caguirofie

哲学いろいろ

#16

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第三日( p ) (〔精神の形式と〕《情況》)

――非常に簡潔に 前回のまとめをしてくれたと思う。ただ 痛烈な批判を浴びつづけるような気配にも なってきた。わたしの立ち場は 行為をなさないという・・・。
ただ ひとつ言えることは 基本的な点における 個人的な趣味〔と言うと いくらか茶化すかも知れないが〕であるとか 信念であるとかにもとづく部分・あるいはそのような領域については あまり 議論をつづけたくないように思うのですが ただ そのような部域はさらに その背景となっているものが あるのだということです。この背景と思われるものについて少し 思うところを述べさせてもらって その後で 次へと――たとえば 先ほど出た《身分社会》という情況の出現であるとか そこからの《都市・商業〔身分〕〔の興隆する〕社会》という情況の出現であるとかについても―― 議論をすすめたいと考えます。
個人的な・従って個性(個別性)として《信念》などに関すると思われる点の背景にあるものというのは こうです。
ひとことで言って 《論理家》と《理論家》とは ちがうというこのことなのです。
たとえば 《論理〔的な命題〕》とは――わたしたち人間の思考には 結局のところ 限界があり 世界がすべて一貫した論理的な体系においては 明かされ得ない・あるいは 少なくとも 二律背反の論理の指摘までしか為し得ないからには―― 一事象ごとの論理についてのみ 説かれうるものであり もしこのときの《論理》を 《概念》と置きかえるならば そのときは当然 自己の善(ここでは思惟の形式)をもとにして 概念を形成するのであるから それは 一事象ごとの・一過性の善の実現ということになる。言いかえれば 《論理》とは 基本的に言って その個々の現象ごと〔に限られた範囲で〕の論理であり それは 《善の偶有性》という基本形式に対応したかたちで 《一過性》としてある。

  • 普遍性としての論理 社会全体としての論理 これを ひとりの個人が 体現することは出来ないと思われる。

それに対して 《理論〔的な命題〕》とは――わたしたち人間の思考に 結局のところ 限界はあるが しかしむしろその限界があるからこそ 特に 行為をなす・為して自己を発現させるという実践的な側面においては 一過性としての・個々の《論理》を 自己に適した・固有の思惟形式(善)に応じて つまり相対的な意味あいで 論理的に体系化し・・・整合性の問題はあるけれど・・・その意味で ひとつの《理論〔体系〕》とするという時のように―― 少なくとも理論上は すべての事象について一貫性をもって その本質や法則とよばれるべきものを 説き明かすというものであるだろう。そしてその意味では 《理論》は 以前の議論と重なるかも知れないが 《善の偶有性》を 必然化し・高め・体系化させるものとして ある。
《論理》は 一事象について すなわち 局部的に 客観的・絶対的な真理(真実)であり(――そして こういうように言うとき 絶対的ということばに 特別の註をつける必要は ないと思うのだけれど――) また 局部的にそうであることによって それは つねに 全体から・あるいは時の流れから見れば ひとつの相対的な認識(行為のための一判断)である。
《理論》は それじたいの中では 論理が徹底して一貫している点において それは単に 一認識であるにとどまらず ただちに行動へと人を促すものがあり その限りでは その理論に はずれた認識にもとづくような行動は 決して許さないという主体的な側面から見て 絶対的な真理(真実)ないし行動原理(原則)である。つまり それに対して《論理》は 人を行動へ促すものと言うよりも 行動の流れの中で その時の 判断の基礎(推理・主張など)をなすものである。そしてまた 当然のことだが 《理論》は ひとりの人のそのような理論が その人にとって絶対的な行動原理であるのと同じく 別の人の別の理論は この別の人にとって認識であり行為である。
論理も 理論も どちらも 自由な《思惟》ないしその結果としての《思想》であることに ちがいないのは 言うまでもないが。
さらに次に 《論理》は現実化を欲し 《理論》は いわばすでに現実化がなされてしまっておると思われる。後者は その意味で 人をさらに新たな行動へ促す。この行動の流れの中で そのつど 前者・論理を 形成するのである。
つまり 《論理》は その場面(狭義の情況)においてそのつど その場面についての客観的な概念を形成し 従って その概念の実現を 論理に沿って 目指す。そしてそれは そのつど おこなわれるのであり その個々の場面におけるそれぞれの認識・行為のあいだには 論理的なな関連を見出す必要は まずない。
理論的にも そして論理的にも その関連をとおしての一貫性(同一性)は 自己という存在であり それは 一過性ないし偶有性としての善であるから 論理家の行動の推移は むしろ それに 終始するであろう。もう一度言っておくと 論理家には 首尾一貫性が ないのではない。《無駄という形式》なる善が それである。
しかし《理論》は むしろ すでに思惟・認識において 物事を現実化してしまっている(現実的に有効な行為を 理論的に あらかじめ 少なくとも認識している。また 認識していると主張する)のであるから 従って その場面場面に応じて すでに形成されたその理論(具体的にはその一部をなす命題)が 適用されるにすぎない。そしてそういうかたちで 行為がなされるというものである。
また 従って そこにおいて 個々の場面における〔一つの理論にもとづいた〕それぞれの具体的な情況の認識のいくつかのあいだには 当然つねに 論理的な一貫性がなければならないと考えられ しかもその反面で それぞれの場面におけるその《理論》の適用(具体的な判断)じたいにおいては 結局のところは 絶対的な論理的適合性は 何らないと考えるべきである。つまり後者の点については 言ってしまえば 現実の事象に対して 《理論》は 政治的な対応をしているにすぎない。

