caguirofie

哲学いろいろ

#10

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第二章 《生産》としての実存行為

5 《神》のいない情況での実存行為

大岡信は 《霧のなかから出現する船のための頌歌》において 非法の世界を さらに別のかたちで 次のように描いている。

たてがみは冷える
竹やぶは鳴る
つるむ戯(たは)れ女(め)
くるしむ戯れ男(を)
洪水せまる
胴震ひのみやこ
広場の微笑は透明になる
ふるへて  (第二連)

 
   *


ふるへやまぬ磁石の針
なにかが起りつつある
なにかが
地震(なゐ)ふる なにかが


蜘蛛の巣の庭に宿る
まぼろし
千年王国


波がしら    (第三連)


〔ちなみに 大岡のこの作品は これで全体を引用したことになる。不親切ではあるが 全体をつないで読んでいただきたい〕。

《洪水 / みやこ / 千年王国》などの語からは むしろ詩人は 神のいない情況にあってそこから――漱石の先の例のように―― 神の系譜のもとでの非法・実存行為を捉えようとしていると取れなくはない。あるいは 逆に 《まぼろしの / 千年王国》というとき むしろ神のいない情況じたいをうたっているとも。――ただし この小論の初めには 神のいない情況においては 政治行為を中心とした世界として 《まぼろしの / 千年王国》じたいが まぼろしとなる とも述べていた。いづれにしても これらの点からまづ どんな情況が考えられるであろうか。

この節で述べる点を 一言で先に結論して言うならば それは 神のいない情況においては 非法の世界が 他の二契機である法と不法の世界と 具体的に密接に結ばれて現われる(それ以外にない)ということである。
《なにかが起りつつある / なにかが / 地震ふる なにかが》ではないが 非法の世界つまりたとえば端的に 求婚とその成就は 現実世界の生産行為関係に 何らかの働きかけを為し 何らかの新しい局面を作り出すことによってのみ 少なくとも建て前は 事が運ばれうるという様式である。
たとえばスサノヲが 出雲の下って 老夫婦のために ヤマタのヲロチを退治して――新たな生産行為の局面を創出したその後―― その娘のクシナダヒメを娶り 宮を築いたのは その典型的な一例であろう。それは ヲロチ(大蛇。いくつもの支流に分かれて氾濫する河)を退治して 生産行為総体の世界に 新たな局面を創出しないでは成り立たないのである。そのように基本的に 考えられる。

  • ここで 《神》のもとでの実存としての愛いのいても そこでは すでに見たように 法・非法・不法の三位一体の視点から 行為されるかぎり 非法の世界=愛 の成就は 法の世界=労働・生産 および 不法の契機=〔ここではたとえば〕思想的な立脚点とともに つねに 互いに連動して 成立するはづだと反論する向きもあるかも知れない。いま少しそのまま議論に沿って進まれよ。


この仮定した様式を スサノヲの子孫であるオホクニヌシの物語に例をとって見てみよう。
まづ 第一章にすでに述べていた事柄の中には 性関係=非法の世界の成就を通して 《世界》が 生産行為として発進するという一つの命題があった。それはたとえば 《歌垣》というような情感の共有の成立に発しているとも言ってもよかった。
たとえば オホクニヌシについて見ても 求婚の成就する物語つまりは非法の世界に意思行為が実現する挿話が 語られている。それは ヤチホコのカミ(という名でのオホクニヌシ)が 越後のある姫ヌナカハを娶るくだりである。ただ この歌のやりとりによって事が進むという命題のばあいは 広く日本の歴史においても 周知の事柄であると言ってもよい。《相聞歌》の系譜である。したがって むしろ一般的な事例として ここで例証を挙げる必要はないとしてよいであろう。――ただし この命題が スサノヲを例として 上に仮定したヲロチ退治の様式から独立して それと並行的に 一つの別の愛の実存の様式を取ると見るのは 早計である。何故なら 基本的には ことを非法の世界の初発の確立という意味での実存行為とその様式に焦点をあてるべきであり それを考察すべきだと考えるから。

