという側面も免れてはいないと思われます。
蛇足かも知れませんが 《貨幣の所有》であっても 《流れ》としての《貨幣関係》の中におかれている限り それは 《形式》に属しているものです。それは 理論上あくまで 初めに行為としての《労働》があり 次にそうして《所有》した《労働の成果》を 互いに譲渡しあうという《流れ》また《交通》があり そしてそこに 《貨幣》を中心とした《流れ》が 《情況》としても 形成されるという一連の系譜に立っていると言えます。ここで 重要なことは 《労働》が貴ばれ 《貨幣》がその労働を象徴する限りにおいて 《流れ》としての《貨幣関係》は 《形式》形成の全領域[α-ω]に属していることであるという点です。
もし この系譜に立った《経済の支配制》・言いかえれば 広く《労働の身分制=民主制》というものにおいて 《情況》の形態として 非《形式》のもの・あるいは反《形式》的な事柄が 存在するとすれば それは その情況の いわば前後・左右の間隙というものであり そうであるとするなら 課題としては当然 この《形式》の《間隙》を埋めていくということだろうと思います。
つまり 長々と議論したことがらの中で ぼくたちの課題としてその中心点は たとえば 《形式》の《左右〔の間隙〕》というのは 簡単に言って [ββ-1]とも言うべき《労働の情況全体主義》または[γγ-1]とも言うべき《労働の神聖視の一辺倒にもとづくその無情況主義・そのような個人主義》であり これら左右への一方的な傾斜を [α-ω]の視点に立って [α]の原則形式に戻すことであり――つまり このような作業は 歴史の各段階を問わず そうであると思われ――
《形式》の《前〔の間隙〕》というのは この《労働の身分制[β-1]》とともに 同時に他の二つの徳の身分制・すなわち 《帝国制[ββ-3]》ないし《祈りの支配制[ββ-2]・[γγ-2]》が その情況にまだ 発現していて 発展し終わらずに 作用している事情のことであると考えられ 《後の間隙》とは 次のことです。
すなわち 《労働の身分制=民主制》の第一ないし第三の段階の情況における 《形式》の《後の間隙》とは まず 第二段階の《貨幣関係[第二次のβ-1]》ないし《経済の支配制[第二次のβ-1=γ-1]》は 一般的に言って《徳の身分制》の歴史的な系譜に立っているものの 第三段階の《貨幣所有の関係[第三次のβ-1]》ないし《経済力の支配制[第三次のβ-1=γ-1]または[第二次のββ-1(=つまり《右の間隙》の一般化形態)]》は その系譜の 余剰としての思わざる一所産であるというそのことだと思われます。
以上で ひととおり 《労働》という徳から 《貨幣》という その徳の《象徴》が出現した情況 そこにおいて形成されていく諸形式 これらについて 述べることができたかと思うのですが ナラシンハさんから見て いかがでしょうか。
(つづく→2006-04-20 - caguirofie060420)