caguirofie

哲学いろいろ

#5

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§1 豹変――または国家の問題―― (5)

この問いを もし次のようなニュアンスをもって解するなら それなりの回答についても いちど見ておく必要がある。

律法が法として成って 福音がそのように一通り普遍化したときには キリスト教思想は その上に何をおしえているのか。あるいは いないのか。

という問いであり もしそうであるならば いま次のような観点を ここに提出しておくのも 無駄ではない。それは アウグスティヌスの思想についての 次のような評釈である。

アウグスティヌス神学における歴史と社会

アウグスティヌス神学における歴史と社会

R. A. Markus,Saeculum :History and Society in the Theology of St Augustine

アウグスティヌスは テオドリックから見て 一つ前の世紀の人であるが その頃にはもちろんローマ帝国キリスト教は 公認され さらに国教となっている。この意味ですでに 帝国内では 《律法が法となっていた》と言えるが このような情況の中で アウグスティヌスは 次のような社会ないし国家ないし世界の見方をしていたと説かれる。
すなわち まず かれの目の前には 二つの思想の流れがあったと思われるが それらは 一方で ギリシャ思想のそれであり つまりこれは 国家も 宇宙ないし自然の秩序を反映しうるものなのであって 秩序ある階層構成をもって しかも つねにそれを低俗な形態から高次のものへ完成させていくようにして 営むべきであり またこのとき 政治(政治家)には そのような経営を遂行しうる有徳の者があたるべきであり 同時に 教育は 理念と人とにおいて 上記のようなことのためであることを一つの理念とするべきだ――そして このようにして 国は 理想的な形態をとることができるのだ――という見方である。
他方では ヘブライ思想のそれ つまり ギリシャのそれが 空間的・制度階層的な秩序に重点がおかれているとするならば こちらでは そのような秩序の世界は その形態の如何にかかわらず 第一義的には必ずしも尊重されずに そのような政治の世界は ただ人が 一定のあいだの時間 滞在すべき場所〔として展開される〕にすぎないと見るほうに傾いているものであり そしてそのときには 社会の秩序はつねに むしろ 神の国(絶対的な法)との関連を離れては存在しえないことを示しており 従って言いかえれば 制度・形態をつうじて人間の社会的な完成を目指すというよりは ただ 特別に選良の者として 神の国を見つめ それを顕揚しあう共同体であることを あくまで 第一とする――従って くりかえせば 基本的に 世界は 一時的な滞在の場であることから 生のすべてが発するという――見方である。
そこで このような二つの見方があるとき アウグスティヌスは 経過としては 前者から後者へその重心が いくぶん移行するようなかたちにおいて 次のように考えていったと言うことができると言われる。

世界( the sphere of politics )とは 相対的で有限なものである。この有限の領域において 世界は 自律している。ただ 神の国の市民(キリスト者)にとっては まさに この世界の自治ということにおいて それ(世界)とは 無縁ではありえない。

と。そして この考えは 

人間という存在の・世界とのかかわりを見つめることを通しての そしてそれが もっとも熟した段階でのアウグスティヌスの考察の一部を成すものであり これはまた 世界( saeculum )というものを 《互いにあたかも相い容れない神の国( Civitas Dei )と地上の国( Civitas Terrena )とのあいだの 中間地帯( no man's land )として》ではなく 《これら二つの国が互いに入り組んでいて むしろその国境は分ち難く組み入っており その見分けがつけられるのは 人がただ終末を見通しえた時のみであるという そのような現実の中に 位置する或る時間帯( temporal life )として》見るというかれの理解から 発しているものである。

と言われる。
なお この結果 たとえば

《法( lawful authority )に従え》とアウグスティヌスが説くとき その言葉の向けられている第一の対象は 《自己による〔先験的な〕判断》という幻影である。

という具合に 述べられていく。・・・
この最後の 自己〔の予見的な〕裁定を戒める説には 法・不法にかんする判断において いま一つ やはり信仰の次元に上昇すると見られるような契機が なくもないと思われるが いま紹介した考え方には それとは別に 一つの重要な視点を示していると考えられるものがある。
すなわち そこには たとえば一方で 