  • アウグスティヌスカルタゴでの体験は 同棲というかたちの・形式に合わない言わば反様式的なものでがありながら その初発の実存として後に捉えている点は またその視点は 重要であり 基軸となっているようである。

この意味で スサノヲとオホクニヌシの場合には 次に述べるような点から やはり先に仮定した《他の二領域である法と不法の両契機と つねに 結びついて その結びつきによってのみ 非法の世界が成就する》という側面 このヲロチ退治の側面は 見落とすわけにいかないであろう。すなわち 生産行為関係の世界が 法・非法・不法の三位一体としてありその新局面を開くということが先に行なわれてこそ その初発の確立ののちにこそ いまの例で言えば《歌垣=求婚》などの別の情況が 形成され展開されるという仮説である。通俗に言えば 甲斐性がなければ嫁をもらうなということだが その意味は 経済的な問題だけを言っているものではないという仮説である。
それは 端的に言って オホクニヌシの次のような実存として描かれる様式に 実際に現われている。つまり オホクニヌシの場合 この歌のやりとりをしたヌナカハヒメへの求婚の前に 初発の実存行為として発進されたところの正妻スセリヒメへの求婚の物語があり そこに求められるべきなのである。このスセリヒメを娶る挿話に 法・非法・不法の三位一体としての《世界》の新局面の創出を見ることは 或る面では スサノヲのヲロチ退治のそれに比べると その叙述じたいは かなり遊びをともなった事例であることを示しているが 総体として見て 例証に挙げてよい。もっとも 純粋社会学として重要なのは その後に見るこの仮説のよってくる社会学的な根拠のほうである。
オホクニヌシは まづスセリヒメに 次のように偶然会って まづそのまま二人の非法の世界に入る。そして結ばれる。

 〔オホクニヌシが その兄弟たちに迫害を受け 根の堅州国に住む〕スサノヲのミコトの御所(みところ)に参到れば その女(むすめ)スセリヒメ出で見て 目合(まぐはひ)して 相婚(あ)ひたまひて 還り入りて その父に白(まを)ししく
   ――甚(いと)麗しき神来ましつ。
とまをしき。
古事記・上)

そこで この二人の非法の世界の成立は 最終的に スセリヒメの父スサノヲの承認が必要となる。そこで オホクニヌシは スサノヲから難題を課せられる。スセリヒメの助けをも得て 無事それらを切り抜ける。そのくだりは割愛するが 最終的に 花嫁の父スサノヲは 次のことばをもって ここでは オホクニヌシによって拓かれるべき世界の新局面を認めざるを得ない。すなわち

 〔スサノヲは〕故(かれ)ここに黄泉比良坂(よもつひらさか)に追ひ至りて 遥(はろばろ)に望(みさ)けて オホナムヂのカミ(=オホクニヌシ)を呼ばひて謂(い)ひしく
   ――その汝(いまし)が持てる生太刀・生弓矢をもちて 汝が庶兄弟(ままあにお
    と)をば 坂の御尾(みを)に追ひ伏せ また河の瀬に追ひ撥(はら)ひて おれ
    オホクニヌシのカミとなり またウツシクニタマのカミとなりて その我が女(む
    すめ)スセリヒメを嫡妻(むかひめ)として ウカの山の山本に 底つ石根(いは
    ね)に宮柱ふとしり タカマノハラに氷椽(ひぎ)たかしりて居れ。この奴(やつ
    こ)。
と言ひき。

