caguirofie

哲学いろいろ

#9

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§1 豹変――または国家の問題―― (9)

以下 この章への補論として述べたい。
ここでの議論は じつは 本文で 補注のようにして述べてきたところの 階級闘争史観とわれわれとのかかわりあいが その焦点であるとも考えられる。もう一つこの補論の必要となる理由は ここで キリスト教思想が その一つの基調となっていることにある。これら二点にかんして。――
キリスト教思想とのかかわりについて まず述べることから入るなら それは 具体的には ここで世界の自治様式といったものを 或る一つの発展ないし移行において捉え そのように 発展の前後にわたる二つの局面として 限るようにして 論じた点にかかわると思われる。

この二局面の論に固執するわけではないが――また それは 確かに有限=可変的で経験的という意味での 自由な一議論だと ことわっても いたのだが――まず 基本的には たしかに次のようなアウグスティヌスの思想によったものであることに まちがいはない。

アウグスティヌスにおいては ここでキリストの出現より以後の歴史に対して 聖書の預言との関連をみることは 無縁とされた。
〔すなわちたとえば ローマ帝国が キリスト教徒を迫害するという事態に対して そこに 神の国に対する敵( Antichrist )をみることも あるいは逆に キリスト教を 普遍的な宗教としてみとめたという事態に対して 神の国の成就に与かるものをみることも それぞれともに かれの思想からは はずされ 従って 《国家は 神学(すなわち 世界をいかなる位相としてみるか)に 直接にあずかるものではない( theologically neutral )》とされた。〕
( R.Markus: Saeculum )

という観点に立って すでに述べた二つの局面に限ったことになる。つまり国家あるいは社会形態のいかんにかかわらず 世界を その第一の局面としては 

《むさぼるな》という律法が知られているもとで なお《むさぼる》を《むさぼらない》として おこなうことによって 自律するもの。

というように捉える。

  • この第一の局面のさらに以前の位相として 法が持たれていなかった情況 言いかえると だから 不法という考えも 何らなかったところの情況 これを想定することもできるはずである。これは 省いたのである。

したがって 第二の局面としては ここでアウグスティヌスにならうなら 国家の視点が どうかかわっているかを論じておく必要がある。そしてこれは 補論の第一点としてあげた階級闘争史観の問題であるものである。また いま述べた第二点とのかかわりを さらに指摘しなければならないことには 上に引用したアウグスティヌスに倣うなら そこでは 《国家は 神学(ないし世界観)に対して 中立である》とされたのであるから この意味で 国家が 第二の発展局面と どうかかわるかということは 緊急の課題であるとなる。
この《豹変》の一章としては すでに われわれの結論を明らかにしたとは思うが ありうべき議論(批判)にかんして。――


まず ヘーゲルによるなら すでに見たように 国家を この世界自治の第二の局面の成立に ほぼ一義的にかかわらせているということになる。すなわち――それは 古い認識であると 言っていたものであるけれど――

[δ’] 世界は 不法がまだ法であるようなものであってはならないということは たんなる当為(あるいは律法そのもの)と解されてはならないであろう。しかし こういうことがわかるのは もっぱら ただ 自由の理念は 国家としてのみ 真実であるという認識の段階にいたってからである。

古い認識は そのことが 歴史的に起こらなかったことを意味しないのであって たしかに そうであるから 上にアウグスティヌスにかんれんして引用したように

[ζ] 〔《世界をいかなる位相のもとに見るか》という視点および 《その位相の中で 法が法であるとする》その根拠は キリスト・イエスの出現(という歴史)によって 問い求められ――〕 国家の視点は 神学において 関与しない。

という観点との 今度は 経験的・歴史的な関係具合いを 見ておく必要があるというものである。また つまり 国家は(国家も) 歴史じょう 起こったし いまも 存在する もしくは 存在すると仮定されているのだから。
いわば 図式的には この二つの観点 つまり[δ’]と[ζ]との 或る種の矛盾すなわちそれらの相克といったことが いまの焦点となるはずである。
つまり これら二つの観点は じっさいには 真の矛盾ではないであろうから 本文に述べた[α]から[ε]ないしこの[ζ]までの視点にかんする 具体的な内容としての 歴史観が焦点だということになるはずである。これは 階級闘争史観の問題と かかわっているのであった。
ここでは このかかわり――つまり最後の焦点――を 直接に論じるのではなく 次の問いのように言いかえて すすめよう。
《国家は どれだけ 普遍的であるのか。》
つまり 国家は――ヘーゲルによる限りで すなわち そのような古い認識としての限りで―― 世界自治の第二の局面に かかわっている。とき どれだけ 普遍的であるのか。言いかえると――かんたんにわかりやすく 言いかえると―― 

世界の自治様式にかんして さらにそれでは 〔国家を何らかのかたちで揚棄することによる〕あたらしい第三の局面といったものが 存在するのか しないのか。また存在させるべきか そうではないのか。

これは とうぜん 階級闘争史観の提起する問題であるから。
そして わたしたちの結論は こうである。

国家を 社会形態のありかたとして 別のあたらしいかたちへと揚げて棄てること これは ありうるであろう。

なぜなら 《国家は 世界の自治の基本的な形式(はじめの場)にとって 同じく基本的に 関与しない。=[ζ]》であったから。と同時に 

世界自治の第三の局面 これは 存在しないであろう。もしくは 存在させるべくして 存在することは ないであろう。

これである。
(つづく→2006-05-15 - caguirofie060515)