caguirofie

哲学いろいろ

#10

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§1 豹変――または国家の問題―― (10)

・・・と同時に 

世界自治の第三の局面 これは 存在しないであろう。もしくは 存在させるべくして 存在することは ないであろう。

これである。
消極的に この結論の根拠は すでに第二の局面において 国家は その基本的な原因では ないから。いくらか積極的に しかもなお消極的に その根拠は 階級闘争史観も 《法が法である――むざぼらないが むさぼらないである――ところの自治形式》を その目標としている。これは 第二の局面にほかならなかったから。
問題解決の展開過程は このように 〔井戸端会議として〕推移していくものと思われる。ここで述べた結論も じつは 依然としてむしろ あのはじめの出発点としての場の内容(=形式)にしかすぎないものなのであるが むしろこの自同律が 現実の過程(歴史)であるのではあるまいか。それは 第一の局面にあった(または 第一と第二との両局面の交錯する情況にあった)テオドリックの 人間の認識とその擁護 としての自同律であるように思われる。
こういうふうに言うことは ゆるされるであろうか。つまり われわれは テオドリックの人間認識にとって かれのありのままの姿に到達しなければならない そのとき わたしたちは 性格分析(心理学)や論理分析(哲学・政治学)や また 歴史発展の理論(経済学)等々を 用いなければならない と同時に これらをとおり越えていかなければならない それは 人間の科学が目的であるからだが なおかつ同時に そのように言うということは 人間のありのままの姿を 認識しこれを擁護することではない そうではなく 問題解決の展開過程たる場を 確認し これを擁護する――もし なんなら この場に生きるところの問題解決の主体 つまり《人間》の存在を 擁護していく――のである。
また この問い求めの場は 世界の自治形式の基本的な〔再〕出発点として 第二の局面 つまり 《法をおかさない自由――時に そのような 律法(道徳)主義――》という第一の局面から《発展》したところの第二の局面 つまり 《法を犯すことができない人間の自由(自由意志)》による自治の局面である。現代では こうだと主張するということは テオドリックの時代からの 連続性と非連続性の両面を とらえていることである。
《国家》〔という経験的な一視点〕は この世界自治の局面展開にとって 基本的に関与していないとみるのであるが その第一から第二の局面への移行にあたっては 関与したという見解が 示されたことがあったということである。言いかえると 国家は 現代でも 経験的に ないわけではないから これに対する視点を おのおのが 自由に形成し 社会的に〔綜合されて〕 展開していくというのが とりもなおさず 場の展開過程であり それとしての人間の自己認識(これが 動態)であるように考える。
もう少し論じよう。
ここで 以上のような結論をもつとき やはり 階級闘争史観は――その実際の形式は 何らかのかたちで 国家(その新しいものであれ)を 一つの拠り所としているように思われるのであるが これは 措くとしても―― この《第二の局面》に対して もし さらに新しい《第三の局面》がありうるのではないかと 自由に 主張しているのだと見るぶんには 次のように議論を展開させていかなければいけない。
かれらの言うのは 《法が法である情況じたいが ある面で 不可避・必然的に 〔新たな〕不法を 出現させてはいないか》 言いかえると 《法を法としておこなうこと自体が その一面に 〔別の〕不法〔の生起〕を 内在させていないか》 したがって 端的に 

キリストの歴史的な出現 そして これによる世界の自治局面の《発展》〔を言うこと〕によって 実際には経験的に 《国家》が存続しているとき それなのに 《世界位相の新たな局面展開は 基本的に 国家と かかわらない》と言うなら この国家という社会形態を揚棄するところの(=かつ そのとき 《法が法である第二局面じたいが 別の不法を生じさせている》としたなら これをも揚棄するところの)新しい 第三の局面を 実現させるべきなのではないか。

である。(この物言いの出てくる原因は 次の点にある。法が法である第二局面が 実際にはそこにおいては 不法を法として自治する部分領域を 混在させているという事情である。)
そして この答えは われわれは すでに述べていた。

一方で 

国家は その形態を 新しい社会形態へと 変え 移行していくことは ありうる。

他方で

この国家の歴史的移行をも見ることじたい それは 第二局面〔という視点ないし場〕の 実質的な内容であるものに ほかならない。

と。この意味では 《第三局面》の想定は 不必要であろうし また それを 至上命題として 主張するなら 有害であることになろう これであった。
ちなみに 律法主義的な自治の第一局面から 律法に死んで(つまり 法を拠り所としないで)なおかつ この律法を満たすという自治動態である第二局面への歴史的な=人間的な移行を 言ったのは 人間キリスト・イエス以外に これまでの世界史のなかに いないように思われる。
同じくちなみに 《神は死んだ》と 現代では 言われるのであるとき それは キリスト出現ののち 十九世紀近く経ってから 言われたのであるにもかかわらず その意味表示する内容というものは むしろ 《第一局面におけるところの律法(たとえば〈むさぼるな〉)という〈神〉は死んだ》ということではあるまいか。そのことに過ぎないようだ。つまり あほらしい議論なのである。
これは 人間キリスト・イエスの出現によって つまり 第二局面への移行とその展開によって そのとき 始まったのである。このとき 言われうる《第三局面》の すでに言うならば 幻想は われわれに ありえない。
第三局面の想定は 場の・位相の 局面展開ではなく むしろ この場からの遊離 ゆえに 場の放棄 であるように思われる。なんなら それは この世(つまり 世界自治の有限なる場)には属していないところの《神の国》では ある。しかし ここで 《神は死んだ》とこそ 言われるべきである。もしくは すでにわれわれは アウグスティヌスを引いて 次のように言っていた。

神の国(法)と地上の国(非法 または 不法から法への移行)とは この世で 互いに 入り組んでいる。両者のあいだに 非武装中立地帯( no man's land )は ないのだ。(←[ε])

ゆえに 

法を法とする社会も 一つの時間帯であり 世界の歴史からみれば つねに 旧法となったものを新しい法(時に 不法)によって 置き換えるよう闘争することにより 究極的には 人間がその全面的な存在のありかたにおいて 解放される社会の形態(=法)( a redeemed society )を獲得することができる。

といういわゆる革命による社会の調和の見方を 基本的に 排斥すると。排斥するのは 《究極的に 解放される》とするその《第三の局面》の想定をである。
もちろんわれわれは 逆に言って 《神の国( a redeemed society )》を 信じないわけではないのだから 言うところは この《神の国》をわれわれは すでに あれこれと詮索しない である。すでに というのは まったく の意である。なぜなら 《神は死んだ》から つまり キリスト紀元の十九世紀において このような表現が 一つの井戸端会議として なされたというなら おそらくこのテオドリックの時代から 時を経て 歴史が変わり その第一の局面からいまの第二の局面への移行が じゅうぶんに成就されたと言わねばならないから。
テオドリックの時代(五‐六世紀)は キリスト紀元後であるから われわれとの連続性を見るぶんには この大きく第二局面では その意味で ずっと《神は死んでいる》のである。つまり 第一局面は 揚棄された。
(第一章 豹変 のおわり)
(第二章へつづく→2006-05-16 - caguirofie060516)