caguirofie

哲学いろいろ

#27

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第四日 ( aa ) (情況または《社会》)

――・・・また その経済の関係・形式とは いかなるものであるのか これを次に問わなければならないと考えます。
まず 祈りや武勇の徳にそなわるところの《栄誉》は 実質的には その個人にのみ限られる・言いかえれば その個人の一代限りのものであります。つまり 《身分》ないしその《相続》という点から言って 個人の地位や 情況のその形態(貴族制など)のみが 次代へと受け継がれるにすぎないわけで それは おそらく これら二つの徳については 基本的に言って それらが個人の《形式》の全領域と その発現のつど 対応するものであるということから そうであるのだと思われます。そのように 祈りや武勇には 個人としても 情況としても ともに《度量》としての限界があるからです。
それに対して 《労働》は 必ずしも《個人》の《形式》の全領域にわたっての力の発現を要求するものではない。全領域にわたっていると言える場合も 労働をとおしての個体としての全領域であって《労働》即《生活》 《生活》即《労働》であるというわけのものではない。

  • つまり 次に述べるように 労働は 生活の基礎である。意志――祈りや勇気にかかわる――は 生活の中軸をなす。記憶――基礎および中軸を組織するはたらき――は 精神(人格)の秩序である。

しかも労働は 生活(全領域)の基礎だから その労働ないし職業に貴賎はないと言われると同時に これをもって 個体の形式の全体に 対応していると言うべきものでもない。形式形成の全体は 基礎たる労働行為をとおしてあると言うべきものだ。この前提に立って 《祈り》や《勇気》の徳は 意志の中軸として 形式の全領域にわたっていると言うことができるものであった。
そして 相続ということにかんしても 労働の《栄誉》あるいはそれに伴なう《身分》については 他の二つの徳と同じく 一世代限りの《栄誉》であることは当然として それとともに 実は 次のような全く別の一種の身分が 相続されることになります。むしろ全領域に対応していないゆえに 次のような一種の身分の相続が 可能となり また 支配的なものとなっていくと考えられます。
それは まず 当然のことながら 《労働の成果》というものです。――ただし これは 徳といった抽象的(イデア的)なものとしては 《祈り》や《勇気》の成果と同じように その栄誉は 一代限りのものであると言っておくべきだと考えるのですが―― そしてさらに その成果を測定・評価するための共通の基準(基準物)が現われています。――これは 労働が 行為全体の基礎領域であるゆえに 起こるものと思われますが―― そのことによって 《労働(労働量)》の《象徴》となったものであり 従って 自己の労働量と他者のそれとを 交換するための媒体となった基準物であり だから 単純に 直接的に言って 他者の《労働の成果》を獲得するための《ちから》・そしてさらに 他者の《労働(労働行為)》を 自己の《形式》形成の過程の中にまで取り込み取り組むための《ちから》であるもの すなわちこのようなものである《貨幣》 これは 相続されていくというものであるだろう。
《貨幣》は 《労働》が主要な《徳》・したがって《形式》であるような 《情況》の存続する限りでは その徳の〔便宜的な〕《象徴》であり 
そして 《物象》として その象徴である限り このばあいの《徳》は 世代を超えて〔物理的にも〕相続されることが 可能である。――《祈り》や《武勇》やの徳の栄誉も その身分制において 領土や人民(それらが貨幣的な評価があたえられる限りで。つまり実際には そこまで行かなかったのであるけれど)を 世代連続的に 相続したと言えるとしても これは やはり個体としてではなく 情況のシステムとして 相続したと見ることができる場合には 別とします。
しづれにしても――すなわち 経済の支配制が出現してからは 祈りや武勇の支配制における身分制(その栄誉や相続)としては あらためて貨幣的な評価価値の相続などが 現われてくると思われるのですが―― 《貨幣》は 物象としてすべての行為形式に共通であり(共通なものとして 想定・実施されたわけであり) 一般的であり そのことから 一般に個人の徳の大小が・あるいは《形式》の完成・未完成が その個人をとおして流入・流出する貨幣の量(ないしその差額)の多寡と 互いに 比例するという(そう想定される)情況の一形式・一形態が あるいは現われる時が 来るかも知れない。
ここから 《事態の一変》への《形式》的な移行は ほんの一歩です。
まず 《徳の第三の範囲》すなわち《第二の範囲たる度量を 超える量》において 《労働》が必然化され日常化されるならば そこでは 本来は《徳》を表わすところの《貨幣》 この貨幣の出入りする《流れ》の中に もはやすっぽりと 自己を置き そうして その流れをふたたび自己のものとするという事態ないし形式が 出現するものと思われます。
つまりこの《流れ》は 《貨幣》を媒介とする個人間の交通・関係にほかならず それとして そのまま 《徳の身分制》としての情況の形態をかたち作っていくと思われ このいわば《貨幣関係》としての新しい情況に対する別の関係ないし形式が あらたに出現するようにもなるということが出来ます。
