caguirofie

哲学いろいろ

#31

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第五日 ( ee ) (社会または《歴史》)

――ここで問題は もう一度繰り返すならば 《善の変形》ということであり そしてそのような《類としての存在のゆがみ》を揚棄していくことにあると思われるのですが それをもし 《イデア》の領域から 考えられるものなら そうしてみたいと思うのです。
もちろん 情況の《政治》的な領域を 直接 あつかうのではないということは この政治を捨象するということではなく それをも まずは イデアの視点から 議論していこうということであります。これは 初めからの態度であったものです。
おそらくこのことは ナラシンハさんの《時間》について触れられた観点からいくと まだ何も現実性のない概念を 従って 《未来》という時間を 先取りして 形象化する(そして 時間を 直線視する)ということになるのかもわかりませんが。
――いや 必ずしも 未来を先取るからと言って すべてを理論体系におさめる行動家となるということを 意味するとは 限らない。つまり たとえば ある意味で非行動者としての論理家が ある善を・ないし或る概念を 自己の内に表象し それを自己の形式のうちにおいて発現させようと自己規定(つまり意欲)するとき それは 《内ないし外からの 何らかのことの感受》―→《その表象》―→《その意欲》―→《そして行動ないし非行動》という一連の行為において もはや《未来》時を 《現在》時へと 少なくともかれ自身としては 引き入れたということであり その意味では ボエティウス君の先取りも 《現在》時への足掛かりに属する事柄であることは むしろ まちがいでないものでしょう。
――そうですか。
――この《時間》の件が出たついでに・・・ボエティウス君の発言は まだ今日の議論の序でしかないと思うけれど 順番を少し譲ってもらって――先に――わたしたちの側のこの《労働の身分制・民主制》などの分析に対する立ち場について あらためて いくつか述べさせてもらっておきたいと思うのだが。
――そうですね。それでは ちょうど序の区切りがよいところですから ナラシンハさんのほうからも 話の前提となるものなど 述べておいてもらえれば・・・。
――ありがとう。というのは わたしたちの側では 歴史の観点としては すでに《時間》観に触れて述べたように これまでのボエティウス君の分析するような《徳の身分制》の分化・転化が ひとつひとつ連続して それぞれが 言わば或る必然的な法則にのっとって 進展するという見方があるとすれば それに対して 実に 原則的なものとして なじまないか 少なくとも不案内であるということを あらためて前もって 述べておくべきだと思ったからです。
このことは ただわたしたちの歴史的な情況つまりわたしたちの社会が そのような《徳の身分制〔の民主化への進展〕》といった歴史の見方を 謂われもなく持たなかったからではなく 同じそれを 別のかたちで 持っている そして そのことは 歴史観の基本原則たる[α‐ω]形式も そのまま 許容しているのではないかと思われるからです。
かんたんに言えば 《時間》観において 《過去》が《現在》と不連続であるのであって 《形式》が 情況の内部関係として《断続》つまり不連続であるとは 見ない だから 《度量》と《超度量(貨幣所有力の世界)》とは これも 《段違い》と見るのではなく 大きく全体としての《度量》の中で やはり過去の形式と現在の形式とが 不連続つまり《段違い》なら段違いとして おこなわれている実態があると見ることになります。
すなわち 《慈善行為》も 度量――すなわち新しい全体としての度量――のもとに おこなわれるのであって それは 段違いを 新しい形式として是認するのではなく むしろ段違い(過去と現在との不連続。もしくは 不連続となってしまったが むしろあらためて一つの連続と見なければならないという観点の生起とともに その段違い)を 埋める行為であると 見られるというのが 一般であるかも知れません。
このことは ある視点から見れば ボエティウス君の一連の論述に対して 失礼な態度をとることになるかも知れないのですが わたしたちから言わせれば 次のように受け取ることこそが ボエティウス君らのローマの知性の成果を 尊重し それをわたしたちなりに活かすことができるのだとも考えられるからです。あるいは 総じて ボエティウス君の論議は 歴史的に 《民主制[γ]》を 根幹としていて わたしたちのそれは 同じく 《身分制[β]》を一つの幹として議論することが 歴史的な実践だと考えられている ということなのかも知れません。ことは 微妙ですが とりあえず わたしたちの素朴な観点を はさませてもらいます。