  • 政治とは 基本的に 国家の次元における多数の善の調整・および その調整もしくはそれじたいの善をおこなうことを通じて 国家として独立した統一的な善を実現することであり しかし ここでは・つまり日常性においては 多数の善の調整をつうじて その中で 自己の善の実現を優先的に 図るということになるのだが。

それは たとえば それが政治的な判断であるからには その後において その〔過去となった〕一つの対応(適用)があやまっていたとすれば それを訂正しうる性格のものである。基本的に言って 《概念》というものの目的が 現実化ということであるなら 《理論》は その概念においてすでに首尾一貫して現実化してしまっているのであるから 目的は――理論上は―― 果たされており いやしくも目的が果たされているところに 欠陥・誤りはないとされ もしそれがあるとするなら 《理論》の現実への適用においてであるとされる。
さらに言いかえて 《理論》は 単に一過性として推移することはなく つねに論理的に必然性のある一貫性として継続する。もし《理論》と《現実〔的な事象〕》とのあいだに 必然性がなく 論理的にも矛盾があるということになれば 過去の適用の中に 誤りを認めるのに ちゅうちょしない。そしてもし それも もはや 事態を活かし得ないとするならば それは 《理論》の死を 意味する。
そこで さらに 次のように言うことができる。
《理論家》は 行動家であり その行動においてもはや 理論と現実との適合性に対する判断以外に 認識行為は・すなわち論理ないし概念の形成は おこなわない。かれは 終始 行動の世界にある。
それに対して 《論理家》は 非行動者であり ある意味で 行動を断念してしまっている。その行動があるとすれば その行為において つねに そのつど 認識を・すなわち論理ないし理念の展開を おこなうのであり その意味では つねに 現実を みつめており それは そのまま みつめており しかも その場面で即座に その自分がかかわる範囲内での現実(情況)を みづからの認識とそれから発現する言葉(という行為)において 自分のものにしよう(あるいは 自分というものになろう)とする。
それに対して 《理論家》は すでに現実化を・つまり現実を自分のものと してしまっている。言いかえれば 《論理家》は かれ自身の論理・理念・善というものが その当座の場面にぶつかることによって 現実性をもつことを欲し つねにそう現われ出ようとするものである。

  • 行動の断念というのは いろんなふうに解されると思うのだが 理論家に対比する意味では そう表現されると思うし それは 理論の死を 知っているということとしても 考えられる。生の断念ではないから。
  • ちなみに そのように その場その場で 自己の存在が現実性を欲し 現われ出ようとするという意味に 《 existence ( ex-sistere = 外に立つ・置く)》という言葉をとるならば 論理家は その限りで existentialist つまり実存主義者である。
  • もし これに対応するかたちで 理論家を比するならば 論理をみづからの存在・有( esse )に適合するように あらかじめ体系化した自らの理論に従って行動するというとき かれは 本質主義者 esssentialist である。また この図式的な区分の限りでは 本質主義者である理論家は 本質 esse が 存在のことにほかならないのだから 存在たる善すなわちイデア論者であり このイデア論には そのまま《精神》をイデアとするものと 《物質(すなわちイデアとしての質料)》をその究極の存在とするものとに 分かれる。
  • もう一つ別なかたちで比較するならば 論理家は そのつど理念形成をなすということ・つまり形式形成としては つねに《どうでもよい〔という一定の〕形式》を保ちながら 自己の内なる理念のその場その場への発現を欲するというとき そのような発現の自由を重んじるという意味で この《無駄という形式》を大切にする。従って かれは formalist すなわち形式主義者である。
  • form は もともとギリシャ語のイデアの訳語であるから その限りで 今度は逆に formalist が  idealist・観念論主義者となり 強いてこれの対応を求めるならば matter はギリシャ語ヒュレーすなわち材木・素材・質料の訳語であるが やはり materialist としての物質論主義者ということになるだろうか。
  • ただし厳密に言えば この場合 両者は必ずしも対立していない。つまり もし対立的なかたちで対応させるならば idealist の中から唯心論者を  materialist の中から唯物論者を それぞれ狭義に取り出してくる必要があるだろうと思われます。・・・

さて 信念とか趣味とかに属する事柄としてわたしが述べたかったことは 以上のような背景なのだが さらに別の観点から もう少し触れておきたいと思います。それは 《時間》に対する観念あるいはその理念についてです。
(つづく→2006-04-08 - caguirofie060408)