法を法とする社会においては つねに 自然の秩序〔の形成・回復の力〕がはたらき 反映して 究極的には その社会・その法において 自由であるとか 正義であるとかが かたち作られるものなのだ。

という 自然による調和の見方を 排斥し そして他方で

〔一つの〕法を法とする社会も 一つの時間帯であり 世界の歴史から見れば つねに 旧法となったものを新しい法(不法)によって 置きかえるよう闘争することによって 究極的には 人間がその全面において 解放される社会形態(=法)( a redeemed society )を獲得することができる。

という所謂る革命による調和の見方を 基本的には やはり排斥する有力な視点が示されていると考えられる。
排斥するというのは どちらも それぞれを――あの性格分析や論理分析のばあいと同じように――至上命題とするという考え方を 〔だから これによってテオドリックの変節を 解釈しえたとするそれを〕 排除するというのである。――この点は キリスト教思想ないし ここでは アウグスティヌスにおける 普遍性のちからある点であると思われる。
以上は 《律法が 法と成って 福音が遍く 行き届いたとき キリスト教思想(いま そのような文明世界)は 何を語りうるか》の問いに対する一つの考察である。この視点は 重要であると思われ 以下でも これに基づきたいとは 考える。


ここで ふたたび われわれの問いは 

テオドリックが 不法を法としてしまって 変節を犯した事情と 現代人が 法のもとに 不法を犯す事情と いかなる関係にあるか。

ということに戻ることにしよう。また これが 本論である。

  • なお ここまでの議論において わたしは 階級関係に触れなかったが それは もし強引に一方的に言うとすれば 視野の中におさめては いるのだけれど 次の理由で この理論をとらなかった。
  • テオドリックの変節にかんする解釈としては もし ここで かれらゴート族とローマ市民とのあいだがらを 階級関係であると見ることができるとしたなら それが可能だとしたなら むしろ 容易に また 一つの明快な 納得を提供するのであるかも知れない。
  • このむしろ明快さゆえに とらなかった。また 触れたくなかった。なぜなら ひとことで言って それは 階級支配をなくすための階級闘争だと見られうるとき――そのときにも―― それがただちに 不法ないし戦争をなくすための不法という初めの論理と 同一のものだとは言えないような むしろ確かに 人間の認識があるのだけれど その反面で この解釈の明快さゆえに あの《新法による旧法の破壊への闘争》という命題を 至上のものとする考え方に 同じく容易に 導かれていかざるを得ないからである。
  • 階級関係の理論は およそ人間の自己認識にとって以下でも以上でもない全面的な現実把握があるように見える。そしてこれは この人間認識の理論を やはり同時に 至上命題としないとき――まったく そうしないでいるとき―― 現実的な正解であるように思われる。
  • ただ もし こう言うのであれば そのときには 階級意識という人間の社会的な分析は やはりこれも 不要となっているか それとも たえず つねに その行為の結果に対する判断・つまり 事後的な一解釈であるように思われる。階級関係を意識していても いなくとも テオドリックは 変節したのである。階級理論によるこれの解釈は 事後的ゆえに 明快であり――それに対して 事前的のばあいは その理論を 至上命題としたことになるであろうから―― 事後的解釈として明快でることのゆえに そこには テオドリック〔の存在〕がいるのではなく かれの行動が そこに 生きているということになる。われわれはテオドリックその人を さがし求めているのだ。
  • もし階級闘争理論が これも テオドリックその人をさがし求め得たと主張するなら――それはやはり 事後的のゆえに―― 人間が しかも同じ一人の人間が 過去と現在 現在と未来とのあいだで つねに 非連続的な存在として 生き行動していることになる。ゆえに われわれは テオドリックの時代とわれわれの現代との間にさえも 連続性の側面を問い求めつつ テオドリックその人の探求――つまり 問題解決の展開過程――に 出発したのだ。

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(つづく→2006-05-11 - caguirofie060511)