《この奴》という呼びかけには 単純に スセリヒメの父親としてのスサノヲの愛が感じられるが そこでそのことを別として ここでは実際には 新局面の創出というのは さらにこの後のオホクニヌシによる その《兄弟》――《八十神》とある――に対する支配の確立にこそあるのだが いづれにしても ヲロチ退治様式と言い このスセリヒメ娶りと言い このような例には 非法の世界の実存が 世界全体としての行為関係と 具体的な新しい一局面を拓くものとして 連動しているのを見ることができる。
それは 三位一体というのだから連動するというのとは ちがう。アウグスティヌスや質料主義者のばあいにおいては 端的に言って 生産行為と連動する面とともに いやそれ以上に 生産行為としての《世界》の揚棄行為とその形態に つねに連動すると言うべきである。ただし それではこのスサノヲやオホクニヌシの様式のばあい そこに《世界》の揚棄という契機がないかと言えば そうでもない。三位一体の《世界》として 新しい局面が創出されるということは その新局面ごとに そのつど 社会的かつ平面的に 揚棄への契機がはたらくと やはり見るべきではある。歴史が非連続の連続であるとされるとき ここ(古事記)では 三位一体の新局面が 非連続的に連なってある。かれら(西欧人)においては 三位一体の愛の実存 の連続がまづ ある。この連続の中において その連続を遮断して 別の新たな連続を展開すべき新しい契機を したがって 新たな愛の実存を 説き実践する。実践しつつ説く。新しい契機とは 法と不法との対立関係から生まれ 不法の領域において新たなかたち(像)をつくり 自己を確立していく。象徴的にいえば 革命である。《まぼろし》(?)であろうと この西欧の系譜には 《千年王国》の様式がある。
それに対して スサノヲ=オホクニヌシの様式には もちろん《千年王国》はない。しかし 言うなれば 微視的な局面が それぞれ《千年王国》なのである。わざわざ 合わせて言うとすれば そうなる。


さて このような愛の実存の様式が 片や神の系譜のそれに比して どのような社会学的根拠にもとづいて成り立つと考えられるか。
それは たとえば ただちに考えられることは スサノヲにとってはクシナダヒメの そしてオホクニヌシにとってはスセリヒメのそれぞれ親の承認ということに見られるように 一般に 家の概念の重要性を語っているというのではないと 実は 思われる。それは 逆であろう。どういうことか。
結論的に述べれば。ここでは 《千年王国》じたいが まぼろしであると述べた。すなわち 非法の世界において 《神》がいない。千年王国の像によって 家族にしろ企業にしろ その経営(=愛)・非法行為を為すことができないのである。すなわち それに代わるものとして 労働にしろ 実存にしろ 生産行為として新しい局面を現実に創出する必要がある。たとえば オホクニヌシにとってスセリヒメの父親であるスサノヲの承認は 新局面を拓いて初めて 家族による承認となると同時に 世界による承認となる。すなわち《世界》が 法・非法・不法の三位一体として そのままそのつど 連動しているという〔微視的かつ巨視的な〕様式である。


ただし ここに立って 一般に西欧の思想をも受容した現代の日本の情況は 複雑であろう。たとえば ここでは 一方で 以上の仮説のそのままの系譜が有効である限り 資本家的市民の狭義の生産行為様式の中に潜む質料関係の《プラトニックな側面》 したがってそれに影響を受けるところの《プラトニックな愛〔という非法のみの世界〕》は 必ずしも 実存として 認められない事態がある。しかも 他方で 現実には 法の世界として 資本家的市民の行為様式は 社会的に優勢である。《プラトニック》は ある意味で必至である。その結果 日本人としての実存に 葛藤が起るべくして起るとするなら それは たとえばこのような愛における様式の分裂あるいは逆説ないし矛盾であるだろう。しかもそれに対して歴史を逆戻りさせることは出来ない相談である。
《非法》の世界にのみ閉じ籠もる《プラトニックな愛》は そもそも法・非法・不法の三位一体ないしその連動関係にあらずとして 基本的には 退けられる。しかも その反面で 《法》の世界の経済法則そのものの要請するところは 商品の価値関係を反映するべきその《プラトニックな性関係=対(つい)関係のまぼろし》であるといった二律背反である。
そこで次節では この日本の情況をさらに内部に入って模索しつつさらに追ってゆくこととしたい。

(つづく→2008-05-02 - caguirofie080502)