《貨幣の流出入の量・関係》・言いかえれば 《経済的な交通関係》にも それが 《徳》を表わす限り 一応 三つの範囲すなわち 必要最小限と度量と超度量というものが あると考えられます。ただ 《労働行為》そのものには 物理的な《度量》として限界があるとしても ここで 《貨幣交通》という物象には 実は必ずしも 《度量》があるとは考えられません。あるいは 前に言ったように その《度量》としてあるものが それじたい 流動的であり発展しうるものであるのかも知れない。従って 《貨幣を通じての交通関係》は この発展の可能性に応じて 情況の内容(つまり形態)を 相応に 複雑なものとしていき そして そこでは 労働の対象や様式(形態)などの 量的・質的な変化あるいは拡大が ともなっているものと思われます。
こうして 複雑多岐となった《貨幣関係》は そのまま 貨幣が労働を表わし 労働がとくとされる限り 《情況》の形式および内容の双方を表わします。従って この限りでは 《貨幣関係》の中に身を置く者のなかで 自己の形式の確立者(その第一人者たち)が そのまま 《情況》の支配者とまります。
ここで 以上の《貨幣関係》という情況は 先ほどの《経済の支配制[第二次のβ-1]》とともに 基本的には 《労働の身分制[β-1]》の系譜にあって そのやはり第二段階を表わすものと思われます。《経済の支配制》という場合は 労働という徳の一般化・普遍化(ただ基礎であるだけではなく 徳の第一もしくは徳の第一で不可欠の基礎とされる)を 重視しており その意味で 《民主化[γ-1]》が 実質的なものとして 捉えられることになると思います。
ただ それには 《貨幣関係》の次のような側面(その過程的な進展)を 指摘しなければならないと思われます。
それは こうです。つまり 貨幣には 当然のことながら 物象として流通される面と 単に物として貯蔵されることが可能であるという属性があるということです。そしてこの属性における貨幣については ふたたび 貨幣関係の最初の情況 あるいはさらに《労働の身分制》の最初の段階にまでさかのぼって もう一度 新たに 説かれなければならないように思われます。
もっとも それほど大掛かりなものでもないようですが。つまり 個人の行為形式をとおしての貨幣の流出入額(その差額) これを そのまま貯蔵することができるからこそ 《流れ》つまり《貨幣関係》とそこにおける自己の位置じたいが そもそも 相続されえたのであり 従って この《流れ》の相続は そのまま《貨幣》そのものの貯蔵そしてその相続をも そのようにして 実は 情況全体としての《身分〔の相続〕制》も 形成されていたことになります。つまり この側面を いま特に抽出するとすれば それは 貨幣の《所有》という側面です。
この貨幣にかんする《所有》とは どういう《形式》をいうのか あるいは それは 《形式》とは言わないものであるのか。
結論を先に述べるとするならば この貨幣の《所有》は それが まったく純粋に《貯蔵》として見られるとき また そのような形態として存在するときには 《形式》とは切り離されたものであると考えられます。
それは まず 《貨幣》というものでも たとえば その《流れ》についてみる限り それは そこにおけるその交通を介しての関係であり 従って 個体の《形式》と十分に対応していたものであったのに対して その《貯蔵》については それがもはや この《流れ》つまり《交通》を遮断していることによって 存在するものである場合には 交通の遮断という限りで それは 無《関係》に等しいと考えられなければなりません。
ちなみに 貨幣の流れを 一たん遮断してあとで その貯蔵された貨幣を その《貯蔵》の世界で 《交通(流通)》させることが考えられますが これは 今は触れません。
それでは この貨幣の《所有》とは 何であるのか。
それは 簡単に言って この《貯蔵》が 《身分の相続制》の内容の一つとして・その情況の形態をなす一要素として 一般に承認されたものであろうと思われます。承認の仕方には 問題は残るかも知れませんが その問題を含めて 《所有》とは この限りで 交通を遮断し 無関係=無形式となった貨幣の貯蔵が これも さらに 一個の行為形式として 一般に承認されていったものだと考えられます。基本的な《所有》とは 自己による自己の所有であって 《善》とか《形式》または《一般的・全領域的な行為という意味での労働》(労働力の所有から 労働の成果の所有)といった意味内容のものだと考えます。労働の成果が 貨幣によって評価され その成果を貨幣という物として持つ ここまでも 基本的な所有であると思われ しかも この貨幣が 貯蔵され 交通の流れから遮断されたものでも ふたたびあらためて 所有の対象となったと考えられます。しかし もしそうだとすると この貨幣の所有も 《情況》の形態の一要素であるなら そのことによって 《形式》すなわち《善》に属するのではないか。
おそらく 次のような意味で 《貨幣の所有》は 一般に《形式》の固有の領域からは離れているものと思われます。
(つづく→2006-04-19 - caguirofie060419)