それは 大雑把に言って 次の二点に要約されると思います。まず第一点は 今も述べたように 歴史的な推移として ある情況の中から新しい《身分》が 必然的に興隆するものとしての・つまり それは たとえば 《武勇〔と非武勇と労働〕の身分制―→祈りの皇帝制》そしてさらに 《労働の〔多寡に応じた と武勇と祈りとの〕身分制〔時にそこから―→労働の皇帝制〕》そしてさらに ここから一応の目標としての《労働の身分制=民主制》へというような発展としてのですが そのような見方には わたしたちは 本来 なじまないということです。ここで《なじまない》ということは 一言で言って わたしたちの間では もし そのように認識したとしても その認識そのままに行動するとは限らない そしてつねに そうである ということです。
つまり わたしたちの間では 認識というものを 決して軽視するわけではなく しかも 一たん 認識したものは 行動に際して 取り去ってしまいうるような性質であると見なされるからです。なぜなら これも繰り返しになりますが ある面では わたしたちにとって 真に貴いものは 認識によって到達したそのものであるよりも むしろ そのものの自由な発現がつねに発現しうるという状態を容れるところのやはり《形式》こそが それであるというところから来るものであるわけです。《認識》をもし《知性》だとしますと それに対して《形式》こそが重要だということは 理論的には あの《精神》の中の《意志》であり しかも 具体的な行動としての《精神》の《形式》であるといったような解釈です。このニュアンスの差は 表現上 大きな差をもたらしていると言うことが できると思います。
そこでは 簡単に言って 《過去》は一連の系譜に立ったものとしては きれいに忘れ去ってしまっているのです。忘れ去ってしまっているという形式を 表現じょう 取って現われます。もっとも この形式が あの基本形式[α]とどう かかわっているか これは 問題として 残るわけなのですが。
逆に 《過去》が 《現在》の行為を規定するという場合 それは その《現在》において その過去におけることがらの認識一般ではなく 《形式》として類似するものを《過去》に求めるというとき〔のみ〕であるのです。つまり これが 《過去》と《現在》との 不連続ないし《断続的な両者の交通》であるものと思われる。言いかえると 《変形された善の 断続的な交通》という問題は 単に《経済力の支配制》情況に初めて現われた固有のそれではなく その意味では 問題の根が深い と同時に 《現在》時においては この《断続性》も 何らかの信仰ようの形式にもとづいて そのまま[α]原則の中に おさめられ 統一的に 均衡発展していく とさえ考えられるのです。《表現》――つまり善の発現・形式の形成――の仕方として そのようである。わたしには このように思われる。
そこで そこから第二点としては 特に 今日の問題となっている《類的な存在の変形》という点にかんして それでは 具体的にどういう立ち場にあるのかと言えば それも一言で言って 歴史の観点としては この把握が 《形式》を問題とするということにおいて・また そうであるからこそ そのそれぞれの現時点において まずその認識の対象とするということ。――認識をもったなら その認識・知性を まず認識の対象としているということが 起こるのです。そういう立ち場が 形成されています。
それでは その認識とそして行為との関係は どうなのかと訊かれれば その点は もう少し発言の時間をもらって いくらか詳しく述べてみたいと思います。言いかえると この第二点が これがやはり 《形式の段違い》の問題にかかわっており 言うところは 《類的な存在の変形》を認識したなら まず この一認識を 認識行為じたいの一対象とするということであり それは 《現在》時点において すでに・ただちに 《形式の段違い》を 超えようとするということだと思います。
この第二点について もう少し詳しく発言させてもらいたいと思うのですが その議論においては すでにボエティウス君の先を越して 今日の本論にあるいは入っていくことになるかも知れません。その点 あしからずと言って ゆるされるなら 次のようです。
(つづく→2006-04-23 - caguirofie060423)